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南沢旧隧道の

冬になると、世界は音を閉じ込めます。

雪は足音を吸い、風は言葉の角を丸め、聞こえるのは自分の呼吸と、どこからともなく忍び込む小さな合図だけ。古い留守番電話機の「ピピッ」という音も、そのひとつかもしれません。今回は、1990年代末の北海道を舞台に、“音”が導く怪談をお届けします。鍵のきしみ、鏡の向こうの滴る水、そして誰かの「おかえり」。どうか、読みながら玄関のほうを振り向かないでください。──では、扉を、少しだけ。

冬は音が遠い。

 夜の国道を走ると、ライトの先だけが世界の全てになり、あとの景色は雪霧に呑まれて消える。大吾はハンドルを握りながら、指先の感覚がじわじわと鈍っていくのを感じていた。窓の外は零下十度。助手席の段ボール箱には、数日前に亡くなった伯父の遺品が詰まっている。カセットテープ、古い作業日誌、そして黒い卓上型の留守番電話機。


 伯父はトンネル工事の現場監督だった。十年前、山の中腹で崩落事故があり、現場は凍結。工事は計画ごと消え、伯父は町に戻って、電気店の片隅で乾電池を数える日々を続けていた。大吾にとっては、あまり語らない寡黙な人。唯一の共通の思い出は、子どもの頃に伯父のアパートで聞いた、留守電のピピッという古風な機械音だった。


 その夜、大吾は伯父の部屋の片付けを終え、留守電だけを持ち帰ることにした。理由はわからない。懐かしさよりも、もっと低いところでくすぶる感情だった。電気工事の仕事で使う工具箱みたいに、手を伸ばせば掴める確かな重み。今さらカセットテープなんて使わないのに、と自分に突っ込みながらも、彼はその黒い箱を丁寧に助手席へ置いた。


 彼の部屋は札幌の端、古い三階建てアパートの一室だ。夜更けに帰り、ストーブを最大まで上げ、手早く夕食のカップ麺に湯を注ぐ。湯気が立ち上る中で、彼は段ボールから留守電を取り出した。電源コードをコンセントに差し、電話線を分岐器に咬ませる。液晶に、緑がかった数字が浮かぶ——「0」。

 動くかどうか。

 指先で再生ボタンを軽く押す。テープの回る音、低いモーターの唸り。スピーカーから、わずかなノイズ。大吾は無意味に笑って、湯気の向こうの時計を見た。午後十一時四十二分。


 ピピッ。

「——大吾か? 聞こえるか。俺だ」


 知らない声だった。男の声。低く、かすれている。大吾は思わず椅子から腰を浮かせ、ストーブの灯油タンクに肘をぶつけた。


「ふざけんな、誰だよ。これ、伯父さんの機械だぞ……」


 留守電は続く。


「時間がない。いいか、よく聞け。お前の部屋の玄関の鍵、シリンダーを逆回しにすると、内側からでも音が鳴る仕組みになってるだろ。今から二分後に鳴る。そのとき、外に出るな。どんなにノックされても、絶対に開けるな」


 ぷつりと切れ、テープが空回りした。大吾は部屋を見回す。もちろん鍵は普通だ。シリンダーを逆回し? そんなの聞いたことがない。イタズラ電話が留守電に残るなんて、いまどきあるのか。


 だが、二分はすぐに過ぎた。時計の秒針が十二を跨いだ瞬間、玄関から微かな金属音がした。カチ、カチ。鍵穴が触れられる繊細な音。続いて、コン、コン、と控えめなノック。

 背筋に冷たいものが走る。

 偶然だ。偶然に決まってる。誰かが部屋を間違えたのだろう。大吾は息を殺した。ノックは三度、四度。やがて止んだ。廊下が静けさを取り戻す。


 その夜は眠れなかった。ストーブの灯りが弱まるたびに不安が増し、大吾は何度も室温を確認した。明け方、うとうとしたところで、ふいに目覚めたのは、あのピピッという音だった。

