壹 花桜八重──七月十二日
葵が復帰したあの日以後、目立った事件は起きなかった。本当に無事に、平穏に日々は過ぎていった。
でも、桔梗お姉様は帰ってこない。最近ではお母様や菫様もその話題を避けている。大爺様は一体、どう思っているのかしら?
知りたいけれども、とても怖い。大爺様についてはお母様からどういうお方なのか幼い頃に聞かされているけれど、とても楽しくお茶を飲める相手ではないみたい。
今日はお母様に決められた月に十回ほどあるお休みの日。だからこそ、何もすることがなくて私はたくさんある絵本の中から名作だと思う物を取り出して読むことにした。
「菫、お見合いをしましょう? 」
「嫌よ、お母様」
「あなたがいつまでも当主の座を譲ってもらえないのは旦那がいないからよ。ほら、とっとと結婚しないと」
「嫌って言っているでしょう! 」
ふと外を見ると、菫様と菫様のお母様らしき人がいた。菫様のお母様は初めて見るけれど、私のお母様の方がとても美しい。本当にあの菫様のお母様なのだろうか?
どうやら、お見合いの事を話しているらしい。当主の座がとても凄いものというのはお母様から聞いているけれど、菫様はそこまでそれに執着しているようには見えなかった。菫様のお母様はまるでそれが生き甲斐のように執着しているようだ。
「八重、何を見ているの? 」
「お母様。あそこに菫様と菫様のお母様がいらっしゃるわ。私、菫様のお母様の事はよく知らないわ」
「彼女の名前は満。別に覚えなくてもいいぐらい低い貴族の娘なの。私の弟の奥様だけれど、権力を持ったことがないから何が何でも欲しいわけ。絶対話しては駄目よ。あの人、危険だから」
「分かりましたわ」
私は紙を取り出し、書き込む。また新しいことが増えた。──花桜家ってまだまだいるのかな?
「あの、お母様。質問しても良いですか? 」
「ええ。どうしたの? 」
「花桜家には他に人は居るのですか? 」
「いないわよ。大爺様には兄妹がいないって昔言ったじゃない。忘れたの? 」
「お母様には業平以外にいないのですか? 」
「ええ。質問はもういいでしょう? 私も暇ではないのだから」
「はい。とても助かりました」
私はお母様により明かされた花桜家の人物構成を黙読してみた。
まず、お母様が生まれる前から当主をしている大爺様。本名はお母様にも分からない。とても厳格で、娯楽を何よりも嫌っている。すぐ不機嫌になって怒鳴り散らす。近寄らない方が安全。
次にお母様。名前はお菊。本当ならば今頃当主になっているはずだったが、業平が文句を言った為無しになった。趣味は茶華道。私を愛してくれている。
そしてお母様の弟、業平。かなり頭が悪い問題児。大爺様に逆らって恋愛結婚をした。そのため、今でも大爺様とは会っていない。学生の頃はすぐ女の子に手をだしていた。
その業平の妻、満。低級貴族。一番欲しいのは権力。話しかけてはいけない危険人物。
業平と満の娘であり、私の従姉妹、菫。頭が良く、美人。権力は嫌いで、家出をいつかする気らしい。そのため、今は大爺様のご機嫌取りをしている。
──まあ、こんな感じかな。もっと詳しく聞きたいけれど、お母様も
忙しいだろうから、またいつかにしよう。
私は絵本を数冊読んだ後、空腹感から台所へと向かった。昼食の時間になれば、お母様もいつも通りきっといるだろう。
「あら」
──そこには満がいた。想定外の出来事で私はどうしよう、と焦ってしまった。
しかし、彼女は笑みを浮かべ、近づいてきた。
私は慌てて逃げだし、お母様のお部屋に向かった。
「お母様、お昼ご飯が食べたいですわ」
「あら、ごめんなさいね。今から用意するわ」
待つ為に居間に行くと、其処に菫がいた。黙々と昼食を食べている。
お母様は台所にいるからどうにかして切り抜けるしかない。
「──ねえ、八重。あなたはすべてを正しいと思っているの? 」
「……え? 」
菫が話しかけてきた。ああ、どうしよう。困ったな。
先ほどの満そっくりの笑顔で私を見てきた。
「その様子だと……すべて信じているのかしら。私はこの家を出る気だとか大爺様のご機嫌取りとか」
「そ、そうでしょう? お母様は賢いのよ。この家にも詳しいもの」
「もう少し周りを見てみたら? いつか、誰もが居なくなる前に。──後悔する前に」
「……」
菫の言葉はよく分からなかった。とても抽象的な、ぼんやりとした言葉。私にはそういうのをあまり理解できない。
菫は何も言わずに立ち上がり、台所へ空になった皿を持って行った。
昼食が出来上がり、お母様と楽しくお話しながら私は食べていた。とてもとても、楽しい時間。先ほどの言葉なんて忘れてしまおう。
「午後はどうするの? 」
「葵のお家に行くわ。それなら構わないでしょう? 」
「ええ」
食べ終わり、食器を運ぶ。私はその後、うきうきしながら葵に会いに行った。
「葵、あの──」
「……八重。ごめんね、ちょっと用事があるの」
葵は走ってどこかに行ってしまった。
先週からずっと避けられている気がする。私の登校日に葵はあまり居ない。居ても、朝、私と話すことはない。
──どうしてなの?
教えてよ。
分からないよ。