第5章 おまえの夫は不能なのか
彼女がジョンを騙したって?
ニーナは怒りで鼻を鳴らした。 そして、赤い唇を尖らせ、「騙したのはあんたの方じゃない!」と真っ当な憤りに駆られて言い返した。
しかしジョンは、「香水がなかったら、誰がおまえなんかと一夜を過ごすもんか。 俺がもっと美人を相手にできないとでも思っているのか?」と平然と言ってのけた。
「香水? どんな香水?」
それで、昨夜の出来事が全てニーナの腑に落ちた。 彼女は目を細め、「ねぇ、おじさん、それ私のせいじゃないんだけど、信じてもらえるかしら?」と尋ねる。
ジョンはまだ片手でニーナのあごをつまんでいて、どんどん痛みが増してきた。
彼はニーナの顔をそっと覗き込んだ。 彼女の涙に濡れた瞳には正直さがはっきりと見て取れ、まるで魔法で引き込まれそうだった。
そこで、ジョンはニーナの顎を放し、意味ありげ笑いながら、彼女に少し近づいた。
「で、信じてくれるのかしら?」
ニーナはそう考える。
「えっとねえ、わかってる? 私は既婚なのよ」と告げた。
この男とはもう縁を切りたいのだ。
「だから何?」
もちろん、ジョンはそんなこととっくに知っていた。
トラブルに巻き込まれるかもしれないので、そもそもニーナと連絡を取るつもりはなかった。 ところが再会してしまったから、彼は、ニーナがもう一度誘惑するために近づいたのではないかと疑っていた。
ジョンの無関心な口調を耳にしてニーナは腹を立てた。
「そういう趣味なわけ?」
この男は人妻と浮気するのが好きなのだろうか?
ジョンはニーナの質問をよく考えてみた。 彼には以前そんな趣味はなかったが、今は状況が変わった。
「試しにやってみて考えるのもありだな」
いままでジョンを愛した女性のほとんどは、見た目に関してさえ彼の高い理想を満たしていなかった。 彼女のような自分の横に並ぶことのできる美しい女性にそうしょっちゅう出会えるわけではない。
口調の険しさに気がついたのか、ニーナは「私の夫はその辺の男とはわけが違うのよ」と目を細めて釘を刺した。
家族がスクエア通りの屋敷に住んでいるのだから、その辺の男とはわけが違うに決まっている。しかもそのブロックにある住宅はその一件だけなのだ。 とんでもない家族の出身に違いない。
ニーナがそう言ったので、ジョンはヘンリーが彼女の身辺調査をしたときに集めてきた情報のことを、重わず思い出した。 わずか半ページほどの長さで、役に立つことは何も書かれていなかった。
なにはともあれ、ジョンは海外から帰国したばかりなのだ。出来るだけトラブルは避けたいところだ。
「今すぐ私を降ろして」とニーナは要求した。
男が不安そうにしているのを見て、ニーナはほっと溜息を吐いた。 彼女はこの男がいい人ではないと感じていた。
さっさと立ち去るのが一番だろう。 遠ければ遠いほど良い。
目下、ニーナは夫以外の男に構っている暇はなかった。 何よりもまず、一度も会ったことのない夫と手を切るのが先だ。
しかし急に不安に襲われる。 この男も彼女の美しい顔を求めて追いかけてくるだろうか? 彼女が両親の良い遺伝子をすべて受け継いだことを後悔したのは初めてではなかった。
そのせいで、いろいろな問題を抱えてきたのだ。
「まずは私を車から降ろして、いいでしょう?」
ニーナはなだめすかすような笑顔で再び促した。
ジョンは「嫌だね」と言い、頭を上げると不気味な笑顔でニーナの方を見た。
「他の男と結婚していると言ったって、おまえの身体は俺のものだ。 それにおまえの夫、不能なんだろ?」
それを聞いて、ニーナはひどく侮辱されたと感じた。
これまでの人生で、今日ほど屈辱を感じたことはない!
