婚約破棄され殺された、とある悪役令嬢の夢
※ 誤字報告、ありがとうございます。
侯爵令嬢ヴィアンカ=パステルダールは冷ややかな気持ちでその光景を見ていた。
目の前では、婚約者であるジークフリート王太子殿下が、見知らぬ女性と仲睦まじく寄り添っているのだ。
「ジークフリート殿下。今、何とおっしゃいまして?」
ヴィアンカは、いい加減にしろと言わんばかりに、持っていた扇子をパシッと手のひらに叩きつけて問うた。
「……何度も言わせるな。お前との婚約を破棄したいと言っているんだ」
……やはり聞き間違えではなかったようだ。
ヴィアンカは深い溜息を吐いた。
「……理由をお聞かせ願えますか」
「私は真実の愛に出会った。私は彼女を心から愛している。お前と婚約破棄して、ミコリリィを正妃へ迎え入れることをここに宣言する」
ジークフリートのそばには、親しげに寄り添い腕を絡める女性がいた。ピンクブロンドの可愛らしい可憐な子だ。名をミコリリィと言うらしい。物語の中の主人公みたいな大層なお名前だこと。
真実の愛……とは。
馬鹿なのか、この男は。
己の不貞を堂々と告げられたヴィアンカは眩暈がして、思わずこめかみを押さえた。
それは、ユーイン王国王太子ジークフリートが隣国ミルーシュ公国からの留学を終え、3年振りに帰国した矢先の出来事だった。
ジークフリートの帰国後、王宮の応接室へと呼び出されたヴィアンカは、久しぶりの婚約者との対面にやや緊張の面持ちで赴いた。嬉しさなどないが、やはり少しホッとした気持ちもある。
だが、そこに待ち構えていたのは、部屋の奥に寄り添って立つこのふたりだけで、嫌な予感を感じながらも帰国の無事を喜ぶ挨拶を述べると、挨拶の返事もないまま、唐突に婚約破棄を告げられた。
長期の留学から帰国し持ち帰ったもの。それは為政者としての自覚ではなく、この女だったというわけだ。
ジークフリートの不貞の相手。
仕草がいちいち癪に触る。甘えるように瞳をくりくり動かし所在無げに腕を絡ませる彼女のそれは、男の庇護欲を煽るのかもしれないが、同性であるヴィアンカから見れば、あざといとしか言いようがない。
こんな女を、わたくしを差し置いて正妃にですって?
聞けば、彼女は平民であるらしい。ヴィアンカは茫然と立ち尽くした。
もともと、ヴィアンカとジークフリートの間に愛などない。ヴィアンカが8歳の時に政略で結ばれた婚約だった。
王太子との婚約を、陛下から打診を受けた父は、最初この話にあまり乗り気ではなかった。父は第一王子のジークフリート殿下よりも、第二王子のアルベルト殿下の方に目を掛けていたのだ。
しかしそれを見越しての打診であったのかは定かではないが、陛下から強く希望され、王命であれば辞退も許されず、2人の婚約が瞬く間に結ばれた。
パステルダール家は爵位こそ侯爵ではあるものの、建国当初から国に仕える歴史と伝統ある名家であった。広大な領地は豊かに栄え、非常に裕福な家柄であると同時に、侯爵家として王家に献身的に仕え、数多の実績を残してる。その功績は国内外に名を轟かせ、他の追随を許さぬ権力を誇っていた。
ヴィアンカの父である現当主パステルダール侯爵は、現在、財務大臣を拝命しており、ユーイン王国の金庫番として国庫を任される、実に公明正大な人物である。
また、国王陛下とパステルダール侯爵は学園時代からの友人でもあり、その人柄をよく知る陛下からの信頼もひときわ厚く、王太子であるジークフリートとの婚約にパステルダール家が選出されるのに何ら不思議な事などなかった。
初めてジークフリート殿下と顔合わせした時、ヴィアンカは感動に打ち震えたものであった。サラサラとした金色の髪はキラキラに輝き、紅い瞳は強い意思を宿す、その見目麗しい姿に目を奪われた。絵本の中の王子様そのものだ……と。