 留守電のランプが、赤く点滅している。着信件数「1」。

 彼はゆっくりと再生ボタンを押した。


「——大吾。たぶんまだ聞いているはずだ。お前は開けなかったな。よく耐えた。次にやることを教える。浴室の鏡を外せ。鏡の縁に白いシリコンがあるはずだ。カッターで切って、上に持ち上げれば外れる。裏側の石膏ボードに、小さな穴がある。そこに耳を当てろ」


 また、ぷつりと切れる。

 大吾は立ち上がった。知らない男の指示に従う義理はない。けれど、耳の奥に残った“お前は開けなかったな”という言葉が、なぜか彼を浴室へ向かわせる。鏡は曇っていて、縁のシリコンは黄ばんでいた。フックで止められた古いタイプだ。カッターで切り込みを入れると、簡単に外れた。裏側に灰色の石膏ボード。確かに、指の先が入りそうな小さな穴。


 耳を当てる。

 何も聞こえない。自分の呼吸だけが反響して、心拍が速い。離れようとした瞬間、遠いところで水滴の落ちる音がした。ぽた、ぽたり。続いて、何かが擦れるような低い音。

 そして——囁き声。


 ……おいで。

 ……さむい。

 ……ふたりで、あたたかく。


 身体が硬くなる。大吾は慌てて鏡を元に戻し、浴室の照明をすべて点けた。明るさが戻ると、さっきの声が滑稽に思えてくる。自分の錯覚だ。留守電? 偶然だ。鍵穴? たまたまだ。

 だが、心の中のどこかが「違う」と首を振っていた。


 その日、仕事の現場は山のほうだった。除雪の追いつかない郊外の配電盤、老朽化した照明器具の交換。日が落ちるのが早い。町に戻る頃には、すでに空は藍色に沈み、ライトの先に雪が舞っていた。

 アパートに帰ると、留守電のランプが点滅していた。着信件数「3」。大吾はコートを脱ぐのも忘れ、ボタンを押す。


「——大吾。鏡の裏の穴は、旧トンネルの換気口に繋がっている。二十年前の崩落で塞がれたが、壁の中にはまだ空洞がある。お前のアパートはその上に建っている」


 旧トンネル?

 大吾は眉をひそめた。こんな住宅地の下に?


「——話す時間がない。次は押し入れの天袋だ。木の底板が緩い。外すと、電気配線の古い分岐が見える。そこに青いビニールテープが巻かれた線がある。絶対に切るな。切るのは黒だ。短く、二度。音が止む。いいな」


 ぷつ。二通目だ。


「——もしお前が、これを聞く前に切ってしまったら……窓の外を見るな。見たら、終わりだ。片目だけでも、終わる。覚えておけ」


 三通目は、沈黙が続いた。機械の回転音と、遠くの風のうなり。そして最後に、低い声が一言。


「……帰るなよ」


 大吾は押し入れを開けた。天袋の底板は確かに釘が甘く、指でこじると外れた。埃の向こうに古い分岐箱。青いテープの線、黒い線。彼はペンチを持ったまま、手を止めた。

 切るのは黒。短く、二度。

 馬鹿げている。

 でも、従った。黒い被覆に刃を当て、ちょん、ちょんと二度。どこかで微かな音が切れ、部屋が静けさを増した。窓の外の雪も、さっきより音を吸っているように感じられた。


 その晩、夢を見た。

 暗い廊下。古いレンガの壁。壁の向こうから水の匂い。誰かが、ずっとこちらを見ている。視線の重さが冷たく、足元から膝へ、肩へと上ってくる。ふいに床が抜け、大吾は冷たい空気の中へ滑り落ちる。落ちていく間に、無数の留守電の声が耳を満たした。伯父の声、会社の上司の声、知らない女の笑い声。最後に、自分の声。

 ——帰るなよ。

 目を覚ますと、枕元に留守電が置かれていた。誰が? 自分で持ってきた覚えはない。ランプは点滅していない。時計は午前三時四分。ストーブの灯りが赤い。

 そのとき、玄関の鍵がカチリと鳴った。


 開いてはいない。だが、鍵穴の中で誰かが触れている。逆回しの微音。続いて、コン、コン、よりも少し強いノック。大吾は息を吐き、立ち上がらず、留守電に手を伸ばした。録音ボタンを押す。自分の声が機械の向こうで生まれるのを感じる。


