浮浪児①
アオイをこの世界に召喚したオルグ老人――彼の住居はそれなりに広い。少なくとも居住者が一人増えても問題はないし、もう数人増えても大丈夫な程度には余裕がある。
老人の一人暮らしには広い間取りは不便そうではあるが、昔は滞在する客も多かったらしい。かつては王室に仕えていたこともあるとは本人の弁だ。
「……暇です」
しかし当然のことながらテレビやラジオ、あるいはゲームといった娯楽用品は存在しない。一応書籍文化はあるようだが、如何せん一般に流通するような安価ではない。そのうえオルグが所有するのは主に魔術書の類であり、アオイの琴線に触れるようなものはなかった。
よって掃除や洗濯を終えてしまうとどうしてもアオイは手持ち無沙汰になってしまう。スマートフォンもすでにバッテリーが切れ、物言わぬ箱に成り下がってしまった。
「オルグさんも出かけてしまいましたし……どうしたものでしょうか?」
家の主たる老爺の姿は此処にはない。
この数日、アオイへの教育や能力の検証に没頭していた彼だったが、今日は珍しく外に出かけていた。
どうにも断れない筋からの呼び出しを受けたらしい。呼び出しの内容はアオイを召喚するための下準備として、幾つかヤバい橋を渡った事に関してらしいのだが……途中から聞き流した。聞いても精神衛生上悪そうだったからである。
「…………」
やることがなくて溜め息をつく葵の視線の先には木製の扉。家の中と外を繋ぐ出入り口。
今まで幾度かその扉を出入りしたことはある。しかし行動範囲は家の周辺だけで、そこから先に進むことは固く禁じられていた。
しかし――今アオイの道を阻む門番はいない。籠の鳥たる少女の前で、自由への扉が開かれるのを今か今かと待っている。
オルグの心配ももっともだとアオイは思う。見知らぬ土地に何の用意もせずに飛び込むなど余程の経験豊富な自信家か、そうでなければ想像力の欠けた阿呆だけだ。
老爺も悪意からアオイの行動を禁じたわけではなく、その身を案じるからこその制止なのだろう。
しかし同時にこうも思う――知識ばかりを蓄えても経験を伴わなければ意味がない、と。
人形のような無表情さと物静かな言動で誤解されがちだが、アオイ本来の気性は好奇心旺盛で行動的なものだ。
普段そうした一面が表に出ないのは、彼女の良識が周囲を気遣っているからに過ぎない。つまり――周囲に人がいなければ本来の気質が顔を出す。
「――そうですね、時間を無駄にするのもよくないですし……出かけてみましょう」
幸いにして通貨価値については教えてもらっているし、家のどこに置いてあるかも把握済みだ。
怖いもの知らずで危なっかしい――父親の普段から心配していた通りの行動を、ストッパーのいないアオイは異世界でも実行に移すのだった。
◆ ◆ ◆
「――なるほど、確かに日本ではないみたいですね」
一応オルグの説明に納得していたアオイであったが、それでも心の隅に一抹の疑いは残っていた。少なくとも自分の目で確かめてみるまでは全てを信じるつもりはなかったのだ。
だが目の前の光景を前にすれば流石にそうも言っていられない。
「母さんが見せてくれたファンタジー映画みたいです」
彼方に目を向ければ街全体を囲う高さ5メートルはありそうな石造りの防壁。防壁の上には監視の兵らしき影が一定間隔ごとにチラホラと見え、時折周囲を見渡しているようだ。
街の中心部にはシャンボール城を思い起こさせる白亜の美しい城。
オルグ老人から聞いた話ではこの街は王都らしいので、あそこに国を統べる王族が住んでいるのだろう。
多くの人々が行き交い声を張り上げる区画は商業区画らしく、円状の広場を囲むようにたくさんの店舗が並んでいた。
広場はかなり広く、買い物客だけでなく荷物を載せた幌付の荷馬車があちこちに停めてあり、出店の姿も幾つも見える。
しかしルールのようなものがあるのか、食料品や衣料品など売る品によってある程度店も区分けされているようだった。
そんな広場に繋がるのは幅広い大通り。道の両脇には日本では見かけない造りの木造の建物や石造りの建物が一定間隔ごと建てられており、商業広場が目当てなのか多くの人々が行き来している。
(皆さんの衣服もやっぱり違いますね)
決して馬鹿にするつもりはないのだが、それでも現代日本で培われたアオイの感性にはやや古臭く感じられる装い。それでいて歩く動作そのものからはアオイの知らない逞しさと力強さのようなものが感じられる。
一言で言うと――空気が違う。
小難しい魔術理論だとか、手品のような魔術よりもよっぽど『世界の違い』を肌で認識できた。
……オルグが耳にすれば涙目かもしれないが。
(なんでしょうか? 何か視線を感じるような気がします)
別にアオイは武術の達人というわけではない。気配だとかそんなものを感じるような能力は持ち合わせてはいない。
しかしそんなアオイをして『周囲に意識されている』ような感覚を覚えずにはいられなかった。
おかしい。自分は特におかしな行動はとっていないはずなのだが。
(……オルグさんが用意してくれた服に問題があったのでしょうか?)