ジークフリートはヴィアンカより5つも年上であり、とても頼もしく見えたのもある。
「はじめまして。パステルダール侯爵家の娘、ヴィアンカと申します」
しかし、完璧なカーテシーで行儀良く挨拶するも、ジークフリートは何も言葉を発さなかった。不遜な態度でヴィアンカを一瞥するとすぐに目を逸らされた。ヴィアンカが気に入らないのだと、態度が物語っていた。
あまりにも大人気ない対応に、ヴィアンカは唖然とするしかなかった。
それから今までヴィアンカとジークフリートは会話らしい会話をしたことがない。
月に一度のお茶会も義務でしかなく、いつの間にか苦行のひと時になっていた。
初めはヴィアンカも努力していた。笑顔を貼り付け懸命に話しかけた。相手の好きそうな話題を必死に探したり、相手に気に入られるような立ち居振る舞いを心掛けた。それでもジークフリートは「ああ」とか「そう」とか適当に生返事で相槌を返すか、無視するかで、少しもヴィアンカを見ようとしなかった。
これではヴィアンカの心は遠くなるばかりだ。
実際、ジークフリートはヴィアンカに何の興味もなかった。それもそのはず。ジークフリートには既に意中の少女が存在していたからだ。
それがこのミコリリィであり、ジークフリートの初恋の相手だった。
幼い頃、隣国ミルーシュ公国から商人の両親に連れられて、ここユーイン王国の王宮へやってきたミコリリィ。明るく闊達で物怖じしない可憐な少女に、ジークフリートは瞬く間に夢中になった。
それからだ。ジークフリートが、ユーイン王国とミルーシュ公国を行き来する生活が始まったのは。
公務を疎かにしているのはわかっている。だが止められないのだ。初恋とはこのように苦しくも甘美なものなのかと、ジークフリートは恍惚の表情でその胸の高鳴りを受け入れた。
次第に短い逢瀬では我慢出来なくなったジークフリートは、ミルーシュ公国への留学を決意するのだった。
自分には婚約者がいると言う事実を頭から振り払い、ただひたすらミコリリィに思慕の念を抱いていた。
ヴィアンカは決してジークフリートを慕っていたわけではなかったが、長年婚約者として尽力していたのだからと、ほんの少しの情くらいはあった。
そして、将来は国王になったこの人を隣で支えるのだという矜持もあった。
だから、辛く厳しい正妃教育も耐えた。認めてもらいたい。未来の国母として相応しく唯一の存在なのだと。
ジークフリートに冷遇され続けるヴィアンカを不憫に思ってのことなのか、陛下と王妃様は優しく接してくださった。特に王妃様は、早くに母親を亡くしているヴィアンカを、本当の娘のように可愛がってくれており、それだけが心の支えだった。
……嗚呼、何もかも無駄だった。
未来の国母として気高くあれと教えられ、長い間淑女の鑑となるべく努力した。その成果は周囲の人たちには認められ称えられたが、一番に認めてもらいたかったはずのジークフリートの心には、何も響いていなかったのだ。
虚しい。
やるせない。
「決意はお固いのですね?」
「ああ」
ジークフリートは強く頷いた。
「だが、お前には長年婚約者として私に仕えてくれた功績がある。周りの信頼も厚い。だから、どうだろう。ミコリリィを正妃とするのは決定しているが、お前を側室として迎え入れることもやぶさかではないのだが」
「なん……ですって?」
ヴィアンカは絶句した。
「実際、ミコリリィに王太子妃としての責務は荷が重いだろう。今まで貴族としての教育など受けたことがないのだからね。お前がそばで支えてくれると助かる」
クラクラと、ふらつく身体を必死で支えた。
この男は、今、なんと言った?
