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男の装いはひざ上丈

作者: えのまりや


 僕が僕の嫌いなスバルに交際を申し込むきっかけをくれたのは姉貴だった。


 帰宅した僕は悪そうな笑顔を浮かべた姉貴につかまり、姉貴の部屋に引きずり込まれた。姉貴の思い付きに振り回されるのはいつものことだ。姉貴は僕の学ランをぽんぽんと脱がせた。姉貴は二十歳で僕は十四歳、年の差はあるけれど、男女の力の違いを考えれば、普通抵抗は難しくないはずだ。しかし僕は普通の男子よりも体が小さくて貧弱だった。今日に限って言えばそれだけじゃない。ひと月ほど前から、クラスメイトの夕海さんが僕の大嫌いなスバルと付き合っているらしい。信じがたい事実をクラスの噂で知ってしまった僕には、いつものようにささやかな抵抗をする気力も残っていなかった。

 しばらくぼんやりしていたが、気が付くと鏡台の前に座らされていた。服装はワンピースにカーディガンを羽織らされている。姉貴のお古だ。それから姉貴は僕の髪をネットで纏め、上からウィッグを被せた。長くなった髪に櫛を通し、巻いてみたり頬のラインに沿わせてみたりしている。前髪が左右に分けられた。

「陰気に見えるから、普段から出してなさい」

 いつも目元を隠している前髪のことを言っているのだ。意志が弱そうで軟弱な丸い瞳、僕は自分の目が嫌いだった。端的に言って男らしくない。姉貴は前髪を片方に分けてピンで留めた。全体を整え、最後に左右の髪を両手でつまんでカールさせながら垂らし、具合を見ている。鏡の中で、僕の頭の上に姉貴の顔があった。

 僕は鏡に映る自分の姿を見てはっとした。これだ、と思った。姉貴は僕が自分の姿を気に入ったと思ったのか、得意げに目を細めた。しかしそうじゃない。自分自身おぞましいと思う姿だけれど、しかし女の子に見えないこともない。

 僕はこの姿を使って、スバルに交際を申し込むことにした。


「それじゃあ、また話しかけてもいいですか?」

「もちろん。じゃあまたね。」

 うれしかったよ、とスバルはにやけ半分、さわやか半分の笑顔を浮かべ、廊下を食堂へ向かって歩き去った。一年生の時、つまり半年ほど前までクラスメイトだった僕の正体に気付かなかった。うまくいきそうだ。

 昼休み、僕はスバルに告白したのだ。スバルはセーラー服を着た僕を眺め、さんざん迷った挙句、「いま付き合ってる子がいて」と奥歯に物が挟まったような断り方をした。逡巡を見て取った僕は、また声をかけてもよいか聞いた。反応は悪くない、むしろ良すぎるくらいだ。

 スバルは女の子には人気があったが、僕は嫌いだった。僕が知るかぎり、スバルの女性関係には切れ目がなかった。二人の女の子との交際期間が重複していることもあった。だらしなく、軟弱なやつなのだ。あんな不誠実な男と付き合ったところで夕海さんは幸せになれない。現に、スバルは僕の笑顔に鼻を伸ばしていたではないか。僕は、ゆくゆくはスバルが僕に惹かれ夕海さんとは別れる、という目標を立てた。

 それから僕はスバルが購買や食堂に行く時を狙い、女生徒の姿でこまめに接触を試みた。着替えには人気の少ない場所のトイレや空き教室を利用した。肩下までの黒髪ストレートのウィッグに姉貴のセーラー服、一年であることを示す赤色の上履きを身に付けた。そして最後に、普段は目元まで垂らしている前髪をピンで留め額を出した。このおかげで、廊下で知り合いとすれ違ってもほとんど気に留められることはなかった。

