迷子①
葵の実家「霧崎家」はいわゆるところの名家というやつだ。先祖代々から続く地主の家系であり、地元企業や自治体との繋がりも強い。
そんな霧崎家の次女として生を受けた葵だったが、厳格な父とのんびり気質の母の教育が良い方向に作用したのか、若干世間知らずで怖い物知らずではあるものの善良で良識を持った性格に育った。
母譲りの黒髪を肩にかからない程度に切りそろえ、透き通るような白い肌と整った目鼻立ちの葵は、幼さを残しつつも日本人形のように美しい。
しかし生来の気質なのか、どうにも感情表現が下手で終始無表情。
「暗がりで出会うとちょっと怖い」・「にらめっこをすると負けもしないけど勝てる気がしない」とは気心の知れた幼馴染の台詞。……少しだけ凹んだのは内緒の話だ。
そんな彼女は現在、
「――ここは何処でしょうか?」
見知らぬ場所にて小首を傾げていた。
周囲を見回してみれば一面石に覆われた長方形の空間。薄暗く湿った空気からおそらく地下室か何かではなかろうかと思われる。
部屋の隅には書物やよく分からない器具が雑多に積み上げられ、この地下室の使用者の人格を端的に伝えてくる。
足元に視線を向ければ淡く輝く奇妙な紋様。床一面に描かれたそれは淡い光を発しているのだが、その輝きを徐々に薄れさせているようだ。
(夢? ……それとも映画か何かの撮影でしょうか?)
どうにも見慣れぬ非現実な光景を前に思考が追い付かない。
そして葵は最後にこの部屋で最も奇異なものへと視線を向けた。
「おおおおおッ!! やった、やったわい! 大成功じゃ! 流石は儂! 凄いぞ儂!」
そこにはやたらとハイテンションで狂喜乱舞する一人の老人。白く豊かな髭を蓄え、黒く厚手の衣服を着込んでいる。
高齢者の年齢を初見で判別するのは困難だが、葵の見る限り七十歳は超えているのではなかろうか。
その様子はあまりに興奮しすぎで、血管が千切れたりしないか少し不安になってくるレベルだ。
「……あの、お爺さん。少しよろしいでしょうか?」
「お? おおう、すまんかったのう! 正直上手くいくかどうか半信半疑だったんじゃが、思わぬ大成功に年甲斐もなくはしゃいでしまってしまったわい」
とりあえず状況を把握するために目の前の老翁に話しかけてみる。
声をかけられた老翁はゴホンッと咳払いし、子供染みたところを見せてしまったわい、と頭をかいた。
その態度からは悪意のようなものは見受けられなかった。老爺に対する適切な表現をあげるなら、子供心を持ったまま成長してしまった大人だろうか。
「実はお尋ねしたいことがあるのですが、……ここは何処であなたはどちら様なのでしょうか?」
「……ほほう、なるほどのう。それは確かに疑問を感じても仕方がないのう」
葵の問いに老爺は満足げに白く長い髭をさすりつつ頷いた。
そうした質問をされ答えることが出来るのが嬉しくてたまらないといった様子だ。
そしてやおら腕を大きく振りかぶると、世界に重大な宣言するかのように大きく告げる。
「ここはお主が先程までにおった世界とは異なる世界――すなわち『異世界』じゃ! そして儂こそが世界の壁を越えてお主を召喚した大魔術師、オルグレッド・レオニス・マルガ・ローデス・フェルデザルクじゃ!」
明かされる衝撃的事実――しかし葵には他に気になることがあった。
「……申し訳ありません。名前が少し長くて覚えられませんでした。もう一度言っていただけますか?」
「……あー、そうじゃのう。略してオルグでいいわい」
表情は変わらないがどことなくシュンとした気配を漂わせる葵にオルグと名乗った老爺は気まずげに言った。
葵は当然知らないことだが、オルグの名前が訊き返されるのはよくあることであった。
「それではオルグさんとお呼びしますね。それでその……先程仰られた『異世界』とはどういうことですか?」
「ん? むぅ……そうじゃのう。……お主が属していた世界とは異なる世界。通常の手段では行き来不可能な世界と言ったら想像できるかのう?」
「…………」
オルグの端的な説明に、葵は黙って彼の言葉を頭の中で咀嚼する。
両親の教育方針によりアニメやゲームといったサブカルチャーには疎い葵であったが、幸いにして老翁の話に該当しそうな事例には心当たりがあった。
(ナル〇ア国物語とかハ〇ーポッターのようなものなのでしょうか?)