信じられない言葉を聞いた気がする。
「………………」
「………………」
沈黙が続いた。
口火を切ったのはヴィアンカだった。
「……わかりました」
「そうか。話が早くて助かるよ」
ホッと胸を撫で下ろすジークフリートに、ヴィアンカはせせら笑った。
「わかったと言うのは、殿下の言い分がわかったと言う事です。決してそのような愚かな申し出に同意したという意味ではございません」
「……なに?」
「そもそも、私たちの婚約は王家とパステルダール家の間で政略的に結ばれたもの。殿下の勝手な一存で変えられるものではございません。大体、陛下は殿下の言い分にご納得なさっているのですか?」
「陛下にはまだ報告していないが……必ず認めさせる。彼女は私が望んだの相手なのだから」
ヴィアンカは再び溜息を吐いた。
あの賢明な陛下が、そんな戯言を容認するだろうか。
この王子はどこまでも頭がお花畑らしい。
王族と平民との貴賤結婚など、建国以来この国で承認された試しがないというのに。
「婚約破棄を受け入れます。側妃にはなりません」
ヴィアンカは高らかに言い切った。
「慰謝料は必ず戴きますからね。それと誠心誠意の謝罪を要求致します」
「なん、だと?」
「あら、当然でございましょう。結婚を約束した方に不貞を働かれ、わたくし、多大なる精神的苦痛を被りました。慰謝料請求は至極当然の事です」
「……もともと、私はお前と結婚するつもりなどなかったんだぞ。それを側室に迎え入れてやると言っているんだ。ありがたく思わないのか!」
「わたくしたちは正式に婚約しているのですよ。殿下がどんなにわたくしを疎ましく思っていようが、そんなこと関係ありません」
正直、ヴィアンカはジークフリートに想い人がいることは薄々感じていた。だがそれもいっときの熱病のようなものだと割り切っていた。政略結婚などそんなものだ。
……だかまさか、こんなことを言い出すなんて、想像もしていなかった。
「そもそも、可笑しなお話ですこと。わたくしが正妃、そちら様が妾というならまだ話は通じるのですが」
「お前は! ミコリに妾になれと言うのか! 侮辱するな!」
「先程からわたくしを侮辱する発言を繰り返しておりますのはどなたかしら」
ジークフリートを睨みつける。
「貴方は不貞を働きました。これは王家と当家の契約を反故にする重罪です。ですが、わたくしは慰謝料と謝罪で手を打つと申しているのです。随分と心優しい提案だと思いませんか」
ヴィアンカの中では既にジークフリートへの情など消え去っていた。あるのは虚しさと怒りだけ。
「慰謝料、ジークフリート殿下にご用意出来ますか? 借金まみれの貴方が」
ヴィアンカはジークフリートをジッと見据えた。
「わたくしが何も知らないとお思いですか? そちらの女性に貢ぐ為、個人資産を使い果たし、国庫にまで手を付け、更には借金まで重ねて火の車なのは存じ上げておりますのよ」
「…………ッ」
ミコリリィの実家である商会が、破綻寸前だったところを、ジークフリートの援助で持ち直した。
これはパステルダール家の調査で判明している。
「わたくしの父が、国庫に負担の掛からないよう、どれだけ資金調達に苦心しているのかご存知ですか。借金返済に足りない分は我がパステルダール家が肩代わりしておりますこと、重々ご理解くださいね」
借金の事実が発覚し、調査内容を確認した父パステルダール侯爵は、ワナワナと震え、ヴィアンカに泣いて謝ったものだった。『婚約を推し進めて申し訳なかった』と。
お父様が悪いわけではないのに……
「わたくしとの婚約話があるから貴方は王太子として成り立っているのです。我が家の後ろ盾のない、借金まみれの放蕩者など、誰が為政者として認めると思いますか。貴方を支持する派閥の貴族を失うことになりますよ。もう少し頭を働かせてください」
パステルダール家の後ろ盾を失いたくないと言う、ジークフリートの思惑が透けて見える。だから、ヴィアンカを側室に、などと愚かな考えが思いつくのだ。
「少しは貴方の弟君であらせられるアルベルト殿下を見習ってはいかがですか。ご公務もしっかりと務め上げ、周囲の状況を把握されております。ふらふらと遊び呆けて公務を蔑ろにしているジークフリート殿下とは大違い」
「黙れ! あいつの話はするな!!」
ジークフリートが、優秀なアルベルト殿下に対して過剰なまでのコンプレックスを抱いていることは知っていた。劣等感、嫉妬、敵対意識……様々な屈折した感情。いつか取って代わられるかも知れないという恐怖。
だが、それらは決して認めるわけにはいかない。何故なら自分は王太子なのだから。
……ああ、馬鹿馬鹿しい。だったらもっと王太子らしい振る舞いをすれば良いのに。
「アルベルト殿下は先日、シールニア王国の第二王女との婚約が正式に成立したそうですよ。さすがアルベルト殿下は怜悧なお方です。どこの馬の骨とも知れない平民にうつつを抜かす誰かさんとは違い、ご自分の立場を充分に理解していらっしゃる」
ヴィアンカの口は止まらない。今までの鬱憤を晴らすかのように、ジークフリートを責め立て続けた。
「我が家の後ろ盾を無くした貴方が、このまま王太子として立っていられるのか……ふふ、見ものですわね」
その時、ミコリリィがふたりの間に割って入ってきた。
「ヴィアンカさん! いい加減にしてください!」
ハラハラと涙を流し、ヴィアンカを睨みつけてくる。
「これ以上ジークを責めないで! 悪いのは私なの。ジークを好きになって諦め切れなかった私が悪いの。ごめんね、ジーク。身分の低い私が、あなたを愛してしまったのが間違いだった」
「ミコリ! 何を言う!」
「大好きよ、ジーク。あなたと過ごした時間は夢のようなひと時だった。でもそれももうおしまい。あなたは王子様だもの。王子様はお姫様と結ばれるものよ。私ではダメなの」
「ミコリ! そんな悲しいことを言わないでくれ! 君を愛している! 私には君が必要なんだ!」
「嗚呼、ジーク! 私も愛してる!」
ヒシっと抱き合うふたり。
……………………はぁ?