 日常空間を女子用制服で歩くというのは極度の緊張を伴うものだった。ずっと冷や汗をかいていた。変装中、一度だけクラスメイトに話しかけられたことがあった。ケイというシンガポールからの帰国子女で、スバルと仲のいい男子生徒だ。「二年に、兄妹がいる、ますか?」という質問に僕は、いない、と答えようとしたけれど、震える声は言葉ではなく不細工な吃りだった。必死で首を振り、ケイが怪訝な表情ながら納得したのを確認すると、僕は急いで駆け出した。その日は恐怖から動悸がおさまらず、結局スバルに会いに行くことは出来なかった。改めて自覚した。みんなにばれたら僕はおしまいだ。僕はおとなしい性格で通っている、言い訳はできない、ただの変態だ。

しかし僕の恐怖とは裏腹に、スバルとの関係は好調だった。スバルは架空の一年生に話しかけられるたび、だらしなく相好を崩した。「おでこかわいいね」「瞳がきれいだよね」「照れてるの? かわいいなぁ」 僕は「そんなことないですよぉ」悪寒と吐き気に苛まれていた。やめろ肩に触るんじゃない。先輩面で頭をぽんぽんするんじゃない。

 携帯電話のアドレスも交換し、スバルからのこまめなメール攻撃にも耐えていた。家で気が緩んでいるときにスバルと甘い電子メールのやり取りをするのは苦痛であり、自分の性別や心について混乱をきたすものだった。それでも二人の交際は徐々に打ち解けたものとなり、スバル陥落も秒読みかと思われた。

 そんな時、僕らの関係が夕海さんに知られてしまった。



 僕とスバルは食堂で昼食をとっていた。スバルが自分のスタミナ丼と僕のお弁当のだし巻き卵の交換を求めていた時だ、スバルの視線が遠くなり、それからおろおろとあわて始めた。振り向けば、夕海さんが人混みをかき分けて歩いて来るのが見えた。静かな表情ながら煮え立つマグマのような怒りが隠れていると分かった。僕は思わず立ち上がり身構えた。ばれればビンタくらいはしょうがないと、あらかじめ覚悟はしていた。夕海さんは僕を射程内にとらえると、歩き、が、ステップ、に変わった。一息に僕との間合いを詰めると、荒れ狂う渦潮のようなボディブロウを僕の懐に叩き込んだ。お腹が爆発したかと思った。

「うぎぃ」

 男らしくない声が出たが、今の僕は女の子なので問題なかった。僕は絶息し床に膝をついた。食道を駆け上がってくるモノを何とか飲み込む。口の中で胃液と、姉貴が作ってくれたセロリの牛肉巻きの味がした。ともかく正体がばれるのはまずい、僕は片手で腹部を抑えながら、片手でウィッグの具合を確かめ髪を梳いた。

「ひとの男にちょっかい出さないでくれる」

 夕海さんはそれだけ言うと、周囲のざわめきを気にも留めない風で、スバルの腕をつかみ引きずるように連れ去っていった。スバルは叱られた子犬のようだった。

 強い、僕は確信した。しかし姉貴ほどじゃない、僕は夕海さん以上を知っている。そう考えることで女性に一撃で沈められた自分を慰めた。


 僕が夕海さんを見つけたのは、入学してすぐのことだった。でもそれは本当じゃなくて、実際には夕海さんが僕を見つけてくれたのだ。入学したての四月のある日、クラスでホームルームが行われていた。僕たちの中学校は、一年生は入学してすぐに、青少年研修所への宿泊がある。互いを知り交流するためのものだ。ホームルームはそのグループ決めを行うためのもので、僕は実行委員としてみんなを仕切っていた。各々四五人のグループでまとまったが、一グループだけ六人から減らすことができずにいた。僕もそこに所属していた。せっかく友達と泊りがけで行くのだ、誰もがまだ親しくないグループに移ることを嫌がっていた。僕自身、中学生活初めての行事であることも相まって、期待感から落ち着かない日々を送っていた。そういった理由からいつまでたっても話し合いが進む気配はなく、最終的に、委員として責任を感じた僕が別のグループに移ることでまとまった。ホームルームが終わり休み時間になり、僕は自分の席に座っていた。教室は研修の話でにぎやかな空気に包まれていた。僕は悔しくて、誰にも知られないように歯を食いしばっていた。こんなことで涙を浮かべ悔しがる自分を恥じた。気持ちが鎮まるまでと顔をうつむけていると、不意に肩を叩かれた。顔を上げられずにいると、耳の近くでささやかれた。

