地図に載らない谷
その谷は、地図に載っていなかった。
正確には、載せられなかったのだと、あとで知ることになる。
二人が最初に気づいたのは、道の違和感だった。
街道から外れたわけでも、迷ったわけでもない。
ただ、いつの間にか、風の向きが一定でなくなっていた。
草が揺れる方向と、雲の流れが一致しない。
鳥は鳴くが、声が反響しない。
「……静かだね」
先を歩く少女が言った。
声は小さかったが、谷はそれを吸い取ることも、返すこともしなかった。
「音が、止まってるわけじゃない」
少し後ろを歩く少年が答える。
彼は歩きながら、足元の植物を観察していた。
踏み固められた道の脇に、苔が広がっている。
色が濃い。
不自然なほど、影を選んで生えていた。
「ただ……選ばれてないだけだ」
少女は首を傾げる。
「何が?」
「この谷に、通る音が」
二人は、それ以上話さなかった。
話す必要がないと、同時に感じていた。
谷は、広くはない。
だが、終わりが見えない。
進むほどに、地形はなだらかになり、
岩は丸みを帯び、
植物は人の背丈を越え始める。
少年は立ち止まり、鞄から古い地図を取り出した。
紙は何度も折られ、角が擦り切れている。
谷の位置を確かめようとして、彼は眉をひそめた。
「……ここ、白い」
「白い?」
「何も描かれてない」
少女が覗き込む。
確かにその部分だけ、線がない。
山脈も、川も、注釈も。
「描き忘れじゃない?」
少年は、ゆっくり首を振った。
「違う。
描こうとした跡がある」
指でなぞると、紙の繊維がわずかに浮いた。
消された線。
それも、何度も。
「……消したんだ」
少女は、小さく息を吸った。
「誰かが?」
「たぶん……描いた本人が」
谷に、風が通った。
一瞬だけ、草が同じ方向へ倒れる。
少女は、その流れに合わせて、一歩前に出た。
「ねえ」
彼女は振り返らずに言う。
「この谷、呼んでないよね」
少年は少し考えてから答えた。
「うん。
でも……拒んでもいない」
二人は、また歩き出す。
足音は、柔らかく地面に吸われる。
石に響かない。
やがて、谷の奥に、緑が濃く集まった場所が見えた。
岩の隙間。
蔦に覆われた段差。
道のようで、道ではない。
少女は、無意識に息を整えた。
歌うときの癖だったが、彼女はまだ歌わない。
少年は、ノートを取り出すが、何も書かない。
ただ、ページを開いたまま、景色を見つめる。
谷は、まだ何も求めていない。
だが、
何かを眠らせたままにしている気配だけが、
確かにそこにあった。
二人は、その境界を越えた。
それが、冒険の始まりだったと気づくのは、
もう少し先のことになる。