運転席で耳を澄ませていたヘンリーでさえ、それを聞くともう我慢できなかった。 けれども、彼にできることといえばそっと心の中で罵るだけだ。 ヘンリーは自分の上司の悪口を大声で言う勇気などなかったのだ。
その瞬間、車内が凍りついたが、ニーナが原因だった。
ピシャリ……
ジョンの顔にいきなり派手な平手打ちを食らわせたのだ。 おろおろした赤い目でニーナは恨めしげに彼を見つめた。
彼女は、昨夜起きてしまったことはもう受け入れ、すべて忘れて楽になろうとしているつもりだった。
その件でジョンがまだ何か言うのは受け入れられなかった。
いきなり聞こえた平手打ちにヘンリーは唖然とし、息を呑んだ。
ジョンは顔に平手打ちされたのは初めてだった。 耳元でうなる音を聞くと灼けつくような痛みが続き、口の中に魚のような甘ったるい味が広がった。
ニーナの平手打ちは容赦無く、とても痛かった。
「降りろ!」
ジョンは歯を食いしばって、荒々しく怒鳴った。 彼の顔には黒い影が差し、まるで挑発されて猛り狂ったライオンのようだった。 心には怒りの炎がめらめらと燃え上がる。
ニーナは弱い者いじめをする人間を恐れたことはなかった。けれども、そんな男のそばに居続ける気もなかったので、 そっと車を降りると振り返らずにきびきびと歩き去ろうとした。
しかしジョンはニーナが車から降りるや否や、彼女がそれ以上向こうに行くのを邪魔した。
ニーナはぎろりと睨み返し、「まだわからないの?もう一発ひっぱたかれたいわけ?」と訊いた。
タフで名高いジョンにとって、もう一度平手打ちされるくらいなんでもなかった。
それどころか、食らった平手打ちに利息をつけて請求するだろう。
彼は取引で負けたことが一度もないのだ。
「俺をひっぱたいておいて、そのまま帰れると思うなよ? 俺をなんだと思っているんだ? 選択肢を二つやろう。 俺がおまえに飽きて放り出すまで一緒にいるか。然もなくば、昨夜の出来事を写したビデオがリークされるのを待つか」
彼はいけしゃあしゃあと脅しをかけると、凍りついたニーナの顔を堪能していた。
「嘘でしょ、ビデオなんか撮ったの?」
ニーナは歯ぎしりしてキッと振り返り、目の前の男を殺してしまえればいいのにと思った。
彼女は、彼がどんな子供時代を送ったらこんなひねくれた大人になるのかと呆れ返った。
「嘘じゃないぜ」
ジョンは平気で嘘をついた。実ははったりをかけてたわごとを言っているだけだったのだ。
彼は嘘をつくことをよしとせず、軽蔑すらしていたが、相手が小娘なら大したことではない。
怒り狂ったニーナの歯はカチカチと鳴り、憎しみに満ちた目は刺すような視線を送っていた。
ビデオが広まってしまったら評判を失うだけでは済まない。二千万ドルも失うのだ。
その男がよこした選択肢はどちらも受け入れ難かった。
パニックでニーナの美しい目はきらめいた。
敗北の傷跡が刻まれた彼女の青白い顔とおろおろした瞳を見ると、勝利の喜びがジョンの目を輝かせた。
「まあ、じっくり考えるんだな」
彼はわざと台詞を引きのばした。 ジョンの柔らかな声はチェロのように低く魅力的で、ニーナに突き刺さった。
ジョンに反撃されたニーナは、別の弱みに気づき挑発的に言い返す。
「ビデオをリークしたらあんたのイメージも台無しよ? 我慢できるかしら?」
ヘンリーは心配そうに、 ため息をつく。 ジョンは完璧なイメージを最も気にかけており、 ニーナは彼のアキレス腱を的確に突いたのだ。
もはやジョンの策は、 尽きかけているに違いない。
「小賢しいのは良くないぜ」
ジョンは物知り顔でそう言うと、この小娘にやり込められないように別の方法を考え始めた。
こんな面白い女の子は何としても側に置いておきたい。
「じゃあ別の選択肢をやろう。 俺を尾行せずに三回会うことができたら、ビデオをすっかり消してやってもいいぞ」
レキシンポート市は大きい。しかし彼女は賢かった。 二人が三回出会うのはたいして難しいことではなさそうだし、会えるかどうかなど実際のところどうでもいいのだ。 結局、ビデオはニーナを脅すため手段でしかなかった。
ジョンにとっては、ニーナともう二度と会えない可能性の方をもっと心配していた。 ならば、また出会ったら面白いわけだ。
「本当?」
ニーナは信じて良いかどうかためらった。
「もちろん」
ニーナが罠に嵌るのを見て、ジョンは皮肉っぽく頷いた。
ニーナはひとしきり考えていた。 あの男は、彼に出くわすために積極的に行動してはいけないとは言わなかったし、それを妨げるような制約もない。 ただ三回出会ったらビデオを削除するなら、 負けるわけがない。
すると、ニーナはうぬぼれて顔を上げると、「わかった」と同意した。
そして手を振って、くるりと向きを変え足早に立ち去った。
彼女は騙されたとは思いもよらず、きびきびと歩き続ける。
できる限り早く離婚することしか頭になかったのだ。
すぐに離婚の申し立てを済ませて、ビデオを削除しよう。あの男にも二度と会うことはないだろう。そう思うと心が軽くなった。
角を曲がると、待ちきれずに携帯電話の電源を入れ、 しばらく検索して一度も掛けたことのない電話番号を見つけ出した。
その番号が奇妙な夫のプライベートの連絡先らしい。 ニーナは必要とあれば彼に助けを求めることができるとおじさんから言われたから。
そして今、実際にこの変な夫と連絡を取り、助けを求める必要があるのだ。
「こんにちは、あなたの妻です。 私たちが結婚して以来二年間、夫の義務を果たしていただけないので、離婚させていただきます。 お父様から離婚届けを受け取って、できるだけ早く署名してください」
素早くそう打ち込むと、すぐにメッセージを送信した。
ピコン、ピコン……
ジョンの携帯電話にメッセージが届く。
画面を見ると、なじみのない番号がある。 彼はメッセージをクリックして読むなり、その意味のわからない内容をすぐに削除した。
「馬鹿にしてるのか? 結婚なんかしてないぞ、俺は」
ジョンはフンと鼻を鳴らした。
今度は詐欺のターゲットにされてしまったのか……
ヘンリーはジョンの台詞を聞いて、「社長、あなたは確かに結婚しています。極秘結婚です」と慌てて説明した。
そして、「お相手は、社長の顔を叩いたばかりのニーナさんです」とそっと心の中で付け加えた。
ジョンは言葉を失った。
何だって? 極秘結婚?
どうして知らされていないのだ?