ヴィアンカは目が点になった。
なんだ、この茶番劇は?
なにを悲劇のヒロイン振っているんだ、この女は。
「ヴィアンカさん」
ミコリリィが涙目でこちらを向いた。
「私とジークは愛し合ってる。だからお願い。私たちを認めてください。あなたは恋をしたことがないから、私たちの気持ちなどわからないのよ」
認めるも何も、そもそもヴィアンカは婚約破棄を受け入れているのだ。後はどうぞお好きなように。真実の愛で結ばれたふたりがどうなるかなど、ヴィアンカの知ったことではない。
だが、『恋をしたことがない』……この言葉に、ヴィアンカはプツンと切れた。気がつくとヴィアンカはミコリリィの前に歩み寄り、頬を張っていた。パンッ!と言う甲高い音が響いた。
頬を押さえ、茫然とするミコリリィと、自分の行動にハッとなるヴィアンカ。
いち早く動いたのがジークフリートだった。
「ミコリになんてことをする!!」
ヴィアンカはジークフリートに思い切り突き飛ばされ、咄嗟のことで受け身も取れないまま蹌踉けた。テーブルの角に額が突き当たる。額から一筋の血が流れた。
「な、なにをするのです!!」
額を押さえながら、叫ぶ。
「ああ、お前は本当に憎たらしいな」
ジークフリートはへたり込むヴィアンカの前にゆっくりと歩み寄ってきた。
それは無意識だった。本当に無意識の行動だった。無意識のうちに、ヴィアンカは護身用の短剣を手にしていた。それくらい、ジークフリートは殺気を放っていたのだ。
「へえ……私に刃を向けるのか。王太子たる私に」
ジークフリートは冷たく言い放つ。
「手間が省けたな」
そう呟くと、自分の帯剣を引き抜いた。細身の長剣の切先をヴィアンカに向ける。
脅しじゃない。この男の殺気は本物だと直感した。
ヴィアンカはガタガタと全身が震えた。
短剣を握る手も震える。
このパステルダール家の家紋の入った短剣は、ヴィアンカが婚約する際に、兄から贈られたものだ。「お前の身を守る御守りだよ」と。
嗚呼、お兄様。助けて! 助けてください!
「わ……わたくしを、殺すのですか……!?」
「殺すよ?」
ジークフリートは冷たく笑った。
「側室の話を拒否した時点で、お前の死は確定していた。その後も、よくもこの私を侮辱する発言を繰り返してくれたな。それは万死に値する。死んで償え」
「わたくしを殺したら、パステルダール家が黙っていませんわよ!」
ククッと可笑しそうに喉を鳴らした。
「なぁ。お前はこの部屋に我々3人しかいないことを、おかしいとは思わなかったのか?」
ヴィアンカはハッとした。
最初に感じた違和感。
護衛も使用人も待機していないこの空間に、確かに嫌な予感はしていたのだ。
まさか、初めから殺すつもりでいたのか!?