「……どちら様ですか」


 返事はない。

 ノックは続く。五回、六回。やがて止み、廊下はまた雪のような沈黙に戻った。


 朝、職場に遅れると、同僚の村木が肩をすくめた。「顔色悪いぞ。寝てないだろ」

 大吾は笑ってごまかした。心のどこかでは、古い工事記録のことが引っかかっていた。伯父の遺品の作業日誌。昼休みにページをめくると、崩落事故のメモが出てきた。日付は一九九八年一月。場所は“南沢旧隧道”。換気竪坑の補強中、急激な冷え込みで凍土が膨張、壁が崩れ、二名が行方不明。現場は雪解けまで封鎖。

 南沢——彼のアパートの住所は南沢三条。ぞわりと背筋が粟立つ。


 夜、またランプが点滅していた。着信「1」。

 押す。


「——大吾。覚え書きをしておく。お前はこれを“後から”聞く。だから言い方を選ばなければならない。俺は鏡の向こうで喋っている。鏡の裏の穴の先、空洞の中の壁には古い黒電話がある。凍った指でダイヤルを回すのは骨が折れる。けれど、回す。回さなければ誰にも届かないからだ」


 声はしばらく息を整えるように黙り、また続けた。


「——お前はこれから、伯父の遺品の中にあった地図を見つける。南沢旧隧道の位置が赤鉛筆で丸されている。そこへは行くな。行けば、そこで“声”になる。……いいか。行くなよ」


 ぷつり。

 大吾は遺品の箱を引っ掻き回した。地図はすぐに見つかった。赤い丸。自宅から車で二十分の山の斜面。雪が深そうだ。

 行くな。

 声は言った。

 だが、彼はコートを着て車の鍵を取った。

 行かずにいられない理由があった。

 あの囁きだ。鏡の裏から聞こえた、あたたかく、と誘う声。伯父の日誌の行方不明者の欄に書かれていた名前のひとつが、彼の高校の同級生の兄だったこと。新聞で読んだ記憶がよみがえる。冬の終わりに見つからなかった遺体。家族がまだ線香を絶やさないと噂で聞いたこと——そういうものが、彼の足に雪道用のブーツを履かせ、ハンドルを握らせた。


 南沢旧隧道の入口は、赤いポールと錆びた鎖で塞がれていた。崩落の告示板は文字が薄れ、誰も見には来ない。雪は膝まであり、踏みしめるたびにぎゅうぎゅうと軋む音がした。空は鉛色のまま動かない。

 鎖をくぐり、入口に立つ。風が強くなり、トンネルの奥へ吸い込まれるようだった。大吾はヘッドライトを額に装着し、足を踏み入れた。息が白く長く伸び、壁に貼りついて、ゆっくりと落ちる。

 奥へ行くほど、空気が凍る。足元は凍った水たまりが続き、滑る。壁面には工事の跡が空しく残っている。ここで、誰かが、消えた。


 やがて、崩落で塞がれた壁に行き当たった。岩、折れた鉄筋、凍った泥。その手前に、換気竪坑へ上るはずだった梯子の根元がある。上は塞がれている。だが、壁の片隅、注意深く見ないと分からないくらいの位置に、半分埋もれた黒電話があった。

 黒電話?

 大吾は息を呑んだ。土に埋まりかけ、受話器は粉雪に包まれている。配線はもはやどこにも繋がっていない。なのに、受話器を持ち上げると、かすかな通電音が耳に集まってくるような錯覚がした。

 そのとき、受話器から、ピピッと聞き覚えのある音がした。留守電の録音開始音。


「——大吾。来るなと言ったのに」


 男の声。いつもの声だ。だが今度は、まるで目の前で囁かれているように鮮明だった。大吾は周囲を見回し、誰もいないことを確かめる。


「……あんたは誰だ。どこにいる」


「——お前だよ。俺は、お前がこれからなる声だ」


 意味が分からなかった。

 大吾は笑おうとしたが、喉が凍りついて声が出なかった。


「——覚えていないのか。鏡の裏の穴に耳を当てたときから、向こうとこちらが繋がった。お前は黒い線を切り、音を止めた。音は“こちら”のものだった。ここに溜まっていた声だ。切られたから、来いと言わねばならなかった。来い。ふたりで、あたたかく」


