髭 花桜業平──失踪事件当日
満をお菊お姉様が連れて行ったと聞いて思わず笑ってしまった。あの女を自らの操り人形にでもする気なのだろう。つくづく馬鹿な姉だ。
私が花桜家の在り方に疑問を抱いたのは、慕っていた蘭お姉様が殺された時だった。父親である弥刀が必死に犯人を裁判にかけようとしていたのを見て驚いた。花桜家は殺された蘭の事は考えずに、犯人を裁判にかけようとしたのだ。しかも、無罪の椿を。
そのときから花桜家には呆れた。そもそも、頭の悪い人間かどうかを成績で決めるのもおかしい。中には、悪人でも成績優秀というのもいる。お菊お姉様がまさしくそれだ。蘭お姉様は、例外だが。
「和戸、それでお菊お姉様はどんな様子だ? 」
「早速満を拷問にかけているみたいだ」
「馬鹿だな、本当に」
あの女は痛がらないだろう。痛がるふりをするだけだろう。
満が全身傷だらけで、道に横たわっていたことがあった。深夜だった。
痛くないのかと聞いたら、全く痛くないとのことだった。私は笑いかけながらも、彼女を和戸の元へ運んだ。
それから満は、私のことを神とでも思っているのかひっつくようになった。無痛症。和戸から聞いたが、それかもしれないと言われた。満は、痛みつけられ、痛がるふりをしてお金を貰っていたという。
──なんて愚かな女だと思った。
そこへ和志が現れた。ワインを持ってきたようだ。さすが一流貿易商。
「菫も大爺様に素直に従うとは、呆れるよ」
「またか。本当に困ったなあ」
満もそうだが、菫も感覚が壊れている。自我というのがない。欲がない。恋を醜いものだと思っている。
大爺様はそれが分からないのだ。勉強がしたい以外の欲がなかった菫。跡継ぎになろうとしたのも、お菊からその役割を奪おうとしたからではない。母親と離れたかったから。菫自身とそっくりな母親と。
このままでは破滅するだろう。幸い、和戸と和志という私の親友は顔も名前も知られていない。菫とお菊お姉様の側に行かせるにはうってつけだった。
ワインをあけながら、和志は私に菫の事を報告する。
「ありゃあ、余計悪化していないか? 目も虚ろだし、この俺を前にして無表情を保とうと努力しているし」
「それは惚れたんだな。惚れやすいんだ、菫は。女学院にいたから家族以外の男性なんて珍しいだろうし、それにお前の美貌は学生時代の時から有名だったからな」
「またかよ……めんどくせ」
井本和志。井本貿易商の社長だが、その美貌は商人の間ではとても有名なものである。通っていた学院は共学だったが、男女問わずにファンがいた。惚れなかったのは、今や久遠和菓子屋の経営をする杏ぐらいとか言われてしまうぐらいだった。
しかし、商人の間とは言え女学院に通う娘達は基本的に外と交流は基本的に禁じられているため、和志のことは知らない。菫も大爺様の後をとことこ追いかけているだけなので、耳には入っていない。
和志があけ、ついだワインを呑む。うむ、美味しい酒だ。
「和戸。お菊お姉様はどのような感じだったか」
「桔梗なんて消えてしまえとかそんな感じだ。本当に馬鹿な女だよなあ。いくら蘭に似ているからってそこまで激昂しなくてもな……」
「このままだと蘭お姉様と同じ末路を辿りそうだな……」
お菊お姉様は精神がおかしい。診断した医者の和戸ははっきりとそう言った。
大爺様は断じて認めないが、蘭お姉様を殺したのも、三石家の血縁者のほとんどを焼き殺したのもお菊お姉様だ。私だって認めたくなかった。
しかし、事件から一週間後。私と和戸、和志が一緒に喫茶店で話し込んでいたら椿に泣きつかれたのだ。私は殺してなんかいない、と。和志は言いがかりはやめろと怒ったが椿は全てを語った。
笑顔で蘭お姉様を刺すお菊お姉様。そして、三石家の別荘に火を放つお菊お姉様。それらの姿を私は見たのだと椿は泣きながら語った。和戸がこれを本当のことだと受け入れたから私も受け入れた。
お菊お姉様の剣道仲間として近づき、その後自分が西洋のお薬を中心に扱う薬屋だと名乗りお菊お姉様を診断した。その結果は、精神科医の和戸が顔を真っ青にするぐらいのものだったという。
「そうならないように、桔梗を預かっているんだからな。いつ返すべきなのやら」
「こっちが指示するまで待っておけ」
「はいはい」
貿易商である和志だが、独身なので桔梗が消えたあの日、捜索してもらった。すると血染めの華京橋という誰も近寄らないような場所の近くで倒れていたという。
桔梗は一応目覚めたが、多重人格という余計にお菊お姉様を怒らせかねないことになっている。そのために一応和戸の病院に入院している。
「ワイン、美味しかったぞ。そろそろお開きにしよう」
私がそう言うと、二人は無言で立ち上がり、去っていった。




