あの子の名前が思い出せない
あの子の名前が思い出せない
ぼんやりと顔は思い出せるのに
喉に絡まった小骨みたいに
あの子の名前が思い出せない
もやもやと頭の奥に引っかかる
なんだったけかと思い出そうとして
出てこないのがもどかしい
あの子は大人しい子だったと思う
いつもグループの中にいて
それでいていつも端の方に立っていた
あの子とそんなに話したことはない
あの子と遊んだこともない
何かの拍子に何かを手伝ったこともある
ただそれくらいの関係性
あの子の名前が思い出せない
なのに僕は行こうとしている
あの子がいるであろう場所へ
「めんどくさいなぁ、お前行くの?」
たまたま一緒にいた友達がそう聞いた。
「まぁ。どうせ暇だし、行かないのもあれだろ」
「それもそうだな」
何があれで、それなのか
平凡で当たり障りのない惨い会話だ。
場所にはそれなりの人がいた
みな神妙な顔をして、同じ様な姿形
あの子の名前が思い出せない
雰囲気に溶け込むことだけは一丁前で
心の場違いさは甚だしい
「さっちゃん、なんで…」
「言ってくれたらよかったのに…」
クラスメイトの声がする
彼女たちのグループに
そういえば居たなとふと思った。
だが来ていたのはいつもいるメンバーの中の2人だけ
それがどうということもないが
涙がないのは僕と同じか、それとも呆然としているのか?
あの子の名前が思い出せない
僕も苗字で呼んでいた
先生に怒られることもない
遅刻反抗する子でもない
運動で目立つこともなければ
発言をよくする子でもなかった
いつも端の方で愛想笑い
そんな子の名前が思い出せない
列が前へ前へと進む
今の時期、間隔を広げるからか一人ずつだ。
呼ばれたのは僕と友達ともう数人、あとはよくいたグループくらい
僕が何故先生に選ばれたのか分からないが
こうして頼まれごとを聞きやすいのを見越していたんだろう
ついに僕の番がきた
思い出せなかったあの子の傍へ
ぼんやりしていた面影は
小さな額の中で
ああこんな顔だったなと気付かされる
そうして恐る恐る下を見て
記憶が塗り替えられそうになって目を閉じた
あの子の名前が思い出せない
どうしても思い出したいのに
どんな名前だったか出てこない
さっちゃんと呼ばれていたこの子は
一体どんな名前だっただろう
サキだったか、サツキだったか、サヤカだったか
目を閉じて煙をたなびかせる間に
ぐるぐる渦巻く胸を抱えて吐息を吐いた時
「さち……」
悲しみに染まった老いた女性の声が聞こえた。
ああ、そうだった
あの子の名前をようやく思い出した。
そうだ、あの子は幸せと書いてさちと呼ばれていた。
いつかの日、僕の名前にも同じ漢字が入ってますよなんて
そんなぎこちなくてつまらない会話をしていたのに
老いた女性は顔を覆って涙している
僕とは違う、心からの涙
あの子の名前を思い出せて
すっきりする…こともなく
静かに僕はその場を後にした
「帰り、マックよらね?」
「いいよ」
帰り道、同じような集団の群れに紛れて駅へと向かう。
ようやく思い出したあの子の名前
僕は20年後にも覚えているのだろうか
あの子は花の中にいて
僕はこうして立っている
今の鮮明で不透明な記憶は
たった今ももう劣化してさび付いていく
あの子のことをずっと覚えていてあげたいのに
僕はこの先も覚えている自信がない
あの子の名前が思い出せないと
また数年後にそう思うのだろう
僕はふと思い立って足を止めた。
「なぁ」
「何?」
「僕の名前覚えてる?」
「山田だろ?」
「いや、下の名前」
「あー…」
友達は思い出すように視線を上へ向ける。
ああ、そうか
僕もあの子も、何も違いはないんだろう
あの子の名前が思い出せない
了