 遠くで、ぽたり、と何かが落ちる音がした。天井から氷柱の雫が、受話器に落ちたのだ。冷たい水が大吾の手をぬらし、指先の感覚が鈍る。


「——帰れ」


 別の声が割り込んだ。伯父の声だった。新聞で見たあの横顔がフラッシュのように脳内に浮かぶ。


「——帰るんだ、大吾。ここは人間のいる場所じゃない。崩れたとき、みんな“音”になった。冬が来るたび、音は増える。お前は、まだ戻れる」


 大吾の胸に、熱いものが一瞬だけ灯った。足を引き返そうとした、その瞬間。背中に冷たい指が触れた。


 ——ふたりで、あたたかく。


 大吾は振り向かなかった。振り向いたら終わりだ、とどこかで確信していたからだ。足を前に出す。氷に滑る。膝を打つ。手から受話器が離れ、黒電話が雪に埋もれる。

 息を吸う。冷気が肺を刺す。

 走る。

 出口の光は遠い。空気は重い。背中で足音が増える。自分の足音と、もうひとつ、いや、複数の足音。囁きが層になって耳の後ろを撫でる。

 ——帰るなよ。

 ——帰れ。

 ——おいで。

 ——大吾。

 ——寒い。

 ——ふたりで。


 やっとの思いで入口に飛び出すと、雪は横殴りになっていた。世界が真っ白になり、音がまた遠くなる。車までの足跡は瞬く間に消えた。大吾は腰を折り、息を吐き、何度も振り向きそうになる衝動を殴りつけるように耐えた。

 やっと車にたどり着き、ドアを閉め、鍵をかけ、エンジンをかける。ヘッドライトが雪壁を照らし、ワイパーが必死に線を描く。

 そのときだ。ダッシュボードの中、どこにも繋いでいないはずの留守電機が、ピピッと鳴った。


 ランプが点滅する。着信「1」。

 大吾は震える指で再生を押した。

 スピーカーから、玄関の鍵が回る音がした。いつもの部屋の、いつもの金属音。続いて、室内を歩く足音。床板のきしみ。ストーブの点火音。

 そして、自分の声が言った。


「……ただいま」


 録音はそこで終わった。


 大吾は息を止め、ヘッドライトの光に目を細めた。路面の先、白の向こうに何かが立っている気がした。人影。肩に雪を積み、首が少し傾いている。

 見えるはずがない。ここは山の中だ。

 ワイパーが一往復して、影を切り取っていく。切り取られたはずの影が、また視界の端に立っている。

 大吾は顔を伏せ、目を閉じた。

 その瞬間、運転席の後ろ、シートの間で、カチ、と鍵の鳴る音がした。


 彼は叫んだ。アクセルを踏み、タイヤが雪を掻き、車体がわずかに横滑りする。国道までの狭い道を、彼はほとんど記憶によって走った。背後で何かが笑い、何かがすすり泣き、何かが伯父の声で「帰れ」と繰り返し、何かが自分の声で「帰るなよ」と囁いた。

