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誰そ彼時 …… たそがれどき と読みます。
肉食動物がその鋭い牙で草食動物に噛み付いたとき、その草食動物は恍惚状態に陥るという。
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「離縁を申し入れます。旦那さま」
レースのカーテンの隙間から外の夕焼けに染まった空が見え始めた。少し気まずそうな顔をした侍従がそっと部屋の中のオイルランプに火を灯して歩く。
広いが本棚と書類の詰まった棚に囲まれ圧迫感を感じる部屋の中、立派なマホガニーの大きな執務机を挟んで二人の男女が対峙していた。
『旦那さま』と呼ばれた男は四十手前の立派な体格の美丈夫であり、短い薄茶色の髪の毛をゆるく後ろへと流している。手に持っているペンの動きを止め、視線を上げて目の前に立っている妻を見た。
その視線は常でも鋭く感じるものであるが、対する妻は動じることなく冷ややかな目で男を見下ろしている。
「……は?」
「離縁を申し入れると言っているのです。よろしいですか? わたくしがこの家に嫁いで二十年経ちました。その間に一男一女をもうけ育て上げ、社交をこなしながら使用人たちをまとめ上げて家を盛り立ててまいりました。貴族の妻としての義務は果たしましたよね? ……ああよかったわ、国王陛下が王妃さまと離縁をしたいと新たな国教を作られて。おかげでわたくしたちも離縁が可能になったのですもの! ちょっとあなた! 部屋から出ていかずにここで聞いていなさい!」
こそこそと部屋を出ようとしていた侍従はびしっと扉の横で立ち止まった。
このような交渉ごとは証人が必要だ。もし男が逆上した時のためにも。
現在、このあたりの諸国の中でも珍しく、この国では離縁が認められている。
かつてこの国も信仰していた世界最大の宗教は離縁を認めていない。
そのため三百年ほど前の国王が、後継が生まれないことを理由に最初の王妃と離縁して新しい王妃を迎えようと教会に「婚姻無効」の届出を出した。一度目はなんだかんだと理由を作り上げて認められたが、その次は認められなかった。結果、教会と対立した国王は教会から離脱して自らを首長とする新たな国教会を設立した。その後、その国王は六度の離縁と婚姻を繰り返した。
そして時代が下るにつれて、夫側からだけではなく妻側からも離縁の申し立てが当たり前になっていった。
「……離縁してどうすると言うのだ?」
「これでも侯爵夫人としてこの家を切り盛りしてきたのですよ。見識も人脈も広げてきましたわ」
「それは君に『侯爵夫人』としての立場があったからだ」
「ふん、そう思っているのはあなただけでございましょう」
妻は離縁を決心してから着々と蓄財をしていた。侯爵夫人に割り当てられる予算を堅実に貯めることに加えて投資に回し、そこそこのお金持ちになっていた。そして社交に励むとともに邸に出入りする業者に対して寛大に接することで味方を作りあらゆる情報が手に入るようにしていた。
だが、妻側からも離縁の申し立てができるようになったとはいえ家長としての夫の権力は絶大で、妻は相当な覚悟を持ってこの執務室に乗り込んできたのだ。
負けるわけにはいかない。
男は持っていたペンを置き、椅子の背に体を預けて自信満々に話す妻の顔を見た。
(よほど練習をしたらしい。芝居を見ているようだ)
「それにですね、わたくし恋をしてみたいのですわ!」
「はあ?」
「これでも社交に出れば殿方との駆け引きも何度かあったのですよ。ですが貞淑な妻として自制をしてきたのです。ほんとうにもったいないことをしましたわ。花の命は短いのに!」
(この女性はこんなに喋るのか……。いや、それよりも)
「その殿方とは誰のことだ?」
「誰でもいいでしょう! なにもなかったのですから! それにあなたは仕事仕事で社交の場でもすぐにどこかに行ってらしたでしょう? いまさらなんなのですかっ」
ぴしりと言われて、男の体はぴくりと跳ねた。だが、妻はそれには気づかなかったようだ。
男は軍人であり常に国内の駐屯地を視察する立場にあった。家を空けることが多く、戻れば会議や折衝、書類整理に追われている。妻は『駐屯地ごとに現地妻がいるかも』と疑っているが、それは口に出さない。嫉妬していると思われるのも腹立たしいからだ。
実際、男は仕事に忙殺されてそんな暇はなかったのだが。
「離縁に関して子どもたちも了承済みです。あとはほら、あなただけです」
大きな机の真ん中に、ばんっと一枚の紙が叩きつけられた。国教会に提出する離縁届のようだ。
目の前には妻が片方の手を腰に当て、もう片方の手を書類の上に置いている。
その表情はきりりとしていて美しい。
(こんなにこの妻の顔を見たのはいつぶりだったか。艶やかな黒い髪の毛にヘーゼルの瞳。しなやかな黒ヒョウ……いや、さしずめ逆毛を立てた黒猫か?)
「なにを笑っているんですかっ」
(シャーッとキバを出したようだ)
「いや、……こほん。急に言われてもな。少し考える時間をくれ」
「なんですって? 何度も話し合いたいと言っていたのに応じなかったのはそちらでしょう? だからこうして乗り込むしかできなかったのではないですか!」
確かに妻からそんな伝言を受け取っていたが、家に関する些末なことだと思っていた。
(これは……まずいな)
再び妻の顔を見ると、先ほどのきりりとした上に怒りの表情が乗っている。
(美しいな……。それに怒っていてもきゃんきゃんしていない心地の良い声だ)
男はなんとも新鮮な気持ちになっていた。そう、先ほど本人も言っていたように妻は貞淑でおとなしく、賢い人だと思っていたのだ。だが目の前の妻はまるで知らない女性のように思える。
(たしかに反省しなければならないことは多いようだ)
男は妻に向かって頭を下げた。
「まあ待ってくれ。すまなかった。きちんと話し合いをしよう」
「もう遅いのですっ。サインするのですか、しないのですか! しないのならこちらにも考えがありますわ!」
猫の鼻先に出した指先をガブっと噛まれた。なんだかどきどきする。
「今まで会話が少なかったのは認めよう。そうだな、今から三日間、お互いが納得するまで話し合おう。それまでこの届出の紙はこの机の上に置いておく。ほら、あの侍従が証人だ」
妻はやり場のない怒りを覚えたが、男はなぜかにこにこしながら妻を宥め、神妙な様子の侍従にお茶とお菓子を準備させた。
「さあ、話し合おうか」
夫婦は会話が大事。