――と、疑問に思うアオイであったがそれは半分正解で半分不正解だ。
確かにアオイの着ている衣服は一般に流通している物よりも上質であり、この国では貴族階級のが着るような品である。オルグがこの服を用意したのは罪悪感からの部分が大きかったのだが、こうも目立ってしまっては失敗と言わざるを得ない。
もう一つの理由としてはアオイの整った顔立ちが上げられる。この国では見かけぬ容貌だが、精巧な人形のような容姿は自然と一目を惹いていた。
――ドンッ。
「ごめんよ、姉ちゃん!」
自身の容姿に自覚のない少女が周囲から向けられる視線に不快感を感じていると、突然腹部に軽い衝撃を感じた。
変声期に入る前の甲高い謝罪の声。見ればみすぼらしい衣服を着た少年が速足で走り去っていく。
どうやら先程の衝撃は自分よりも背の低い彼によるものらしい。
「…………」
アオイに顔を見せることなく背中を向ける少年。その背を追うアオイの視線がゆっくりと細められた。
◆ ◆ ◆
表通りから外れ、古びて薄汚れた家屋が道を連ねる貧民街区画。
この場所は都市開発に取り残され、さりとて住み着く住人を力ずくで追い出すわけにもいかない王都の影だ。
もちろん国の上層部とてこの場所を放置しておくのは好ましい事とは言えないと理解しているのだが、優先すべき予算配分や住民の受け入れ先などの問題から現状では放置されているのが実情。出来る対処は精々が見回りの衛兵を増やすくらいだ。
「へへっ、今日の仕事は上手くいったな」
そんな場所と表通りを繋ぐ中間地点。機嫌よく頬をさするのは、この貧民街に住み着く浮浪児――ヴァンである。
薄汚れた赤毛と拗ねた目付きの彼の特技は『スリ』――つまりは窃盗だ。
今日の獲物は見るからに人馴れしてなさそうな年上の少女。上質な服を着こなし、街をキョロキョロと見回す様子は世間知らずのお上りさんのようにしか見えなくて、ヴァンからはカモとしか思えなかった。
実際その考えは間違っていなかった。偶然を装いぶつかって、その隙に慣れた動作で懐から目当ての物を抜き取ることに成功した。
ヴァンの掌の上には硬貨が詰まっていると思しき革袋。この重さなら中身が銅貨でも銀貨でもかなりの収穫だ。しばらくは食いっぱぐれないで済む。
「さーて、そろそろ稼ぎを拝見っと――?」
ヴァンは昔から貧民街を根城とする浮浪児だ。奪ったり奪われたりが日常茶飯事な場所で暮らす以上、他者の気配には人一倍敏感だ。
――だというのにこれは一体どういうことか?
己に射した小柄な影。両肩にポンッと置かれた白く美しい手。そして背後から感じる気配。
ヴァンに悟られぬことなく忍び寄ったこの手際。まるで熟練の暗殺者のようではないか。
「――――な、なんでッ!?」
恐る恐る見上げれば、感情を感じさせない漆黒の瞳が冷たくヴァンを見下ろしていた。
当然ヴァンにはその人形のような顔に見覚えがあった。というよりも先程仕事の獲物にした相手だ。
(う、動けねぇ……!)
