1-2 えーと,ここはどこでしょうか?
[えーと,ここはどこでしょうか?]
「うわ,ゼミの予習終わってねぇ!」
月彦は飛び起きた.だが,覚醒した後に,今学期はその教授のゼミを受講していないことに思い至った.彼は林教授の古代語の原典講読のゼミで答えられずにしどろもどろになる夢を見ていたのである.嗚呼,なんという悪夢.夢であったことに気づいて,月彦はほっと安堵した.そして,気づいた.自分が横になっていたのが,親愛なる我がベッドでないことに.
「えーと,ここはどこでしょうか?」
なぜ,眼鏡をかけっぱなしなんだ.服も,六花ちゃんのお家に行ったときの,余所行きセーター&黒いズボンのままだぞ.….というか,疲労困憊の極みにあった昨晩,自分は床にぶっ倒れたまま失神したのではなかったか?
周りを見渡す.どうやら6畳ほどの広さの部屋のようだ.シンプルなベージュのカーテンがひかれた窓から,朝日と思わしき光が透けて見える.自分が横になっているベッドは,セミダブルほどの広さがあって(月彦自身のベッドよりも大きい),窓辺に置かれている.壁沿いには,シンプルなクローゼットと本棚が置かれていた.部屋の真ん中には,丸いテーブルと椅子が3脚.
此処まで確認したところで,ノックの音が聞こえた.ぎょっとして見回すと,窓と反対側に木製の扉が見えた.月彦はひとまず返事をした.すると,扉が開き,2人の人物が部屋に入ってきた.月彦は慌ててベッドから飛び降り,立ちくらみをおこしてよろけた.
「あー,無理しない方が良いですよ!」
入室してきたうちの1人,短い赤茶色の髪の長身の男性が駆け寄ってきて,月彦を支えてくれた.
「す,す,す,すみませんでしたッ」
月彦は親切な男性の顔を見て,赤面した.髪と同じ赤茶色の瞳をした男性は,古代ギリシアの彫刻もかくや,というばかりのイケメンであったからである.肉体もいわゆる細マッチョであった.身長なんか月彦よりも30センチ近く高そうである.月彦は,ギリシア神話のヘルメス神が降臨したら,こんな感じだろうなーと,ついぽーっとしてしまった.
月彦が呆然としている間に,もう1人の人物もそばにやってきた.こちらは女性であった.金茶色の髪をお団子にし,シンプルな黒いドレスに白いエプロンを身に着けている.メイドさんであるに違いない.因みに身長は月彦よりも10センチは高そうである.
「はっ」
ここで月彦は我に返った.とにもかくにも現在の状況を把握しなければ.まず,人間関係の基本はあいさつである.月彦は(未だふらふらしていたので,男性に支えられたままであったが),ひとまず2人に自己紹介をすることにした.
「あの,ぼ,あー,私は闇夜月彦と申します.大変申し訳ないのですが,ここはどこで,私がなぜここにいるのか教えてはいただけませんでしょうか?」
イケメン男性が生き生きと楽しそうに答えてくれた.
「アンヤチュ,チュキ,ツキヒコ様,おはようございます.もうお体の方は大丈夫ですか.あなたはこちらに召喚されてから2晩高熱を出して,うなされていたのです.召喚の際にお体に負担がかかったのでしょうか.私はソシエの召喚術士ソーレ=ヒュントと申します.もし宜しければ,このあと朝食をとりながら,状況を説明させていただきたいのですが…?」
召喚術?ソシエ?良く分からない固有名詞があるのだが.あと,月彦って発音しづらいのか?
再び月彦がポカンとしていると,メイドさんが「わたくしはフロラ=カロルと申します」と名乗ってくれて,洗顔やら着替えやらの朝の身支度のお手伝いをしてくれた.月彦は再び赤面しつつ,汗で汚れた衣服を取り換え(似たようなセーターとズボンが準備されていた),部屋にあった椅子に導かれた.
ソーレ=ヒュント氏は既にテーブルについており,月彦がわたわたしている間に,フロラさんがパンとスープというシンプルな食卓を整えてくれた.