全てが仕組まれていたことだとしたら。
「お前は私とミコリリィの仲を疑い嫉妬に狂い、私たちを殺害せんと刃を向けた。これは王家に対する反逆罪である。罪人たるお前から身を守る為、私は已む無く反撃せざるを得なかった。正当防衛なんだよ、お前を殺すのは」
「な……!」
「どうだ。良い筋書きだろう?」
「そ、そんな……そんな……ことって……」
涙が滲み出る。
悔しい悔しい。冤罪を被せられて、殺されるなんて。
ヴィアンカは涙を流しながら、叫んだ。
「そんなにわたくしが邪魔なら、何故婚約などしたのです!」
「お前の家は金を持っていた。お前の価値などただそれだけだ」
ジークフリートが吐き捨てるように言う。
「大体、お前の父親は昔から気に入らなかったんだ。何かと愚弟ばかり贔屓しやがって。目障りだったんだよ」
ヴィアンカの髪を掴み上げた。
ジークフリートの紅い瞳にはヴィアンカの憐れな姿が映っていた。
「借金を肩代わりしてくれてありがとう。ついでに賠償金もたっぷりと支払って貰うからそのつもりで。罪人を出したお前の生家など潰してやる」
「そんな……! 家は関係ありません……!!」
嗚呼、何もかもお終いだ。
とにかく隙を作らなければ、と短剣を振り回してジークフリートを威嚇する。
ジークフリートは「おっと」と言いながら笑って避ける。
ヴィアンカのすることなど何も恐るるに足らんことで、赤子の手を捻るよりも簡単だった。
悔しい悔しい悔しい!
ヴィアンカは短剣を投げつけ、同時にジークフリートに蹴りを入れた。一瞬の怯みが生まれた。その隙に、扉に向かって走り出した。
だが、ジークフリートに背を向けたのが間違いだった。
腕を掴まれ、背中から長剣で貫かれる。
「………………あ……あぁ……あ」
ヴィアンカは大きく目を見開き、くぐもった声を出した。
「さよなら、婚約者殿。お前の泣き顔はなかなか唆ったよ」
そう耳元で囁かれ、背中から胸にかけて串刺しになった剣を一気に引き抜かれた。
噴き出す血。
倒れ込むヴィアンカ。
痛い。
熱い。
痛い。
熱い。
痛い。
熱い。
だがそれも次第に感じなくなってくる。
血溜まりの中、動かぬ身体で、返り血を不快そうに拭っているジークフリートをただぼんやりと眺めた。
最早なんの感情も湧き出てこない。憎しみも悔しさも、何も。
ただ。
「ジークフリート様……一体わたくしの何がいけなかったのですか……」
……それがヴィアンカの最後の言葉となった。
何処で間違えたのだろう。
側室の話を受け入れていれば?
慰謝料などと喚かず、ふたりを祝福していれば?
……そもそも婚約などしなければ。
まだ婚約する前。
幼い頃、父に連れられ、パステルダールの領地に遊びに行った日のことを、走馬灯のように思い出す。
お父様の制止を振り切って、日差しの中を思い切り走り出した。
草原に大の字になって寝転がる。
草いきれの匂い。
そよそよと吹く風が心地よい。
鳥の囀り。
小川のせせらぎ。
すべてがキラキラと輝く、美しい風景だった。
あの頃は毎日楽しかった。
未来に、何も不安などなかった。
将来は幸せになれるのだと信じて疑わなかった。
嗚呼、何処で間違えたのだろう。
恋をしたことがない?
だって仕方がないじゃないか。
自分は政治の駒なのだから。
心を押し殺し、我慢するしか、ない。
自由に恋できる貴女が妬ましくて……羨ましい。
ヴィアンカも恋がしたかった。
恋愛小説のような熱く燃え上がる恋。
ただそばに居るだけで心が満たされるような甘く穏やかな恋。
どんなものでもいい。ただ、恋がしてみたかった。
決して不貞など働かず、一途に愛してくれる誰かと、恋に落ちてみたかった。
……真実の愛に出会いたかった。
それも、もう、叶わない。
お父様。
お兄様。
ごめんなさい。ごめんなさい。
愚かな娘の惨めな最期をお許しください。
……薄れゆく意識の中、最後に思い出したのは、愛してくれた家族のことだった。
「ねぇ、ジーク。ホントに殺しちゃって大丈夫だったの? 今更だけどさ」
「大丈夫、何も心配しなくていい。我々の計画は完璧だ。邪魔者はいなくなったんだ。幸せになろうな、ミコリ」
「これで私がジークのお嫁さんになれるのね。嬉しい!」
ふたりは熱く抱擁を交わした。
ジークフリートの腕の中、ミコリリィはそっと呟いた。
「馬鹿な女で助かった。やっぱり『ヒロイン』は『悪役令嬢』なんかに負けない運命なのよね。うふふっ」
fin.
※お読みいただきありがとうございました。
※これは
幼馴染が悪役令嬢の為に王太子殿下になってくれました
https://ncode.syosetu.com/n5925hx/
のプロローグに当たる話です。
ゲームの中の真相は、もしかしたらこんな話だったかもしれない、的なifの話でした。