「男の子だね」

 それから廊下へと歩き去る女子の後ろ姿が見えた。きっと夕海さんにとっては本当に何気ないことで、覚えてなんかいないだろう。


――私は大丈夫です。また一緒にお昼してください。今度はこっそり。

 お風呂上り、スバルからの僕を気遣うメールに返事をした。いまだ内臓に鈍痛があった。痛む箇所をさすりながら考えた。覚悟を決める必要がある。あまり時間をかけているわけにはいかない。夕海さんの目があるからだ。それにケイのこともある。

 ケイには高校生の彼氏がいる。休日になるとその彼氏と、女の子の格好でデートをすることがあるそうだ。ケイはそれらのことを隠しておらず、ケイを知る生徒の多くがケイが男性を好きということ、女性の格好をする趣味があるということを知っていた。スバルはケイと仲が良く、休み時間にはよく一緒に話をしている。スバルに接触しようと思えば、ケイと顔を合わせる可能性も増えるだろう。先日よび止められたことといい、ケイにはその道のもの特有の目があるのかもしれない。この間は誤魔化せたけれど、このままケイの目に触れる機会が増えればいつばれるとも知れない。時間をかけている余裕はない。これからはスバルとのやり取りを逐一気持ち悪がってはいられない。覚悟を決めるのだ。女の子になるのだ。

 翌日から、表立ってスバルと交流することは避けた。そのかわり昼休みに、閉鎖された屋上へと続く階段で、二人きり昼食をとった。私のおかずを私の箸で先輩に食べてもらった、間接キス……、先輩が笑顔で「おいしい」と言ってくれた、気持ち悪いいや気持ち悪くない、うれしい。先輩が私のことを優しいまなざしで見つめている、顔が引きつりそういや恥ずかしくてはにかんでしまう。覚悟を決めろ、僕は私は女の子なのだ、スバルさんが大好きなんだ。

「センパイ……」

「ん?」

「なんでもないです」

「なんだよ、言えよぉ」

 これでいい、これでいいんだ……。僕は自意識を殺し、心身を蝕まれながら、自分がいま何をしているのか、なぜこんなことを始めたのかも見失ってしまうような酩酊した日々を送っていた。

 それからほどなくして、僕は自分の行いと向き合わなければならなくなった。

 きっかけは夕海さんがいじめにあっていることを知ったことだ。



 放課後、姉貴に勧められた本を図書館で読んでから、忘れていた教科書を取りに教室に戻った。教室には生徒が数人残っていた。その中で、よく先生と言い争っている女の子たち三人が夕海さんの席の周りに座っていた。「なにしてるの」と聞くと、彼女たちは楽しそうに「ほら」と示して見せたのは夕海さんの国語の教科書で、目を覆いたくなるような日本語がマジックで落書きされていた。「じゃーねー」と言う三人に「ばいばーい」と返事をして、僕は下校した。最悪の気分だった。

 次の日、スバルとの食事を済ませてから、着替えるための空き教室に向かっている途中、女子トイレから罵声と大きな物音が聞こえた。それから女生徒が三人出てきたが、そのうちの一人は、昨日教科書に落書きをしていたクラスメイトだった。彼女たちは僕を一瞥しただけですぐにどこかへ行ってしまった。楽しそうに笑い合っていた。そのあとトイレから出てきたのは夕海さんだった。鳥の巣みたいになった髪を撫でつけていた。髪の毛を掴まれでもしたのだろうと予想した。僕は目元を隠そうととっさに前髪に手を伸ばしたけれど、いまは女の子であることを思いだし、行き場を無くした右手が挨拶するみたいに宙に浮いていた。夕海さんは恋敵の一年生に気付くと男前に笑って見せ「バカみたいでしょ」と言った。僕は右手で自分の頭頂部を指差し、ハネを指摘した。「ありがと」そう言うとまた髪を撫でつけながら夕海さんは歩き去った。

 その後も一部の女生徒の間で、体操着やノート、靴といった夕海さんの所有物を、気軽に、何気なく、ゴミ箱や床に放り捨てる、という遊びが流行った。靴跡のついた体操着を拾い上げ、無表情で汚れをはたく夕海さんを見たことがある。似たような光景を見たのは一度や二度じゃなかった。

