第6章 あの香水がいけないんだ
ジョンは体をまっすぐにすると、きつく尋ねた。
「おい、どういうことだ?」
二年前から海外にいたのだ。 結婚なんかできるはずがない。
「二年前のことです。 サム様が、彼の命を救った女の子とあなたを結婚させたんです そのひとが、 今のあなたの奥様です。 サム様がすべて手配なさって、 婚姻届もすべてお持ちです」
ヘンリーがアシスタントになった後、サムはこの件について彼に話したのだ。 そして、ジョンが浮気をしないように見張りを頼んでいた。
実際、ジョンは最近興味を持っている女はまさに彼の妻なのだ。
それで、ヘンリーはその任務に一応成功していると言ってよい。
一方、ジョンは眉をひそめ、ぞっとするような結論に達した。 彼は歯ぎしりして、「つまりあいつは俺を財産みたいに使って取引したんだな」と言った。
ヘンリーは口を開いて説明しようとしたが言葉が出なかった。
そうは見えないかもしれないが、サムはジョンのことを第一に考えて行動していた。
彼は、息子が一生妻を見つけられないのではと心配していたので、手を尽くして花嫁を探したのだ。 そして、ニーナがこれ以上ない相手だと確信していた。 ヘンリーは死んでも、サムが言ったことをジョンに教える気はなかった。
けれども、ニーナの私生活を垣間見ることすらできなかった理由をようやく理解した。 サムが黙って何かやったに違いない。
シー家の屋敷、 スクエア通り一番地。
ジョンは車から降りるや否やサムの書斎に一目散に駆け込み、「俺が結婚しているってどういうことだ?」と尋ねた。
サムは書くのを中断した。 彼は頭を上げて気焔をあげている息子の方を見た。
「何があったんだ? 挨拶すらせずに いきなり食ってかかるとは、なんてやつだ!」
サムはあまり忍耐強い男ではない。 誰かが無礼を働こうものなら、そのままお返しするのが彼のやり方だった。
ジョンの態度はかなり失礼だったので、サムは「おまえが妻を見つけられないんじゃないかと心配していたので、お手伝いしたのさ」と答えた。
親父は誰も俺を愛してくれないと思っているのか?
馬鹿にしているのか? ジョンはイライラ考えた。
名門シー家出身、しかもタイム・グループのCEO。 セレブの中、有名で、結婚するのに最もふさわしい男、それがジョンだ。
ほんの数日前も、ある女性がもの欲しそうに彼を追いかけ回していた。
誰も欲しがらないわけがないじゃないか?
笑わせるな!
「俺はいますぐ離婚する」 ジョンは強制された結婚などする気はなかった。
自分がふさわしいと思った女性としか結婚などしない。 少なくとも、美人でなければだめだ。例えば、この前自分の車に轢きかけるところだったあの子でも良さそうだ。
サムは血をたぎらせ、 声を荒げた。
「馬鹿を言うな!」
ジョンはめったに父親の話を聞こうとしなかった。
そして、今回もそのつもりはなかった。
ジョンは帰国して以来、久しぶり父親と会って、もう争いに明け暮れていて、 二人の関係には大きな亀裂が入るのだろう。
一方、そばに立って見守っていたジェイクは、ここ数日の出来事について考え込んでいた。 ジョンはまだ帰国したばかりだと言うのに、すでにサムをこれまでになくイラつかせている。
ジェイクは振り返って写真を取り出し、 ジョンに手渡してこの状況を打開しようと試みた。
「若様、決断される前に奥様にお会いされてはいかがでしょう?」
ジェイクは、夫婦が共に時間を過ごせばお互い少しずつ恋に落ちるだろうと信じていた。
しかも、若いニーナはとても美しく、人としてカリスマがあった。
男なら誰もが夢中になるだろうしジョンだって例外ではないはずだ。
L大学にはニーナのファンがたくさんいるらしいではないか。
写真に写った ニーナは繊細な眉毛と素敵な笑顔をしていた。 肌は色白で暖かく、陽の光を浴びて輝いている。 髪はさりげなくピンで留められ、長い髪の毛が数本頬にかかっていた。
少しぼやけたその写真は、 誰かが撮ってオンラインに投稿したもので、 ジェイクはジョンに見せることもあろうかと印刷しておいたのだった。