フロラさんが下がった後,男2人は食事を共にした.無言のままでもそもそパンを咀嚼し,スープを飲み,人心地ついたところでフロラさんが再登場し,食器を下げて,薫り高いお茶を入れてくれた.
ミントティーによく似た味だなーと月彦がお茶をすすっていると,ヒュント氏がおもむろに話し出した.
「アンヤチュキヒコさま,改めまして召喚士ソーレ=ヒュントと申します.チュキヒコさまを召喚したのは,我がソシエで治療術士となっていただきたいからでございます.ご存知かもしれませんが,ソシエは,つい1年ほど前,隣国レギアから独立したばかりの若い国です.やっと戦後の処理も進んできたのですが,まだまだ問題が山積みでございまして.医療の問題もその1つなのです.他の分野の魔術士はともかく,治療術を使える方は人数が少ないでしょう.そこで,召喚術士である私が,元首マルス=アウレとテーツ=ボイオの命を受けて,治療魔術が使える方をソシエに召喚することと相成ったのです.突然お呼びしてしまい大変申し訳なく思っているのですが,ソシエのために一肌脱いでいただけませんでしょうか.貧しい国ではございますが,精一杯歓迎いたしますが…」
月彦は3たびポカンとしてしまった.ヒュントさんが言っていることがよく分からない.というか,意味は分かるのだが,理解できないというか….何より,なぜ僕が召喚されてしまったのでしょうか?そして,僕はチュキヒコでなくてツキヒコだ.
「あの,アンヤチュキヒコさま?」
「あ,あ,あ,ソーレ=ヒュント様,お話の内容は理解しました,理解しました,ハイ.ですが,召喚術とか治療術ってどういうことですか?あと,寡聞にしてソシエ国もレギア国も知らないのですが….あと私の名前は月彦です.夜空に浮かぶ月のことです.呼びにくかったらルナとでも読んでください.」
あ,ヒュント氏もポカンとしてしまった.これからどうなるんだろうか.前途多難だなぁ….
「ゴホン,チュキヒコさま,いやチュ,チュ….お言葉に甘えましてルナ様と,いやソシエでは月はリューナと言いますので,リューナさまと呼ばせていただきますね,リューナ=アンヤさま.あの,リューナ様はどちらのご出身ですか?今まで魔術を使ったことはございませんか?」
「あの,ぼ,いや,私は日本という国の出身なのですが.また,私が暮らしていた日本国,そして地球という世界では魔術というのは存在しなかったのですが…」
月彦が答えるや否や,ヒュント氏は青ざめてしまった.
「え?まじで?もしかして俺,異世界人召喚しちゃった感じ?!」
お,ヒュントさん,動揺のあまり言葉遣いが変わっちゃったぞ.
「あの,それで私はどうしたらよいのでしょうか?日本に帰していただけるのでしょうか?それとも,このまま貴国で暮らさせていただけるのでしょうか?」
月彦が上目遣いでおずおずとヒュント氏に問いかけると,
「あ,あの,俺とんでもないことしでかしてしまったみたいで.どうしよう.召喚術は,離れたところから任意のものを召喚することが出来るんすけど,送り返すことが出来ないんすよ.いや,俺が知らないだけで,もしかしたらそういう技術もあるのかもしれないんすけど,ソシエには,というかレギアには,というかここいらの国にはそういう魔術は存在しないんです.うわー,ホント,どうしよう…」
ヒュントさんは呆然と呟くと,頭を抱えてしまった.
そして,あまりにもヒュントが慌てるのを見ている内に,月彦は逆に落ち着いてきた.両親も友人も幸せそうに暮らしてる.ここ半年,全身全霊をかけて取り組んできた論文も雑誌に掲載が決まっている.まぁ,そりゃ,僕のような人物でも突然いなくなったら,みんな動揺するだろうし,出来ればさよならを言っておきたかったし,図書館の本も返しておきたかったし,読みかけの推理小説も読み終わっておきたかったけど,まぁ,人生何があるか分からないものである.ある日突然,電車事故やら飛行機の墜落やら通り魔やら地震やら急病やらなんかで死ぬことはあり得る.