 もともと夕海さんは友達が多くなかった。周りの空気感に安易に迎合しないことが一番の原因かもしれない。幅を利かせているような相手であろうと正しくないと感じれば、夕海さんは無理な笑顔を浮かべたり、同調したりすることはなく、普段から軋轢も少なくなかった。そのように疎ましく思われていた人間が、スバルのような男子と付き合い始めたことを、面白く思わない生徒もいるようだ。


 昼休にいつもの階段でスバルと昼食をとっていた。僕が二人で撮った自撮り写メを携帯電話の待ち受け画面に設定しているのを見せたからだろう、スバルは機嫌がよかった。惣菜パンにかぶりつく無邪気な横顔を眺める。先輩はかわいいな、わたし先輩のこういう顔好きだなぁ、と感じた。夕海さんは自分がどんな目にあっているのか、スバルに相談してはいないのだろうか。相談していたらスバルがこんなところでのんきに下級生と浮気しているだろうか。

「先輩、好きです」

 スバルさんはパンを頬張るのをやめ、困ったような顔をした。少し、考える間があった。

「なんでだかわからないけど、夕海には俺が必要な気がする。だから、今は別れられない。ごめんね」

 そうですか、と落ち込んだ声を出した。心底落ち込んでいたけれど、その理由がはっきりしなかった。案外本当に、スバルに惹かれていた、なんてことはないだろう。

「でも待っていてくれたらいつかは」とか都合よく私をキープしようとしたので「じゃあまた」と言って食べかけの弁当を片付け階段をあとにした。


 一年生の時の年末ごろだったろう、いじめというほどではないにしろ、当時から夕海さんは一部の女子からからかいや嘲笑を受けていた。数学か何かの自習の時間だった、夕海さんは後ろの席の女子からふざけ調子にちぎった消しゴムを投げられていた。消しゴムが髪の毛につくたび、夕海さんは払い落としていたけれど、次第にばかばかしくなったのか無視するようになった。すると頭にたくさんの消しゴムの欠片がくっつくようになり、その状態が楽しかったのか、数人の女子が夕海さんの頭を指して笑いあっていた。周囲の生徒も同調を求められ笑っていたけれど、女子の一人が「見てよスバル君、笑えるでしょ」と言った時だ。

「お前ら面白くねえよ」

 スバルはその日のあさ提出すべきだった宿題にいそしんでいた。邪魔そうに一言だけ言うと、また必死な顔で課題と向き合っていた。教室の空気は一気にしらけ、皆がそれぞれの自習や居眠りに戻った。僕が何をしていたかといえば、なにかできることはないか、とどきどきしていただけだ。

 あのとき夕海さんはどんなことを思っただろう。


 姉貴はソファに腰掛けドラマを見ている。僕は、物理的暴力を伴う命令に従い、姉貴の髪にドライヤーをあてていた。姉貴は突然振り返ると僕の顔をまじまじと眺めた。

「悩んでいるようだね」

 それからハンガーに掛けてあるセーラー服に目を向けた。僕が姉貴から借り、帰宅後かばんから出して部屋の隅に掛けていたものだ。姉貴は僕に優しいまなざしを注いだ。

「自分が進みたい道に進みなさい」

 誤解が生じているように思えたけれど、しいて訂正もしなかった。


 翌日の放課後は居残り、次の日提出の宿題を済ませてから教室を出た。夕日が沈みかけ、たそがれ色の空気が校内に満ちている。遠くで運動部が声を張り上げていた。渡り廊下で練習している吹奏楽部のトランペットが廊下の窓をふるわせていた。階段に差し掛かった時、下から声が聞こえた。詰問するような声だ。階下を覗き込むと、予想した通り、夕海さんだった。そばにはスバルがいる。主に昼休み、最近会う時間が減っていることについて問い詰めているようだ。スバルは歯切れ悪い受け答えをしている。まさか夕海さんが殴りつけた一年生といまだに密会しているとは言えないだろう。といって、夕海さんも予想できていないわけではなさそうだ。僕は踵を返し廊下の反対にある階段を通ることにした。スバルはきっと夕海さんを悲しませることになる、そう思っていたけれど、いま夕海さんを悲しませているのは誰だろう、と自問するのも馬鹿馬鹿しい。

