貳 富永和戸──五月十一日
富永家は古くから医者の家系だ。常に最先端の医療の知識を持ち、特に精神関係に詳しいという。私も一応内科や外科など、一通り習ったがやはり精神関係がしっくりくる。
一人娘の雛菊は今日もぼうっと外を見ていた。憧れていた桔梗様がいなくなってからはずっとこんな様子で、学費が無駄とは思いつつも今は休学させている。
入院している桔梗に会わせても良いのだが、業平は、男三人の秘密、と言っていた。家族とは言っても部外者なので、可哀想だが会わせることは出来ない。
お昼前。唐突に院長室に和志が現れた。幼なじみということもあり、こうして院長室で会うのは亡き父親に許されている。父親が健在だった頃には、ここで父親も交えて三人で呑んだりもしていた。
和志は手にお酒も持たずに、香しいかおりのする久遠和菓子屋の袋だけを手にしていた。──こいつ、甘党じゃなかったよな。
「新発売の鯛焼きと饅頭だ。先ほど、業平に五個ずつ渡した。お前も五個食べろ」
「はあ? 」
「ちなみに私は辛党なので三個だ」
「奥さんの手作りじゃないのか」
「ばっ……」
私は苦笑する。業平は知らないだろうが、和志と杏はとても仲良しだった。結婚の報告は聞いていないが、幼なじみなので和志の父親から聞きたくもない情報がすぐ流れてくる。
久遠和菓子屋のお菓子を、嫌いなのに買ってくるのには今でも杏のことが好きだからだ。特に杏が手作りしたと店員に言われると、上機嫌でこれの倍は買ってくる。今回は少ないので、奥さんの手作りではないのだろう。
「鯛焼きは私の娘と妻にあげよう。饅頭だけでお腹が満たされそうだ」
「そうか。雛菊は元気になったか? 」
「無理に決まっているだろう」
「へえ」
私は美味しそうに饅頭と鯛焼きを頬張る和志を残して一度家に戻ることにした。
家に戻ると、居間の机の上には久遠和菓子屋の饅頭が既に並べられていた。妻の好みはどちらかと言えば饅頭なので、新作が二つあったら迷うことなく饅頭を買うだろう。
台所からお茶を持ってきた妻が私に気づいたのか、自分のお茶を置くとまた台所に戻った。
少しして私のお茶を持って戻ってきた。
「あそこはお金には目がないけれど、お菓子は本当に美味しいのよね」
「そういえば、紫悠はあそこの旦那と知り合いだったな」
「ええ。前の奥さんを紹介したのも私なのだから、今の店構えは気にくわないのよ。それで気にくわない顔をしていたら、杏さんが出てきて『店の内装は夫の指示なんです。本当にすみません』って謝られちゃったわ」
「あの気が強い杏が? 」
「そうよ。びっくりしたわよ」
「……変わってしまったな」
「それよりも、貴方は鯛焼きを買ってきたのね」
「まあ、私は鯛焼きが好きだからな」
「私とは正反対ね。まるで、和志みたい」
紫悠は和志を心の底から嫌っている。よく和志の悪口を聞かされるのだ。
理由としては、養子として井口家にいた際、態度が悪かったからだという。和志は自分のことを嫌っていた、跡継ぎ候補が増えて苦々しく思っていた、と。でもそんなのは妄想でしかない。当の和志は、自分に妹がいたというのも忘れている。和解は絶対無理だ。
だからこそ、和志がよく現れる病院に紫悠を立ち入らせていない。幸いなのか、紫悠は病院が一番嫌いな場所だと語っていた。
紫悠は鯛焼きを手に取り、食べる。美味しい、と呟いて笑顔になる。
「饅頭も美味しいな」
「ふふ、そうね。──久しぶりにお兄ちゃんの手作り和菓子が食べたいな」
「……」
「あ、やだ、私ったら……。和戸、そ、そろそろお仕事戻ったら? 」
「そうする」
紫悠が時折発するお兄ちゃんの手作り和菓子という言葉。──久遠家の娘なのだろうか。でも、紫悠は養子に出されている。なぜだ?
疑問を解決すべく、病院にまだ居座っていた薄情者の暇人商人にそれを聞いてみた。
「久遠家か……。あそこおっかねえんだよなあ。俺は嫌いだ。杏があそこに行こうとしたときも必死で止めたぐらいだ」
「紫悠がそこの店主をお兄ちゃん、と呼んでいた。紫悠の経歴ぐらい調べれるだろ」
「だが、その紫悠という名前は偽名だ。恐らく養子に出す時に何か不都合なことが起きたんだ。養子に出さなければならないほどの事情がな。──とある女から聞いたが、その久遠和菓子屋の店主は前の奥さんと仲むつまじく和菓子も作っていたらしい。お店の商品だって、二人で考案していたとか。でも、その奥さんが亡くなって店主の心は消えた」
「薫がいるだろ。代わりに愛情を注ぐとか」
「そこだ。おそらく店主は薫を女学院に通わせ、立派なお嬢様に仕立てようと考えた。ここで誰かの邪魔が入ったんだな。節約家の杏ならば女学院をやめさせようとするだろう。その話の後ぐらいに、な」
久遠家で現在、私が知っているのは店主と杏と、娘の薫と空。この四人だ。
だが──隠居した店主の両親がいてもおかしくはない。もし、久遠家に何かあるのならば?
「一つ言わせてもらうが、和戸、お前は関わるな。お前の家がなくなれば損害はこの国全体に及ぶ。クオンには触れてはならない、絶対にだ」
クオン──。なぜだか、懐かしい響きだ。少し西洋風に久遠家を言っただけなのに。なぜだろうか。
──クオンに近づいたら、しんじゃうって
──うそでしょ、そんなの
──ほんとだもん。おかあさんも、おとうさんも
突如に吐き気がした。今、聞こえた声は、何なんだ。
誰の、声だ。
「おい、和戸──」
──みんな、メイのまわりからいなくなったもん。
この声は、紫悠──?