ちなみに葵の母の趣味はファンタジーものの洋画鑑賞である。
「あの……それって冗談か何かでしょうか?」
しかしだからといって「はい、そうですか」と信じられるわけもなし。こんな状況をあっさりと受け入れられるとすれば、それは日頃から妄想の世界で生きているような人種だけだろう。
「ふぅむ、冗談でも何でもないんじゃが……おお、そうじゃ! 良いことを思い付いたわい」
困ったように白髭をさすっていたオルグだったが、ニヤリと笑うと葵から距離を置いた。
右手を見せつけるかのように前につきだし、意識を集中――そして詠唱。
「【照らす灯火】」
つきだした右の掌の上に揺らぐ小さな焔が現れる。オルグは少女の驚愕を期待したのだが、残念ながら葵は微動だにしなかった。
しかし瞳を二、三度瞬かせたのは彼女にとって精一杯の驚きの表現である。
「どうかのう? お主を召喚したのと同じくこれも魔術なんじゃが」
――手品ではない。
目の前で火種もなく揺らぐ焔は確かに本物で、その右手の何処を見ても不自然な部分はない。
(つまり先程のお話は冗談でも何でもなく、全て本当ということですか……? あ、そういえばスマートフォンがありました)
何時でも家族と連絡が取れる便利な道具の存在を思い出した葵。ポケットから手の平サイズの文明の利器を取り出し、
(――圏外です)
どうやら異世界うんねんの話が現実味を帯びてきたようだ。
とりあえず己が置かれた状況を多少なりとも理解した葵は、このオルグという老爺にもう少し掘り下げて尋ねてみることにする。
「大まかですが事情は理解しました。……それで肝心な事ですが、オルグさんはどうして私をこの世界に呼び寄せたのでしょうか?」
「どうして……?」
まずは己を召喚したと豪語する老翁の目的を糺す。
しかし葵の質問にオルグの動きがピタリと止まった。その表情は思いもよらぬことを聞かれた――そう雄弁に老翁の内心を語っていた。
葵の心中を不安と言う名の雲がモクモクと覆う。
「どうして……どうしてのう。そのう……貴重な古文書に異界よりの召喚魔術というのが記されておってのう。今まで儂が見たことも聞いたこともない魔術であったから是非とも試してみたくなってみたのじゃが……」
結果の関しては深く考えることはしなかった、と。
どうやらこの老爺は頭の良いバカだったらしい。
心なしか温度の下がった瞳で葵は続ける。
「……それで私は元の世界に戻れるのでしょうか?」
「その……実は古文書には送還に関する記述はなかったんじゃよ」
タハハッ、と極まり悪げに頭をかくオルグ。
そんな彼を前に葵は訊き出した情報を整理し、纏めなおし、自分の置かれた状況について改めて考察し――結論。
次の瞬間、迷うことなく目の前の誘拐犯に襲い掛かった。
◆ ◆ ◆
「ぬぉおおおおおおッ!? 腕が!? 儂のか細い腕が折れてしまうぅうううううッ!?」
地下室に響き渡る老爺の悲鳴。
その原因は彼の左腕を腕挫ぎ十字固めでもって見事に極めた葵である。
葵の父は厳格な人格の持ち主であったが、同時に子煩悩なタイプでもあった。故に可愛い愛娘に善からぬ蟲が寄りつくのを危惧し、習い事の一環として空手と柔道の道場に通わせていたのだ。
才能があったわけではないけれど、真面目な性格の葵はそれなりに習熟していたので、お迎えが近い老爺程度であれば問題なくも無力化出来ていた。
(でもやりすぎは駄目ですよね。この人には他に訊きたいこともありますし……)
オルグに考えなしの行動についつい頭に血が昇って技を仕掛けてしまったが、冷静に考えればここで老爺を仕留めても仕方がない。
なのでそろそろ開放すべきかとチラリと視線を向けると――
「い、いや……よくよく考えてみれば若い女子との密着状態。こ、このような幸運そうそうあるものでもないんじゃないかのう……?」
「…………」
どうやらまだまだ余裕があったらしい。
「――えい」
「う、腕が捩じ切れるぅううううううッ!?」
ちょっと捻りを加えてみた葵である。
「……あ」
ブチリ――と、何か聞こえてはいけない音がオルグの枯れ枝のような腕から響いた気がした。
――暫くして後。
「うん、儂が悪いのはわかっておるんじゃよ? お前さんが怒るのも当然じゃよ? ……でものう、もう少し老人を労わってくれてもいいんじゃないかと思うんじゃよ」
「でも老人以前に誘拐犯ですし」
「それを言われるとつらいのう」
右腕を治療魔術で癒し終えたオルグのぼやきは容赦なく一刀両断されてしまった。
彼としても正直言って返す言葉がない。初めて触れる未知の魔術に魅了され、後先考えず行動に移ってしまったのだが、巻き込まれた少女からすればたまったものではないだろう。
(……困りました)
一方葵は深く反省していた。先程は老翁の言葉に腹をたて、後先考えずうっかり極めてしまったが、冷静になると魔術などというものを使う相手に対して迂闊な行動過ぎた。
こんなことだから淑女の皮を被った武闘派などと揶揄されてしまうのだ。
しかし今回の件は明らかに向こうが悪いので、自分から謝罪するのもおかしい気がする。
(ううむ、なんとかしてやらねばのう)
対しオルグはと言えば自分がやらかしてしまった失態に対して責任を痛感していた。そこで黒髪の少女に一つ提案してみることにする。
「どうじゃろうか? お前さんの衣食住に関しては儂がどうにかしよう。見つかる保証は出来んが、元の世界に帰る方法も探してみる。……それで勘弁してくれんかのう?」
「…………」
誘拐犯なのだから衣食住の保証は当然――などとは葵は考えない。
実のところを言えば、ここで自分を放り出したとしても老翁は困らないのだ。道徳や倫理的にはともかくも、それで誰が咎め罰する訳でもなし。精々が頼るものもない小娘一人の恨みを買うくらいのものだ。
そもそも誘拐犯に厚待遇を期待する方がどうかしている。
それを考えれば思慮の足りない行動であることは事実であったが、それでも責任を取ろうする姿勢は人として正しいものだろう。
葵は実家の繋がり上、年齢の割りに様々な職業・人種と相対してきた。
その経験に照らし合わせても、目の前の老人には下心はないように思える。
なので――
「わかりました。霧崎葵、何時までになるか分かりませんが、お世話になろうと思います」
そう言って丁寧に一礼したのだった。