第五話:影と花束と、沈黙の刃
静かで、平和な村の朝。
その裏で、“異物”は静かに足を踏み入れていた。
黒衣に身を包み、顔を隠す男。
帝都の諜報機関から送り込まれた密偵、ゼルハルト。
彼の任務はただひとつ。
この辺境の村で、「不自然な変化の中心にいる女」の正体を暴き出すこと。
――つまり、アメリア・シェリル。
ゼルハルトは、広場の井戸に腰を下ろす老婆に声をかけた。
「すみません。最近この村で、変わった出来事はありませんでしたか?」
「あらあら……最近はねえ、税が軽くなったし、橋も直って、子どもらも笑顔が増えたよ。
でも不思議なのよ、誰がやってるのか分からないの。皆“お嬢さん”って呼んでるけど、名前もよく知らなくて……」
ゼルハルトは目を細めた。
「“匿名の善意”……か。いや、そんなはずはない。裏がある」
その夜。
ゼルハルトは人気のない薬草小屋に忍び込んだ。
アメリアが昼間、村の子どもたちと薬の調合をしていた場所だ。
棚に並ぶ薬瓶のいくつかに、かすかに“帝国御用毒物管理局”の印があった。
――これは、軍部専用の毒。市井に流れるはずのないもの。
「やはり黒だ。こんなものを扱えるのは、ただ一人――《クロウ》だ」
ゼルハルトはナイフに手をかけ、小屋の裏口から脱出しようとする。
しかし、その瞬間。
扉の前に、白い手袋の女が立っていた。
「ごきげんよう――汚いごみのお掃除に参りました」
凍るような声が、夜気を裂く。
女は一歩、また一歩と足を踏み出す。
その歩き方は、まるで舞踏会の貴婦人のように優雅で――死を運ぶ使者のように冷酷だった。
「お前……シェリル令嬢、いや……《クロウNo.4》」
「その名前を口にする口は、今すぐ塞いであげるわ。……騒がれるのは、嫌いなの」
ゼルハルトがナイフを抜く。
だがアメリアは一瞬で彼の背後に回り、氷のような声を耳元で囁いた。
「“刃”で語るには、あなたは少し雑ね。
せめて言葉くらい、美しく整えてきたらどう?」
ゼルハルトが振り向く前に、鋼の音が閃いた。
喉元を、正確に裂いた一筋の光。
血が飛び散ることもなく、男はその場に崩れ落ちた。
アメリアは静かに手袋を脱ぎ、血のついた刃を拭う。
そして、床に咲いた“沈黙の花”のような死体に一礼した。
「情報屋にしては、随分と声が大きいわね。
……次はもう少し、耳元で囁ける相手を送ってきて」
翌朝。
小屋の裏で見つかった死体は、「盗人同士の争い」として処理された。
誰も、令嬢が夜な夜な“清掃”をしているなどとは思っていなかった。
だが、アメリアの目の奥には、確かに“黒い羽根”が宿り始めていた。
その日。
村の子どもたちに囲まれたアメリアは、笑顔を浮かべて薬草の説明をしていた。
「これは百合の根。毒を含むけれど、適切に処理すれば鎮静剤になるのよ」
「毒なのに? すごい……!」
「毒も薬も、使う人間次第。……それは人の手に託された力なの」
彼女の声には、いつも通りの落ち着きがあった。
けれど、夜の彼女を知る者は、この村にはいない。
――まだ、誰も。