故に,日本の僕は突然なくなったということでいいではないか(まぁ,未練がないとはとても言えないけど).せっかくヒュントさんが喚んでくれて,僕の(詳細は不明であるが)ささやかな才能?技術?とやらが国の役に立つらしいではないか.だったら,ここで,少し早いが第2の人生を始めても良いのでは?
故に月彦はヒュントに言った.
「ヒュントさま,そんな気に病まないでください.私が何をすれば良いか,詳しく教えていただけませんでしょうか?」
ヒュントは目を見開いた.
「え?リューナさま?ほ,ほ,ほ,本当によろしいのですか?だ,だって,お,お,俺のせいで,俺のせいで,2度と元の世界に戻れなくなっちまったんですよ.あー,お,俺のせいで…」
もはやヒュントさん,涙目である.長身イケメンのヒュントさん,僕と同年代のアラサーだと思っていたけれど,呆然とした顔や動揺した顔を拝見するに,どうやら20代半ば,僕よりも年下であるようだ.これは,僕が何とか慰めなければ,と(被害者であるところの)月彦は考えた.そこで,微笑みながらこう言った.
「ねぇ,ヒュントさん.私は構いませんよ.まぁ,そりゃ,びっくりはしましたし,元の世界に全く未練がないとは言えないですけど,ヒュントさんが私を召喚したタイミングは絶妙だったと思います.まず,私はささやかな研究をしていたのですが,その一部を世に出してからこちらの世界に来ることが出来ました.また,両親は仲良く第2の青春を謳歌しています.親しい友人たちも皆,結婚し,彼らの子供とも一緒に遊ぶことが出来ました.だから,気にしないでください.今はまだ魔術や治療術について全く無知ですが,頑張って習得するよう努めます.これでも,色恋の一つもしないで,ずっと勉強してきたんです.新しい知識を習得するのも好きですし.だから,大丈夫ですよ,ヒュントさん.」
気づいたら,月彦はヒュントに抱きしめられていた.というか,抱き上げられていた.月彦の顔はヒュントの顔の横にある.だが,2人の身長は約30センチ違い.しかして,月彦は完全に抱っこ状態.足が完全に空中に浮いている.背は低いがぽっちゃりな月彦は,同じぐらいの身長の女の子と比べて,おそらく20キロほど,いやもうちょっと重いのではないだろうか.故に,このようなシチュエーションを体験したことも皆無である.故に,状況を把握した月彦はあまりの事態に再び赤面した.もう首も耳も林檎のごとく真っ赤っか.こんなに美しい人に,ここまで接近したことは未だかつてあろうか,いや無い.あわあわとじたばたするも,ヒュントさんのホールドは解けず,むしろ頬摺りされる事態.
「リューナさま,リューナさま!ああ,なんと広いお心!この,ソーレ=ヒュント,リューナさまのカッコよさに感服いたしました,惚れました.もちろん,全身全霊を込めて,リューナさまにお仕えさせていただきます.どうかお姉さまと呼ばせてくださいませ!」
もう,ヒュントさんは滂沱の涙を流している.どうやら慰めることに成功したようだ.そして,どうやら魔術習得と就職支援もしてもらえるようだ.異世界に突然連れてこられてどうなることかと思ったけれども,まぁ,何とかなりそうかも.ヒュントさんもよいお友達になれそうだし,うんうん.うん?お姉さま?え?
「あのー,ヒュントさん?」
「ハイ!ハイ!なんでございましょうか?」
「あのー,僕ね,男なんだけど…?」
「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」
あー,ヒュントさん,耳元で叫ばないでー,あと,未成年に間違われることはあれども,僕,さすがに女の子に間違われることは無いんだけど….嗚呼,やっぱり前途は多難なのデスカ...
月彦の召喚はヒュントの手違いであることが発覚!え,しかも,僕が男であると何か問題があるんですか?月彦の困惑は深まるばかり.第3話に続く.