第5話 「あぁ…知らんかぁ…」
「私、大照院 朝蘭と申します。あなたのお名前は?」
「だ、だいしょーいんさら?変わった名前だね…私はリェル·フランツ。リェルって呼んで」
退屈な毎日を送っていたからか、まるで想像もしなかったこんな瞬間においても、心拍は早く身体は若干震えていたが、お嬢様の頭の中は第一に冷静を保とうとしていた。
先ずこんな時は一つ一つ質問をして、事を整理する事が大切である。
フィクションの世界ならありふれた言葉ではあるが、真っ先に知らなければならないこと。
それは
「ここは一体…?何処なんですの?」
「何処かってそりゃあ…ニンゲンの森だけど」
少女は眉を片方だけ吊り上げて、まるで絵に描いたように困った表情である。
それもその筈、例えばいつも通り自分の生活圏から離れた所へ出掛けたり、近所をふらっと散歩していたとして、突然、「今自分の居る場所が何処か」なんて分からなくなる事は、よほど特殊な事情でも無い限りあり得ないだろう。
「に、にんげんのもり?……方言?何県何市なんですの?」
「な、なにけん?なに、し?………まぁよく分かんないけど、さらは何処から来たの?ここが何処か分かりもしないのに、どうしてこんな危険な所に居るの?」
「え"っ"?危険!?危ない所なんですの!?あまり治安がよろしくないとか!?!??」
「いやいや、治安がどうとかじゃなくて今まさにスライムに襲われてた…というか、食べられてたじゃん!」
「そう言えばそうでしたわ!何なんですのこの化け物は!?」
足下には上下真っ二つの大きくて半透明の肉塊。
その肉塊は殆どが水分から出来ているようで、徐々に土に染み込んで今やほぼ欠片しか残っていない。
「待ってまって、一回落ち着いて!一回整理しよう!」
話が取っ散らかっている。
「…………え、えぇ、少し取り乱しましたわ…失礼しました」
お嬢様の顔の前に右手を突き出し、大声で静止させてから、今度はリェルから一つずつ質問が投げ掛けられる。
「先ず、さらは何処から来たの?」
「私は神奈川県横浜市から来ました…来た、というのも変ですが」
「かながわけん?って場所はよく知らないけど、そこからどうやってここまで来たの?」
「それが…分からないんです」
「分からない?分からないって、どうして?」
「私、確かに病院のベッドで寝ていた筈なんですが、気が付いたらここに居たんです……それ以上の事は何も分かりませんわ…」
「うーん…それじゃあ、いつからここに居たかも分からない感じ?」
「えぇ、何も分からないです」
「あちゃー…困ったなぁ……」
リェルは額に左手を当ててから、二、三歩うろうろしながら考えた。
お嬢様自身も一度こうなってしまえば、目の前で「どうしたものか」と頭を悩ませている少女に頼るしかないので、大人しくこの状況を打開する提案を待った。
リェルは一先ず足を止めると、掛けていた鞄からくすんだ白の麻ぬのを取り出し、お嬢様の前に広げた。
地図……と呼ぶには心もとない程に大雑把ではあったが、そこには確かにここら一帯の地形や道なんかが描かれている。
こんな地図とも呼べない地図を最後に見たのは、お嬢様の記憶の中ではまさにゲームの中だけだった。
「えっとね、今私達がいる場所は、この辺の森の中なの」
リェルが指さしたそこには広大な山林が描かれていて、そこら一帯を抜けた近くには街らしき絵が描かれている。
「こんな未開の国知りませんわ……」
「未開の国って、ここら一帯は一応スウォル領だけど」
少女の口からはまたしても知らない地名。
お嬢様の頭の中では、今まで保っていた平静は崩れ去り、徐々に混沌へと思考が傾いている。
化け物、古臭い地図、聞いたことの無い地名、やけに未開拓の森林地帯…
これはまるで
「放心状態だね…まぁ気持ちも分かるけどさ、取り敢えず、南トリアルって街まで歩こうよ。こんなスライムだらけの所にいつまでも居たって危ないし」
……そう、スライム、スライムだ。
「あの、私がさっき襲われた化け物って一体何なんです?」
「えぇ…スライムも知らない感じ?」
ホウ砂と洗濯のりで作るやつなら、きっと人を襲ってきたりはしない。
ならば
「スライムって!?ス○イムですの!?あの!??序盤の!?!?」
「序盤?ってどうゆー事か分かんないけど、スライムだよ、流石にスライムぐらいは知ってた?」
知っている。
お嬢様は知っている。
確かに、件のスライムとやらは何度も戦った事がある。
理紗が持ってきてくれたゲームソフトでは、何度新作が出ようとも決して「一番最初に戦う敵」というポジションを譲ることは無かった。
「ス○イムってもっとこう、ぷるっとしてて小さくて可愛いイメージがあった筈ですわ!あんな肉食感満載の化け物みたいな奴じゃなくて!」
「あぁー……やっぱ知らないんだね」
リェルは両手で小さな円を作ると、スライムという生き物がつまりは何であるか分かりやすく説明した。
「……えっとね、卵からかえったばっかりのころはこんな感じのまるっこくて小さいやつなの。それが一年間くらいは柔らかい植物とかを食べて成長するんだけど、身体が大きくなると…って歩きながら説明するよ」
お嬢様は言われるがまま、図鑑顔負けの解説を殆ど聞き流し、考え事をして少女に着いて歩いた。