緑は何も語らない
風が吹く。
それだけだ。
アイレックスの石段に絡みついた蔓が、
わずかに揺れる。
葉は光を受け、
影を落とす。
それ以上のことは、
起きていない。
円形劇場の中央には、
苔が広がっている。
かつて、
何かが刻まれていた痕は、
もう判別できない。
石は、
削られもせず、
守ろうともせず、
ただ覆われている。
鳥が一羽、
縁に降り立つ。
鳴かない。
しばらくして、
飛び立つ。
それだけだ。
地下へ続く階段は、
今も存在している。
だが、
入口は半ば塞がれ、
意識しなければ
見落とすほどだ。
苔は、
階段の段数を
数えない。
誰が降りたかも、
覚えていない。
風は、
ときおり
闘技場の底を通り抜ける。
低い音が、
鳴ることがある。
だが、
それが
何に似ているかを
考える者はいない。
風は、
説明を必要としない。
研究者が来る。
測る。
書く。
去る。
草は、
それを避けない。
旅人が来る。
眺める。
写真を撮る。
去る。
葉は、
それを拒まない。
子どもが来る。
走る。
転ぶ。
笑う。
石は、
何も教えない。
緑は、
保存しない。
緑は、
伝えない。
緑は、
語らない。
それでも、
夜明け前。
風が止む瞬間。
ごく短い沈黙の中で、
どこかの葉が、
わずかに震える。
それを、
意味と呼ぶ者はいない。
だが、
その震えは、
確かにここにある。
かつて、
二人が通った場所に。
地図には載らず、
記録にも残らず、
名前も呼ばれず。
それでも、
消えなかった道の上で。
風が吹く。
それだけだ。




