放っておけません。
誰かが泣いている。結季は暗い場所を一人で歩いていた。泣いている誰かを探しながら。
「どこにいるんですか?」
ひっく…うぅ…。
しゃくりあげる声は幼く、子供のようだ。
ひたすらに進んでいくと、小さくまるまった背中が見えた。
黒いワンピースを着たおかっぱの子供がしゃがみ込んで、両手で顔を覆っている。その小さな体を取り巻くように黒い靄が漂っていた。
「あの…。」
「近付かないで!」
結季の姿を見て、子供はそう叫ぶと、さっと後ずさった。黒い靄が、密度を増し、結季と子供の間に壁のように立ちふさがる。
「それに触れれば、あなたもただじゃ済まないんだから!」
「これは…呪いの穢れ…ですか?」
「そうよ!あの人に近付く子はみんな、これでやっつけたんだから!!」
子供の顔は靄に隠れて見えない。結季はそっと一歩前に踏み出す。
「近付かないでって言ってるでしょ!ち…近付いたら…。」
子供は靄を引きずるようにあとずさる。それを追うように、結季はまた一歩、前へ出た。
「こ、来ないでってば!ほんとに、本当に、危ないんだからっ!!」
「でも、放っておけません。」
また一歩。
「やだっ!やだやだ!!…けほっ…やめてよぉ!!」
ずるり、ずるりと後ずさる子供は時折苦しげに咳き込んでいる。結季は足を止めることなく、靄の前まで歩み出た。
「その靄をそのままにしていたら、あなたが苦しむ。だから、放っておけませんよ。不破先輩。」
黒い靄の帳を開けるように、手を差し入れると、締め付けられるような痛みが全身を苛んだ。それでも、堪えて、靄をかき分け、その中へと身を乗り出した。
「…っどうして…?!」
蹲り、震えながらこちらを見上げた子供の顔が、大人びた、華奢な少女の姿に変わる。結季は全身を苛む痛みをこらえながら、少女―繭子に歩み寄った。
「…けっこう、痛いですね。」
「あたりまえでしょう!?だからっ!!」
「私を近づけまいとした。不破先輩はやっぱり優しいです。」
繭子の服も、顔も、黒い靄がすすのようにこびりついて汚れていた。結季はその細い体を抱きしめ、手で顔を拭ってみる。繭子の顔の汚れが薄れた分、結季の手が汚れ、そこから結季の全身に痛みが走った。
「なるほど。」
「なにやってるの?!」
繭子が叫んで結季の手を拭おうとする。けれど繭子の手も、服もすでに汚れていて、拭うものがない。結季はそのまま、繭子の体を抱きしめ、頬をすりよせた。触れた部分から、黒い靄が結季の全身を汚し、痛みを走らせる。
「やめてっ!」
「先輩の穢れ、半分引き受けます。」
腕の中でもがく少女の力は弱々しく、呪いによってかなり消耗しているのが見て取れた。結季はその顔を拭い、髪を梳き、ぎゅうぎゅうと抱きしめて、その汚れを自分へとなすりつけた。
「晴海さんやめてっ!このままじゃあなたが!!」
「大丈夫です。私結構丈夫ですし、ほら、こうすれば少し薄まってきませんか?」
結季は笑って繭子の頬を手でさする。繭子の眼からぼろぼろと涙がこぼれた。
「どうして…?私なんて、放っておけばいいのに…。」
「放っておけないから、こうしてるんですよ。」
結季は全身を締め付けられるような痛みを堪えて、繭子の顔を正面から覗き込む。
「放ってなんか置けません。だって、先輩のお話、まだちゃんと聞いてないんですから。」
「え…?」
「テストが終わったら、聞かせてくれるって、約束しましたよね。」
呆気にとられて繭子がぽかんと結季を見つめる。
「呪いの真相ならもう…。」
「私が知りたいのは、不破先輩が、どうしたいと思っていたかです。」
「それは…。」
結季はぎゅっと繭子の手を握り締めた。
「不破先輩は、本当はどうしたいんですか?呪いたいほど、人を嫌いになる気持ちだけじゃ、ないでしょう?」
「わ…わた…しは……。」
「教えてください。先輩の本当の気持ちを。」
繭子は俯き、声を震わせる。
「私は…最初にあなたを見た時から、あなたが嫌いだった…。」
「!」
紡がれた言葉が結季に突き刺さる。
「素直で、可愛らしくて、守ってあげたくなるような、そんな子が、祐也に近づくのが許せなかった。」
「…。」
「私にはない物を持っているあなたが、私にはできない力で、祐也を助けて、心を奪ってしまうのが、溜まらなく悔しいと思った…。」
「……。」
「あなたさえいなければ…何度も思ったわ。」
繭子の華奢な指が結季の喉に絡まる。結季はただ黙って、繭子を見つめ続けた。
「わかっていたのよ。あなたのせいじゃない。それでもあなたを憎まずにいられない自分が醜くて、賤しくて、それさえもあなたの所為だって…。」
「……。」
「…苦し、かった…。ちょっとしか話していないのに、あなたの素直さが眩しくて、自分の汚さを思い知らされるみたいで…。」
繭子の指に力が籠り、結季は地面に押し倒された。上からのしかかられ、喉にかかる圧迫感が増した。
「あなたが…羨ましかった…妬ましくて…憎らしくて……惹かれたわ。」
「っけほ…せんぱ…。」
喉にかかる力が弱まり、繭子はだらりと手を下ろした。結季の頬に、ぽたぽたと、透明な雫が降り注ぐ。
「あなたを見るのが辛かった。でも、あなたを傷つけるのは、もっと嫌。」
「よかった。」
「え?」
「不破先輩に、心底嫌われてたら嫌だなって思ってたんです。私、先輩のことけっこう好きなので。」
「晴海さん…?」
「大人っぽくて、美人で、頭良くって、優しい先輩だなって。だから、嫌われてたら寂しいなって。」
「嫌われるどころか…あなた何されたかわかってるの?」
殺されかけたのよ?という繭子の言外の声に、結季は笑った。
「でも、途中でやめてくれました。呪う程憎らしいって気持ちも本当だけど、今こうして、殺すのをやめてくれた気持ちも本当ですよね。」
呑気すぎる結季の言葉に、繭子の表情が驚愕から、へにゃりと歪み、泣き笑いの顔になった。
「ふふっ…あなたって…本当に変わってるわ…ふっ…あはっ…。」
「よく言われます。」
こぼれる涙を指でぬぐいながら、繭子は笑い続ける。
「本当に…ふふっ…あなたに会えてよかった。あなたで、良かったわ。」
繭子の言葉が段々遠くなり、その姿も、滲んでいく。
結季は強い力に引っ張られるように、意識が遠のいていった。