 彼女はいっぱいいっぱいなのかもしれない。スバルを責める夕海さんの声は、涙に湿った、弱々しいものだった。初めて聞く、まるで女の子みたいな声だ。



 その日はスバルとの昼食が早めに終わり、昼休みはまだ随分残っていた。素顔の僕に戻るための人気の少ない場所を探して校内を歩いていると、食堂の方から騒がしい音が聞こえてきた。渡り廊下を通り食堂に入ると、中に人だかりができている。背伸びをして見てみれば、中心にいたのは夕海さんだった。床に尻餅をついている。定食の盆がひっくり返ったようで、制服や床が汚れていた。夕海さんの前で四人の女子が彼女を見下ろしている。一番前に立っている子を知っている。違うクラスだけれど、よく夕海さんに絡んでいるのを見かける子だ。

 僕は目の前にケイがいることに気付き「あの、何かあったんですか?」と聞いた。ケイは「あなた、見たことあるよ」と女生徒姿の僕と面識があることを主張した後、拙い日本語で事情を説明してくれた。夕海さんはいつものようにからかわれていたらしいが、スバルとのことに話題が及んだとき、言い返したらしい。そのことが癇に障ったようで、一人の子が夕海さんを突き飛ばし、転ばせた。

 四人はまだ気がおさまらないらしかった。ウザい、キモい、勘違いしてんじゃねーよブス、スバル君があんたと付き合うとかスバル君になんかしたんじゃねこのビッチ、学校くんな、と言っていた。夕海さんは言い返してもきりがないと思ったのか、黙って定食の皿を片付けはじめた。閉じた唇の奥で、歯を食いしばっているように見えた。

「お前らうるせーよ」

 言った僕が驚くほど周囲に静謐が満ちた。四人は、闖入してきた一年生に怪訝な目を向けている。僕は震える拳を強く握った。彼女たちが怖かったけれど、それだけではない。僕は四人の前に踏み出すとポケットに手を突っ込み、携帯電話を取り出して彼女たちに画面を見せつけた。そこにはとろけた顔で一年生女子、つまり僕と頬をくっつけて写るスバルの姿がある。

「夕海さんは知らないけど、スバルさんの本命は、わたし。それだけじゃない」

 いうことを聞こうとしてない右手を意志の力でねじ伏せる。拒絶する筋肉を引き千切るようにして腕を持ち上げ、僕は頭に乗せたウィッグを掴み、床に叩きつけた。

「僕は男だ」

 駄目押しとばかりにスカートをたくし上げ、姉貴が買ってきてくれているトランクスを見せつけた。

「スバルは、僕に女子の格好をさせるのが大好きなんだ」

 四人は四人とも口を開け、恐れおののくように後ずさった。僕が突きつけた事実にだろうか、あるいは突きつけた男性用下着にだろうか。静寂の後、食堂にざわめきが戻った。頭にネットを被ったセーラー服の男を囲み、皆がそれぞれの驚きを口にしている。ケイは一人手を打ち鳴らしながら、「そういうことも、ある、ですよね」と笑顔だった。僕はいたたまれなくなり、走って食堂を逃げ出した。最後まで夕海さんと目を合わせることができなかった。


 僕は当たり前の日常と多くの友人を失った。あの一件以来、友人の多くが、僕が話しかけると苦笑いでごまかし、その場からいなくなるのだ。前と同じように接してくれるのはケイだけだ。かわりに、校内を歩いている時、気がつくと話したこともない生徒がこちらをじっと見ている、という経験が多くなった。スバルはというと、僕のせいだ、女子がスバルを遠巻きにするようになった。男と付き合っていた、ということに関してはケイという前例があるからともかく、校内でセーラー服を着させてまで、というのが女子にはきつかったようだ。スバルには僕が公開した嘘が噂として伝わっていないのか、女の子が自分を避けるようになった理由が分からないようだった。懇意にしていた一年の女の子も突如として姿を消し、ひと月ほど、スバルは元気がなかった。携帯電話の画面を見てため息をついている姿がよく見受けられた。しかしおかげで夕海さんとの交際は順調のようだ。夕海さんは変態と付き合っている女として、腫れ物に触るような扱いをされている。友人がいなくなったわけではないようで、彼女にとっては良い環境といえるかもしれない。なんにせよ僕の青春は終わった。代償は小さくない。