自分の背後の相手を認識したヴァンはすぐにでも逃げることを考えた。しかし如何なる押さえ方をされているのか身動きが全く取れない。もはやヴァンの命運は少女の掌の上だ。
――失敗した。騙された。カモなど見間違いもいいところ。表向きの所作にまんまと欺かれてしまった。これは決して手を出してはいけない手合い――ッ!
(……困りました。どうしましょう)
――などというのは完全にヴァンの勘違いである。
少年の背後を取ってみたアオイだったが、内心はどうしたものかと右往左往中だ。
自分にぶつかってきた少年――彼に視線を合わせ浮かび上がってきた情報『スリ24/46』。
懐を確認してみれば、何か買い物でもしてみようと用意してきた軍資金がキレイサッパリ姿を消していた。慌てて少年の後を追い、そっと背後を取り両肩に手を置いた。
昔からかくれんぼが得意だったからか気配を消すのが妙に巧みだったり、この世界に来てからは見かけに依らぬ力自慢だったりするアオイだったが、本人にその自覚はない。
それどころか捕らえた盗人に何を言うべきかテンパっているくらいだ。
――なので、とりあえず思ったことを素直に告げることにした。
「泥棒は悪いことですよ」
その言葉を聞き――置かれた状況も忘れるほどに少年の頭に血が昇った。
「お前に――」
「……?」
「お前に何が分かる!」
「……!」
「オレだってこんな事やりたくてやってるわけじゃないんだ! こうでもしないと生きていけねえんだよ! まともに食えずに飢える苦しみも知らないで偉そうなこと言うなァ!!」
ヴァンとて初めからこうだったわけではない。誰が好き好んで衛兵に捕まりかねない犯罪を好んでやるものか。
だが駄目だったのだ。身寄りもなく薄汚れた子供に真っ当な働き場所などあるはずもない。生きていくためには手段を選んでいられなかった。
最初の切っ掛けは本当に些細な事。偶然に裕福そうで無防備な人間を見かけて魔が差してしまったのだ。
それでも失敗していればそこで終わっていたかもしれない。自分の迂闊な行為に反省し別の道を探していたかもしれない。
だが――成功してしまったのだ。得られた金で腹を膨らせる喜びを知ってしまった。一度それを味わってしまってはもう駄目だった。
悪いことだと自覚しつつもズルズルと続けてきた。標的を裕福な相手に限定していることがヴァンの最後の一線だった。
(――驚きました)
少年の激情をぶつけられたアオイは瞼をわずかに開く。
アオイは善良無垢というわけではない。叱られたこともあるし諫められたこともあるし、友人と口喧嘩をしたこととてある。だがこうも真っ向から憤りを向けられたことはない。
自分の口にした言葉が間違いだとは思わないが、この少年を激させる事を言ってしまったのだろうと思う。
――実を言えばその認識は正確ではない。
ヴァンが本当の意味で怒りを覚えるのは浅ましい自分自身であり、そうさせる世界だ。
アオイはそのやり場のない怒りを向ける相手として適当だったというだけでしかない。
「だいたいオレだってこんな才能なんて欲しくなんてなかったんだ! 捨てられるくらいなら捨てた――」
「――待ってください」
少年の独白を遮る怜悧な声。
冷や水を浴びせられたようにヴァンは口を噤んだ。
「そのスリの才能ですが……不要なんですか?」
「――え?」
「不要なんですか?」
黒曜石のような瞳がヴァンを射抜く。
その視線は感情を感じられない声音もあってか、酷く冷徹な印象を相手に与えた。
「い、いらねえよ! こんなスリの業なんか!」
それに負けじと少年は叫ぶ。熟考したわけではなく感情的な反発。
しかし視線を交えた少女はその言葉を額面通りに受け取ってしまった。
「わかりました。……では失礼しますね」
元より一度検証してみる必要性を感じてはいたのだ。承諾も得ずに窃盗など行うつもりはなかったが、本人が不要と言うのであれば問題あるまい。
(……こんなにも簡単に?)
