とある作家の朝は緩やかに揺れる
我が住居である高層マンションの窓硝子は、防音に優れている。
殴りつけるような雨や叩き壊すような風ではない限り、その分厚い体で、外部の雑音から私のプライベートを守ってくれる。
私は昔から雑音が苦手だった。本当なら物静かな田舎に引っ込んでいたかったのだが、仕事柄そうもいかない。
私の職業は物書きだ。都心に住まいを置いていないと色々と不便だと周囲から説得されたのは、もう大分昔の話になる。
カーテンを開けて窓越しに外を見た。今日は空が灰色だ。ここ最近猛暑が続いていたらしいから、外で働く人間にとっては多少過ごしやすい日になりそうだ。因みに私は一週間ほど外出をしていないから、外の気温の変化はよく分からない。全てテレビの天気予報と新聞からの情報だ。
「……今日中に終わるかな」
机上に放りっぱなしの原稿達を振り返って呟く。
昨日は予定以上に筆が進んだので、恐らく今日の夕方には仕上がるだろう。締め切りにはまだ一日ある。今回は調子が良かった。
安心感に浸りながら手元のカップに口付ける。珈琲よりも紅茶派の私は、毎朝こうしてストレートで温かい紅茶を飲むのが習慣付いている。たまに檸檬を入れることもあるが、ミルクは絶対に入れない。味云々よりも琥珀色が濁るのがどうにも好きでは無い。
「ふー……」
ゆったりと溜め息をついた。静かな空間に溶けていく。
「!!」
が、それは一瞬にしてかき消された。
突然聞こえてきたオルゴールの音に驚いて、思わず肩を揺らす。
しかしその音が聞き覚えのあるものだと直ぐに思い出した私は平静を取り戻し、原稿の横で忙しなくランプを光らせている携帯電話に手を伸ばした。
「……もしもし」
《あ、おはよーございます! せんせ!》
甲高い女の声が電話越しに突き抜けてきた。
右耳から左耳へと一直線に通る喧しさに、私の顔が自然と歪む。
「……おはよう。朝っぱらから何の用だ?」
《いやですね、せんせの事だから今日の夕方くらいには原稿上がるんじゃないかなって思いまして! どうですかね!?》
超能力者か何かか、この女は。そう思わずにはいられなかった。
普段は年甲斐も無く(といってもまだ二十歳と少しで私よりは幾分か若いが)騒がしくて落ち着きがなくて危なっかしいというのに、こうして時たまに私のことを驚かせてくるから困る。付き合わされる此方のペースなんてお構いなしなのだ、彼女は。
このまま黙っているわけにもいかないので、私は渋々ながら返事をする。
「……ああ、まあ」
《わあやっぱり! じゃあ今夜辺りにお窺いします!》
「いや、それは」
《駄目ですよ! せんせに拒否権はありません! 知ってるんですからね、せんせがここ何日も家から出てないの! 幾らインドアでも少しは動かなきゃメタボっちゃいます! というわけで今夜は私の行きつけのお店でデートしてもらいます!! ではまたお窺いする頃にご連絡しまーす!》
口を挟む隙も無かった。
ぷつっと無機質な音を最後に、あれほど騒がしかった電話は黙り込む。
再び静かな空間に残された私は立ち尽す。
「…………」
用が無くなった携帯を元の場所に戻して私は席に着いた。強制的に締め切りを今日にされたこの原稿を仕上げなくてはならない。
そうでもしないときっと彼女はこの静かな空間に容赦なく上がり込んできて、私の心境なんてお構いなしに傍でぎゃあぎゃあと騒ぐのだろう。そう思うと溜め息をつかずにはいられない。
「……騒がしいのは、苦手だ」
まだ耳に残っている高い声も、やたら激しく響く心音も。
机上に置いたカップの紅茶が穏やかに波打っている。
素っ気ない琥珀色が甘い乳白色に染められてしまったような気分になりながら、私はまた溜め息を一つ漏らして筆を執ったのだった。
END.