同じ道を、違う時間に
谷へ続く道は、一本しかない。
少なくとも、
地図の上では。
細い踏み跡が、
何度も踏み固められ、
いまでは“正規ルート”と呼ばれている。
だが、その道が
初めて踏まれたとき、
名前はなかった。
ただ、
草を分け、
石を避け、
足場を探しながら進むしかない道だった。
その道を、
かつて二人が歩いた。
朝露に濡れた靴底。
地図と現実の食い違いに戸惑い、
何度も立ち止まった足取り。
引き返す理由なら、
いくつもあった。
それでも、
前に進んだ。
今、
同じ道を、
別の者たちが歩いている。
装備は軽く、
足取りは迷わない。
踏み跡ははっきりしている。
危険箇所には印があり、
休憩に適した岩には、
誰かの刻んだ目印が残っている。
「楽だな」
そう言って、
誰かが笑う。
彼らは知らない。
その笑いの地点で、
かつて誰かが立ち止まり、
引き返すかどうかを
真剣に考えたことを。
谷に向かう途中、
古いロープの切れ端が見える。
風化して、
ほとんど土に戻りかけている。
誰も拾わない。
「あれ、何だろう」
そう言いかけて、
誰も答えない。
重要ではないからだ。
少し進んだ場所に、
石を積んだ痕跡がある。
崩れかけているが、
人の手によるものだと分かる。
今では、
その横に
新しい標識が立っている。
役目は、
引き継がれた。
意図だけが、
失われた。
谷が見える地点に着く。
同じ景色。
同じ緑。
同じ石。
同じ風。
だが、
同じではない。
時間が、
すべてを変えている。
彼らは、
写真を撮る。
「噂どおりだな」
満足そうに言って、
先を急ぐ。
そこに、
かつて二人が立ち尽くし、
言葉を失った時間は、
写らない。
谷底へ降りる。
足場は整えられ、
危険は減った。
「昔は大変だったらしいな」
そう言いながら、
足を運ぶ。
“昔”が、
どれほど最近だったかを
知らずに。
谷の奥。
遺跡の外縁が、
見え始める。
その瞬間、
風向きが変わる。
かつて、
同じ風が吹いた。
二人は、
そこで足を止めた。
一人は、
息を整え。
もう一人は、
耳を澄ました。
今の者たちは、
止まらない。
風は、
情報のない空気にすぎない。
遺跡の前に立つ。
同じ位置。
同じ距離。
だが、
立ち方が違う。
かつての二人は、
中へ入る前に、
しばらく黙っていた。
理由は、
分からない。
ただ、
そうする必要があると
感じた。
今の者たちは、
すぐに中央を目指す。
段取りは、
頭に入っている。
「歌う場所は、ここだ」
誰かが言う。
それは、
正しい。
だが、
十分ではない。
同じ道を、
違う時間に。
同じ景色を、
違う重さで。
その差は、
わずかで、
決定的だ。
二人は、
この道を“初めて”として歩いた。
彼らは、
“なぞる”ために歩く。
すれ違うことは、
ない。
時間が、
重ならないからだ。
それでも、
道は覚えている。
誰が、
ためらったか。
誰が、
立ち止まったか。
誰が、
何も考えずに
通り過ぎたか。
人は忘れる。
道は、
忘れない。
だから、
この章のすれ違いは、
静かだ。
音も、
視線も、
接触もない。
ただ、
同じ場所に、
異なる意味が
積み重なっているだけ。