けれども、彼はその写真しか持っていなかった。
ジョンはすぐさまその女の子に魅了され、 写真を手にとってもっと近くで見ようかとためらっている。
すると、びゅうっと風が部屋に吹き込んだ。 写真は窓の向こうに吹き飛ばされ、ふわふわ浮かんだ後すぐに見えなくなってしまった。
サムは言葉を失った。
ジェイクもその突然やってくる出来事に同じリアクションだった。
横で立ちつくしていたヘンリーも窓の外の暗がりをそっと見つめながら、肌寒い春の風が部屋に吹き込むのを感じていた。
「ああ、残念」
ジョンは片手をポケットに突っ込んで穏やかに言った。
サムは怒りで眉がひきつった。
彼は、ジョンがわざとイライラさせようとしているのはわかっていた。
「ご主人さま、写真はあれしかなかったんですが……」
ジェイクは隣で一言付け加えた。
サムはそんなこと聞きたくもなかった。 この話し合いにもううんざりしているのだ。
ジョンは父親を一瞥して手を差し出し、離婚届を手渡すよう促した。
「なんだね? お金でも欲しいのか? なんでお金がいるんだ?」
サムは息子の仕草がわからないふりをするだけではなく、その上、わざと曲解したのだ。
「もう ……」
ジョンは怒り狂っていて、父親の行動に我慢がならなかった。
そして上着を手に取ると、くるりと背を向けて立ち去ろうとした。
「どこに行くんだ? 今夜は家族の夕食だぞ。 おまえも一緒にだ!」
サムは叫んだ。
「俺はこの二年間、あんたたちと夕食をとったことなんかないんだ。 俺がいようがいまいが関係ないだろ」
ジョンは手を振って出て行った。
「おい、戻ってこい!
」 サムは怒ってわめいた。
「あんたが離婚届を渡す気になったら帰ってくるよ」
「ジョン!」
サムは正直がっかりした。 そして、家族の集まりでは、ひどく暗いムードになってしまった。 みんな何も言わずに、ぎこちなく黙り込んで座っていた。
月曜日、ニーナはドレッサーのそばを通った時ハッと何かに気がついた。
彼女は立ち止まって香水の瓶を見つめる。
あの晩、イザベラが瓶をよこす前に中の香水を振りかけてきたことをニーナはよく覚えていた。
ニーナは細い指で香水瓶を掴むと、そっと蓋を開ける。
「フェロモン香水だ!
私が騙したとあの男が言ったのは、そういうことだったのか!」 ニーナは目を細め、香水をバッグに放り込んで大学に向かった。
偶然にも、彼女は食堂でイザベラに出くわした。
「ニーナ、週末はどうだった?」
イザベラはまるで何もなかったかのように尋ねた。
しかし本当は、ニーナの週末がどうだったのかなんとなくわかっていた。
フォーシーズンズ・ガーデンホテルで朝、目を覚したときに、たまたまニーナがおろおろしながら立ち去るのを見たのだ。
思いの外、彼女の計画はうまくいったのだろう。
ニーナの処女を失わせたのは自分なのだと思うと、イザベラは鼻が高かった。
そして、誰かに純潔を奪われたいま、ニーナはアルバート・ソンにとってもはや理想の彼女ではなくなったと確信していた。
ニーナはイザベラの挨拶に応じなかった。 それどころか、彼女はお椀の中のお粥を無表情に見つめたままだ。
イザベラに思うところがあるのだ。
「乱暴された」ニーナはそう言って、イザベラの反応を伺った。
それを聞いたイザベラはいきなり立ち上がって叫ぶ。
「えっ? 大丈夫なの? 何されたの?」
混雑した食堂で、周りの声に負けないように、わざとの大声だった。
彼女の反応があまりに急で激しかったので、ニーナはほとんど固まってしまった。
イザベラはニーナの身体を調べ始めたが、男に乱暴されたような跡は見つからない。 彼女はどんよりした気分になり、失望以外感じられなかったが、落ち着きを失うまいと努める。
ニーナはイザベラを一瞥し微笑むだけだった。
「やり返してやったわ。 私カンフーやってるの、 知ってるでしょ?」
イザベラはほっとしたふりをして微笑んだ。
「ああ、なるほど!」
どういうこと? ニーナは何か隠しているんだろうか?
ニーナが紳士服を着てホテルから出て行くのを見たんだけどな……