 ようやく町の灯りが見え、アパートの駐車場に車を突っ込み、彼は跳ねるように部屋まで駆け上がった。玄関の前でキーを取り出しかけて、彼は手を止めた。

 ドアはわずかに開いていた。

 隙間から、暖かい空気が漏れ出てくる。ストーブの匂い。

 中から、足音。自分と同じ体重で踏まれる床板のきしみ。

 留守電のランプが、扉の陰で赤く点滅していた。着信「4」。


 大吾はゆっくり扉を押した。開いた隙間に、誰かの影が滑り込み、部屋の奥へ消える。

 彼は靴を脱ぎ、慎重に中へ入る。室内には自分のコートが掛けられている。キッチンには湯気の立つマグカップ。湯の表面に、まだ揺れが残っている。

 留守電に手を伸ばし、再生する。

 一通目。

「——大吾、鍵を開けるな。開けるなよ」

 二通目。

「——もし開けてしまったら、押し入れには入るな。入ったら、出られない」

 三通目。

「——鏡は見るな。鏡の縁に指を掛けるな。爪が剥がれる」

 四通目。

 沈黙。

 雑音。

 そして、自分の声。

「……おかえり」


 背後で、玄関がゆっくり閉まる音がした。

 カチリ。

 鍵を内側から回す音。

 大吾は振り向かなかった。振り向いたら終わりだ、とまた確信したからだ。

 しかし、閉まったドアの向こう側から、ノックがした。

 コン、コン。

 内側からのノック。

 もうひとつの自分が、外にいる。

 それはあり得ないのに、あり得る音だった。大吾は呼吸を整え、留守電の停止ボタンに指を置いた。

 そのとき、浴室から水滴の落ちる音がした。ぽたり、ぽたり。鏡の向こう。

 押し入れの天袋が、ふわりと動く気配がした。天井裏で、何かが這う。

 そして、留守電が、自動で録音を始めた。ピピッ。


「……大吾。聞こえるか。俺だ」


 大吾は、その声を、今度は理解した。

 これは未来の自分の声だ。

 これは、これからここで起きることを、過去の自分に向かって伝えている声だ。

 この部屋に入るな、鍵を開けるな、押し入れに入るな、鏡を見るな。

 すべてが、もう遅い。


 浴室の灯りが勝手に点いた。白い光が廊下に伸びる。鏡の縁に、手の影が現れる。裏から、ゆっくりと押し上げるようにして、鏡の下端がぐらりと浮いた。

 押し入れの襖が、紙一重ほど開く。そこから吹く風が、ストーブの炎を揺らし、部屋の温度を少し下げる。

 玄関のドアが、外側からもう一度ノックされる。今度は強い。コン、コン、コン。

 大吾は息を吸い、吐き、振り向かずに歩き出した。

 鏡のほうへではない。押し入れのほうへでもない。玄関でもない。

 テーブルの上の、黒い留守電機のほうへだ。


 彼は録音中の機械に口を近づけ、低く、ゆっくりと話し始めた。


「——大吾か? 聞こえるか。俺だ。時間がない。よく聞け。お前の部屋の玄関の鍵、シリンダーを逆回しにすると、内側からでも音が鳴る仕組みになってるだろ。今から二分後に鳴る。そのとき、外に出るな。どんなにノックされても、絶対に開けるな」


 喋りながら、彼は理解した。これは輪だ。雪のように冷たく、閉じた輪。

 過去の自分に忠告し、過去の自分が耐え、しかし結局はここに来る。トンネルに行くなと言い、でも行ってしまう。帰れと言い、帰るなと言い、そして最後に“おかえり”と言う。

 輪の外に出る方法があるとすれば、それは——


 大吾は録音を止め、受話器を外し、電話線を引き抜いた。機械は唸りを弱め、やがて沈黙した。

 静けさが降りる。雪のように。

 玄関のノックは止んだ。

 押し入れの気配も消えた。

 浴室の光だけが、まだ廊下に細い道を伸ばしている。

 大吾は鏡を見なかった。

 その夜、彼はストーブの側で丸くなって眠った。夢は見なかった。


 朝。

 外は晴れて、雪面が目に痛いほど明るい。昨夜の出来事は、信じようとしなければ夢だと片づけられる程度に曖昧だった。大吾は仕事に行き、日中は何度か伯父のことを考え、休憩中にコーヒーを飲んだ。

 帰ると、部屋は冷えていた。ストーブを点けようとして、大吾は手を止めた。

 留守電のランプが点滅している。

 着信「1」。

 電源は抜いたはずだ。電話線も。

 なのに。

 彼は機械の前に立ち、再生ボタンを押した。

 テープが回る。

 雑音。

 そして、女の声がした。

 聞き覚えのない、若い声。

 どこかで聞いた響き。

 そうだ。鏡の裏の穴から囁いた、あの“あたたかく”の声だ。


「——もしもし。聞こえる? ここ、寒いよ。あなたの名前、なんて言ったっけ。……大吾? 大吾、でしょ。大吾、帰ってきて。ひとりは寒い。ふたりで、あたたかく」


 録音はそこで切れた。

 大吾はしばらく動けずにいた。

 テープの回転音が止み、部屋の空気がまた雪のように音を吸っていく。

 彼はゆっくりと立ち上がり、部屋中の鏡を布で覆った。浴室の鏡も、姿見も。押し入れには荷物を詰め込んで、天袋の底板を釘で打った。玄関の鍵は新品に替え、シリンダーは逆にも順にも鳴らないようにした。