 十二月に入ると学ランだけでは寒く、コートやマフラーが欠かせなくなった。女子は足元がさぞ寒いだろうと、僕は強い共感を覚えた。冬休み前の終業式があった日だ。生徒の間には既に年末の気配が漂っていた。終業式が終わり、生徒が体育館から教室に帰るなか、僕は用を足しに列を抜けた。気にする友人はいない、僕は孤独なのだ。一人の廊下は静かで冷たく、体温を全て奪ってやる、という密やかな意思を感じた。

 トイレを済ませ廊下に出たところで夕海さんと出くわした。突然のことに、僕も夕海さんも視線を交わしたまま固まってしまった。食堂の件以来、夕海さんとは話していなかった。僕は女装をしてまで夕海さんの足を引っ張っていた、理解不可能の変態なのだ。夕海さんもそんな僕と不自然な距離を取っていた。

「久しぶりだね」

 姿だけなら毎日見ているけれど、夕海さんが言っているのはそういうことではないのだろう。僕は唐突に緊張を覚えた。日常の隙間にあるような儚い時間を感じ取ったからだ。もう間もなく、潰れて消えてしまう。あの一件を境に僕はおかしくなったのかもしれない。周囲との関係が変わった、というだけでなく、世界が少し違って見えた。少なくとも、いまこの瞬間の僕は、立ち止まることにもどかしさを覚えている。弾け飛びそうなんです、と心がうるさい。

「好きです」

 会話ではなかった。だから返事を気にする必要はない。

「一年の時からずっと、夕海さんのことが好きです」

 夕海さんは目を大きく開け、頬をわずかに染め、少しだけ時間をおいてから、

「ごめんなさい。私はスバルが好きだから」

「うん」

 僕は頷くと夕海さんの横を抜けて歩き出した。教室に向かうつもりだったけれど、いまは人前に出られないと気づいた。夕海さんが僕を呼んだ。立ち止まったけれど、振り向くことができなかった。

「あのさ、女の子の格好、全然似合ってなかったよ」

 一年前の四月を思い出した。

 声が震えそうで、うん、と返事をすることもできなかった。


 玄関を抜けると、姉貴の掌が僕の顔面を襲い、僕を姉貴の部屋まで引きずり込んだ。姉貴は僕のマフラーや学ランを手際よく脱がせた。姉貴に抵抗できないのはいつものことだけれど、今日に限って言えばそれだけじゃない。初めて、好きな女の子にフラれる、という経験をしたのだ、ささやかな抵抗をする気力も湧かなかった。

 姉貴は買い物をしてきたようで、ブティックの袋から衣服を取り出し始めた。恐ろしいことに、ノースリーブのブラウスや膝上丈のスカートなどが見えた。姉貴は怯える僕を鏡の前に立たせ、買ってきた服をあてがう。そこで奇妙な、訝しむような表情をした。ウィッグを持ってくると、それを僕の頭にかぶせて整え、再び妙な顔で首をひねっている。しばらくすると。

「なんだ」

 つまんない、そう言うとウィッグや洋服を放り出して部屋を出て行ってしまった。戻ってくる気配はない。

 僕は姉貴が放り出した服を拾い、体にあてがってみた。洋服をたたむと今度は、久しぶりにセーラー服を取り出して着用し、頭にはウィッグを乗せてみた。鏡の中の自分は、なぜ今まで、女の子に見える、と思っていたのか不思議なほど女の子ではなかった。僕は部屋着に着替えると、お世話になった女子用制服に丁寧にローラーをかけてからクローゼットに仕舞った。それから週末に髪を切りに行くことに決めた。前髪を短くするのだ。


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