第6話 「透明人間」
距離にしたらそこまで遠くもない筈だが、未開拓の野山を越え、様々な動植物を観察し、件の化け物の襲撃を警戒しながら歩いてみれば、結果として二人が南トリアルに着く頃には日が傾いていた。
「や、やっと着きましたのね……」
お嬢様は大きくため息をつく。
「そんな疲れる?」
リェルは息切れもしていない様子。
夕暮れ時、高さも疎らな茶色の屋根が広く建ち並ぶこの街は、往来を行き交う足取りも今や穏やかである。
「やっぱり…ここは21世紀の日本なんかじゃあないですわ……」
「にほん?にじゅういちせいき?」
街にたどり着くまでに二人の間で決まったこと、先ずは「リェルの家に行く」こと。
「ウチに来れば戸籍とか調べられるんじゃないかなぁ…」
「リェルのお家は役所か何かですの?それにしても"戸籍"って響きにはあんまりファンタジーを感じませんわね」
「ずっと何言ってんのさ…ホント…」
街と言ったら大体はお嬢様の想像通りのようで、リェル曰く"ウチ"と言ったその建物は、かつて画面の中で見た「教会」と同じような見てくれだった。
扉というのは開けっ放しになっていて、敷石が行儀よく埋められた地面に、暖色の明かりが差している。
「ただいまー」
リェルがそう言って建物の中に何の躊躇も無く入っていくものだから、お嬢様も後へ続く。
中は広かった。
この世界にも宗教?なんて存在するのか、やはりそこに居たのは…所謂「シスター」なんて言われてパッと思い浮かぶような格好の女性達だった。
ずらっと長椅子が並べられ、奥には祭壇のような物がある。その中で、皆が一番前の長机の前で椅子に座り、何やら忙しなくペンを走らせている。
「……全く。久し振りに帰ってきたかと思えば…リェル、こちらの方は?」
こちらに気付くなり、そこ中でも一際年配の女性がやって来た。
「こっちはサラ、迷い人なんだけど…ちょっと訳ありみたいでさ」
「ども…」
腰の曲がった女性は、すぐさま目を閉じて、胸の前で両手を合わせ、少しの間沈黙した。
何か祈っているようである。
チラりと脇に目をやれば、リェルも同じように祈っていた。
数秒の沈黙の後、二人は同じようなタイミングで目を開ける。
「……さて、さぞ大変だったでしょう。今日はもうゆっくり休みなさい」
年配のシスターはまるで急かすように、それでいて労るように、朝蘭の肩を揉みながら何処かへ連れていこうとする。
「いやいや、バーチャンちょっと待ってよ。とりあえずこの子の名前をさ、戸籍簿から探してほしいんだ」
バーチャンと呼ばれたその女性は、さぞ不思議そうな顔をした。
それもそうだろう。いきなり迷い人を連れて訪ねてきては、そいつの"戸籍"を調べてほしい、なんて言うのだから。
「……一体どうしてです?」
「いやー、それがちょっと複雑でさ…」
リェルは事細かに事情を説明してくれた。
それから年配のシスターは、他の若い女性に呼び掛けると、奥の扉を開けて、それはそれはとても重そうな、分厚い紙の束を持って来る。
「つまりはこのスウォル領にどうやって来たのか……それすら分からないと言うのですね」
言いながら、長机に置いた紙の束を、あれでもないこれでもないと次々に頁をめくり続けるのだ。
「今調べますから、あちらに掛けてお待ちなさい。今夕飯の支度をさせますから」
また忙しなく何人かの女性達が走り回り、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしている。
お嬢様はその様子に何だか申し訳なさを感じてはいたが、自分の身が置かれている状況を一刻も早く整理したくはあったので、言われた通りに座って待つ事にした。
その間、ついでにお嬢様はリェルに小声で訊ねる。
「ここ、あなたの家とおっしゃいましたけど…ここに住んでいらっしゃるの?」
「そうだね。私の実家みたいなものだよ。住んではいないけどね」
リェルは履いていた革のブーツを片方だけ脱いで、逆さにしながら一生懸命振っている。
「それならあちらの方は、お母様で?」
「うーん……と言うより、世話係みたいなもんかな。あの人に育てて貰った事には変わりないんだけどね」
世話係?というのは謎であったが、何やら複雑な事情があるのには変わりなさそうだ。
「アナタ、普段は何をされてる方なの?」
ぎこちないが為に、某大御所みたいな聞き方になってしまった。
「一応、お国の治安維持部隊っていう扱いではあるのかなぁ……?今日サラを見つけた時も仕事中だったんだけど、この南トリアル周辺のパトロールみたいな事を任されてるんだよね。スウォル領の決まりでさ、一つの街につき一人は私みたいなのが居なきゃいけないんだ~」
成る程納得。
あんな化け物が居る森の中、お嬢様を助け出し、何の迷いもなくここまで連れて来てくれたのは、仕事の一環だったのだ。
「あの森の中でよく道に迷う人が出るんだ。だからそんな人が居ればこうやってこの街まで案内したり、この教会まで連れて来たりするんだよね。………にしても、サラみたいなちんぷんかんぷんは初めてだけどね」
そうこう話をしている間に、年配のシスターが例の紙束を持ってやって来た。
「…私の名前、見つかりました?」
お嬢様の問いかけに、シスターは首を横に振った。
「サラ、あなたの名前は戸籍簿には載っていません。この国の記録を見る限りは、行方不明者リストにもそんな名前はありません」
リェルは目をまん丸にしてお嬢様の顔を見つめた。
「………え?それじゃあ………本当に…」
ついに、二人が口にしなかった事をシスターが言う。
「サラ、もしかすると、あなた自身が仰っているように、あなたはこの世界の人間ではないのかもしれません」