 そして、留守電機を段ボールに戻し、ガムテープでぐるぐる巻きにして、押し入れの一番奥に押し込んだ。

 その夜、彼は一度も起きなかった。朝まで、何も聞かなかった。


 数ヶ月が過ぎ、雪が解け、山に柔らかい土の匂いが戻った。南沢旧隧道は市の条例で正式に封鎖され、入口には新しいフェンスが張られた。新聞は、封鎖に先立つ調査で古い工事機材と破片が回収されたことを小さく伝えた。行方不明者は見つからなかった。

 大吾は、ようやく留守電機を処分しようと決めた。

 燃えないごみの日。段ボールを肩に担ぎ、ゴミ置き場へ向かう途中、向かいの部屋のドアが開いた。新しく越してきたばかりの若いカップルだ。女のほうが笑って会釈し、男のほうが「おはようございます」と声をかけた。

 大吾は会釈を返し、ふと足を止めた。

 女の髪が、朝の光を受けて白くきらめき、輪郭が一瞬だけぼやけたのだ。雪の中で見た“影”の輪郭に似ていた。

 彼は首を振り、段ボールを置き、ガムテープを剥がした。

 黒い箱を取り出し、二人に向かって笑う。


「これ、まだ使えると思うんですよ。もしよかったら、どうです? 留守番電話機。いまどき使わないかもしれないけど、録音機としては便利ですよ」


 女は首を傾げ、面白そうに受け取った。「へぇ、レトロ。ありがとう。ね、使ってみようよ」

 男は笑って頷き、「じゃあ、いただきます」と言った。

 大吾は胸の奥が少し冷たくなるのを感じた。だが、その冷たさはすぐに消えた。春の陽気が、雪解け水の匂いが、彼の皮膚の表面で騒ぎ、安心を装わせた。

 部屋に戻り、窓を開ける。光が入る。鏡は覆ったまま。押し入れは釘で閉じたまま。

 夜。

 廊下の向こうから、かすかな機械音がした。ピピッ。

 隣の部屋だ。

 女の笑い声が続き、男の低い返事。

 そして、しばらくして——廊下に足音が出た。

 二人分ではない。

 三人分だった。


 翌朝、ゴミ置き場には、見覚えのある黒い箱が置かれていた。ガムテープでぐるぐる巻きにされ、蓋の隙間からカセットテープが少し覗いている。

 大吾は立ち止まり、誰もいないのを確認してから、そっとテープを引き抜いた。カセットのラベルには、震える字でこう書かれていた。

 ——「おかえり」


 彼はテープをポケットに入れ、歩き出した。

 春の空は高く、風はまだ冷たい。

 信号待ちの間、彼はふと、胸ポケットの上からカセットの角を指で押した。

 そこで、気づいた。

 信号機のスピーカーから流れる歩行者用のメロディの裏に、極めて小さい、けれど確かに聞き覚えのある音が紛れている。

 ピピッ。

 注意喚起のチャイムのように、当たり前の音のふりをして。

 輪は、雪の下で、形を変えながら続いている。

 大吾は胸ポケットを押さえたまま、青になった横断歩道を渡った。

 踏み出す足の下で、雪解け水が薄く光った。


——完——


物語の核は「輪」です。過去と未来、内側と外側、此岸と彼岸を、留守電という“時間の保存装置”が静かに繋ぎ直す。忠告は必ず遅れ、回避は必ず誘因になる──雪に音が封じられても、合図だけは途切れない。もし読後に、身の回りの当たり前の電子音が耳に残ったなら、物語はあなたの生活圏までにじみ出したということ。鍵の音がしたら、どうか慌てずに。開けない選択もまた、輪の一部かもしれません。……それでも「おかえり」と聞こえたら? その声があなた自身のものではないと、言い切れますか。

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