思っていたよりもあっさりとその作業は終わった。
アオイの裡に湧き上がる簡易情報は、『スリ24/46』の才能が少年から自分に移ったことを示していた。
あまりにも――簡単すぎる。目の前の少年も自分の身に何が起きたのかまるで気がついていないようだ。
(最悪です。こんなに容易く人の持ち物を奪えていいはずがありません)
前々から一度試す必要性を感じており、都合よくその機会が巡ってきたからこそ試したのだが、それでもこの結果には不愉快さを感じずにはいられなかった。
アオイに根付く良識がこの行為をとても下劣な行為だと認識していた。
「――あなたから『スリ』の才能を無くしました。これからはスリはもう出来ないと思います」
「はあ? ……いきなり何を言い出してんだ?」
とはいえ相手にはきちんと伝えるべきだろうと口を開く。しかしヴァンがアオイに向ける視線は理解不能な存在を見るものだ。とても信じているようには見えない。
――突然に才能を無くしたなどと言われては当然の反応ではあるが。
「では私相手にもう一度スリをやってみせてください。そうすればどうなったか分かりますから」
「……ッ!」
そう言ってアオイは少年の両肩から手を放した。
才能を『強奪』で奪われた人間はどうなるのか? それはアオイも知りたいことであった。
一方解放されたヴァンはと言えば、すっかりこの奇妙な少女に飲まれてしまっていた。それこそ逃げ出そうという考えが浮かばないほどに。
(……あれ? ――ッ!? な、なんだよこれ! どうなってんだ!?)
少女に言われるがままにスリをやってみせようとしたヴァンだったが、その心中は戸惑いに支配されていた。
出来ないのだ。今まで呼吸に等しく慣れ親しんだ一連の動作。それが全く機能しなくなっている。
頭では動作を理解できているはずなのに身体が全くついてこない。それはあたかも理想的な剣士の型をイメージ出来るのに身体で再現できないような。
「お、お前! いったいオレに何をしたんだよ!?」
「……ですからあなたの『スリ』の才能を無くしました」
「ふ、ふざけんなよ! こんなことになって……どうしてくれるんだよ!」
黒髪の少女は心底不思議だというように小首を傾げた。
「ですが……先程君はその才能は不要だと仰りませんでしたか?」
「確かに言ったけど……けど、これからオレはどうすりゃいいんだよ!」
たとえ疎もうとも在って当たり前だったもの。その突然の消失に少年は恐慌状態に陥っていた。
足元が崩れ去ってしまいそうな不安感。自分にとっての最後の頼みの綱が失われた実感。
浅ましくも逞しくこの貧民街で生きてきた少年は今この時、年相応の精神年齢に戻ってしまっていた。
(……困りました)
今にも泣きだしそうな少年を前にアオイは眉をしかめた。
少年に才能を戻すことは可能だ。というよりもすでに一度やってみた。『強奪』だけでなく『付与』の効果も確かめておきたかったのだが、『強奪』の時と同じくあっさりと成功してしまった。
しかし果たしてこれは正しい行いと言えるのだろうか?
(『スリ』の才能などを持っていたら彼はそれに頼らざるを得ないでしょうし)
簡易情報を読み取る限りこの少年はまだ大丈夫なはずだ。これから先真っ当な道で生きていくことが出来るはずなのだ。
たとえ独善であっても子供に道を外した生き方をしてほしくない――それがアオイの信じる正しさだ。
だから、
「――他に生きていく手段があればどうでしょうか?」
「……え?」
「スリ以外で生きていける道があれば君はそれを選択できますか?」
気づけば身体を屈め、少年に視線を合わせそう問いかけていた。
「……そ、そりゃあそんなのがあればいいだろうけどさ。そんなの無理に決まってるだろ」
「――わかりました。行きましょう」
「な!? ちょっ、おまっ!? 離せよオイ!」
途方に暮れたような少年の返事を聞いたアオイは迷うことなくその痩せた腕を掴んだ。
そのままズルズルと引き摺って歩く。ヴァンも抵抗するのだが、意外なほどに力強い少女には敵わない。
「お前な! ホントにふざけんなよ!」
ヴァンの必死の叫び。しかしアオイは一切聞く耳持たず幼い少年を家に連れ帰るのだった。