歌わない植物博士
彼は、歌を知っていた。
正確には、歌が植物に与える影響を、理論として理解していた。
街道沿いの学舎で学んだとき、
彼は他の誰よりも早く、成長促進と音波の関係を示す文献を読み解いた。
旋律の周期、音程の安定、声帯ではなく“空気の揺れ”がもたらす反応。
植物は、音を聞いているのではない。
音に含まれる規則を、選んでいる。
それが、彼の結論だった。
「だから、歌える人が必要なんだ」
同級生はそう言った。
軽い調子で、希望に満ちた声だった。
彼は、その言葉にうなずかなかった。
必要なのは、歌う人ではない。
歌が、必要とされる場所だ。
それを、彼はすでに知っていた。
彼は歌わない。
声が出ないわけではない。
音程も悪くない。
むしろ、正確すぎるほどだった。
だが、彼の声には、揺らぎがなかった。
植物は、完璧な規則を好まない。
わずかな誤差、呼吸の乱れ、
感情によって生じる一拍の遅れ。
そうした“人間的なズレ”にこそ、反応する。
彼自身の声には、それがなかった。
谷に入ってから、彼は何度も立ち止まった。
葉の厚み、茎の角度、根の露出具合。
どれも、通常よりも慎重だ。
「ねえ」
少女が言った。
「この草、さっきより伸びてない?」
彼は膝をつき、同じ株を確認する。
確かに、葉の先がわずかに開いている。
「伸びてる……というより」
彼は言葉を選ぶ。
「準備してる」
「何の?」
「聞く準備」
少女は、喉に手を当てた。
だが、歌わない。
まだ、ここではない。
彼はそれを止めなかった。
促しもしない。
博士としての彼は、
現象を早めることを、何よりも嫌っていた。
植物は、急かされると閉じる。
開いたふりをして、記録を残さない。
だから彼は、待つ。
ノートを開き、何も書かずに、ただ観察する。
「歌わないんだね」
少女は、悪気なく言った。
「歌えないわけじゃない」
彼は答える。
「でも、歌わない」
「どうして?」
彼は少し考えた。
言葉にすると、形が崩れそうだった。
「……必要な声じゃないから」
少女は、笑った。
「声に、必要とかあるの?」
彼は、うなずく。
「ある。
少なくとも、植物には」
彼女は不思議そうに首を傾げたが、
それ以上は聞かなかった。
その沈黙を、彼はありがたいと思った。
谷の奥で、風が再び向きを変える。
今度は、一定だった。
彼は立ち上がり、前を見た。
「この先で、何かが変わる」
「分かるの?」
「分からない。
でも……準備が、そろってる」
少女は、ゆっくりと息を吸った。
まだ歌わない。
彼は、その横顔を見て、確信する。
——この人は、歌う。
だが、彼女が歌うのは、
彼の理論のためではない。
植物のためでも、学問のためでもない。
もっと別の何かが、彼女を呼ぶ。
それを、彼は博士としてではなく、
一人の観測者として、受け入れていた。
だから彼は、歌わない。
歌は、彼の役割ではなかった。
彼の役割は、
歌が起きたあとに、それを言葉にすることだった。
谷は、まだ静かだ。
だが、緑のあいだから、
確かに“聞く準備のある沈黙”が、立ち上がり始めていた。




