襲撃、戦闘、そして出会い
こちらはリレー企画『輝ける星光』の関連作品です。
今作の作者はういいちです。
東大陸の玄関口、海に面した最大の港街トウオウに、巨大な船舶が停泊している。海運商工ギルドが運用する大陸間往来用の大型客船だ。見上げるばかりの巨体を有す機械仕掛けの動力船は、広大な港の一角で今は静かに碇を下ろす。
役目を終えて動かぬ船からは、船着場へとアルミ製のタラップが渡されていた。その上を何十人もの乗客が通り、舗装された陸地へと移動していく。彼等の姿は実に多様だ。耳の長い者、獣の尾を持つ者、肌が鱗状の者、角が生えている者、翼がある者、頑健な体付きの者、子供ほどの背丈で髭のある者、学者風の者、騎士風の者、商人らしき者、魔法使い然とした者、外観のみに留まらず衣服も違い様々である。
多種族混成の渡来人達は、思い思いの荷物を手にして語らいながら、次々と船から下りていった。港の路面に辿り着くとそれぞればらけ、各々の目的地へと向かい始める。そんな群衆の中に紛れ、褐色の肌を持つ青年も東大陸への一歩を踏んだ。
年の頃は17、8。浅黄色の羽織と、黒地の袴を身に着けた若者である。それでいて履いているのは年季の入った運動靴。その姿は他の客達と比べてもやや浮いており、ちらちらと行き交う人々に視線を投げられていた。だが周囲から好奇の眼差しが届けられるのは、何も彼の服装が特殊だからばかりでない。寧ろその容姿にこそ、多数の興味が集まる。
最初に人々が見るのは面貌だ。優雅な弧を描いた眉と、長い睫毛を湛えた二重瞼。高くはないが形の良い鼻に、艶やかな潤いを持つ唇、奥行きがあり不思議な光沢を放つ朱色の瞳。全体に男臭さはなく、繊細で、女性と言っても充分に通用する顔立ちである。
うなじを隠す程度に伸ばされている髪は、蒼穹を写し取ったように清涼な蒼。優しげに吹く潮風に乗り、軽やかに靡いている。
彼自身の気質が表れている為か、はたまた容姿の影響か、優しげで温和な印象があった。格好が持つ軽度の奇抜さとは対照的に、温室育ちの優等生といった風情をする。端整な細面は人が良さそうであり、華奢な体と穏やかな雰囲気が、善良な人となりを感じさせた。
その若者――霧川禾槻は小さな旅行鞄を一つだけ肩に提げ、岬を開いて作られた港の地を南下していく。自身へと注がれる不特定の視線など意にも介さない。それは今までの人生で常に感じてきたものであり、今更特別に苦とするものでもなかった。要するに慣れているのだ。
広々とした港湾地区を軽快な足取りで歩む途中、禾槻は立ち止まって大きく伸びをする。両手を空へ向けて突き出し、力の限りに体を伸ばす。揺れ動き安定しない船上での凝りを解すよう、胸いっぱいに息を吸い、続けて盛大に吐き出していく。
「うーっん。やっぱりカスミガの空気は美味しいなぁ。故郷のものが一番体に馴染むよ」
端整な顔ににこやかな笑みを刷き、禾槻は二、三度深呼吸を繰り返す。彼の姿に緊張はなく、見知った土地へ対する気安さが感じられた。それでいて他の旅行客と同様に、周辺の景観を楽しむ様子もある。
港の只中に独り立ち、禾槻はぐるりと周囲を見渡した。歩き去る旅客とは別に、忙しなく駆け回る船員達の姿が確認出来る。別の船着場にも何隻か大型の船が停まっており、中から幾つもの積荷が下ろされていた。
港を行き交うのは人ばかりでない。其処彼処で認められるのは、厚い体毛を持った大柄な四足の獣。眠たそうな顔でゆっくりと歩くそれは、港に下ろされた積荷を引いて運ぶ運搬生物ヤーポである。大人しく従順で力が強いため、世界各地で一般的に利用される動物だ。
他には人の乗った車を引いて颯爽と駆けていくツェンカーの姿も。脚と胴が長く俊敏で、精悍な顔付きと白い鬣が印象的な陸走生物。人懐っこく賢い動物で、交通手段として世界規模で扱われている。
ヤーポもツェンカーも原産は東大陸だ。4大大陸のうち東方に位置付くカスミガは、基本的に温暖な気候で土地が豊かな為、生態系の幅が広く動植物は多様な進化を遂げている。人類にとって有用な生物も少なくはなく、その捕獲と諸外国への輸出が大陸産業の一つでもあった。
こうした運搬生物の代わりに、機械仕掛けの貨物装置を用いる場所も少なくはない。そちらは生物の生育に不適当な土地柄で、対照的に旧文明の遺産発掘と改修が盛んな南大陸マーサレスの製品である。
「あ、飛竜宅急便だ」
自分の体を覆うように黒い影が被さった時、禾槻は空を見上げて呟いた。遥か頭上を大きな飛翔生物が過ぎっていく。
赤銅色の鱗を持ち、長い尾と翼を持った飛竜である。世界に存在する生物の中でも抜きん出て気位が高く、非常に高い知性を有すドラゴン族の一種だ。本来、社会性がなく単一で生涯を完結させる孤高の種族ドラゴンにあって、彼等ワイバーン種は群を成す習性の珍しいタイプだった。加えて穏当で社交性もあり、利害関係の一致から人類社会に貢献する事も少なくない。
飛竜宅急便はそうした彼等の出張任務の一つ。極めて緊急性を要する届け物や人員輸送の際に、卓越した飛翔能力と移動性能を持つドラゴン族の力を借り受けるというもの。彼等の翼を持ってすればツェンカーで1時間掛かる道も、僅か5分足らずで踏破出来てしまう。無論、それ相応の見返りをワイバーン達も求めてくるが。
上空へ向けていた視線を正面へと引き戻し、禾槻は向かおうとしていた南方部を眺め遣った。港の外には市街地が広がっており、レンガ作りの民家や商店が軒を連ねている。行き交う人々の流れは停滞を知らず、常に動き変動を繰り返していた。他大陸との貿易によって潤う都市らしい活気と喧騒が、幾許かも離れた禾槻の元まで届く。買い物客達が店主と取り交わす商談の声と歓声は、賑やかに響いて聞く者の心を弾ませた。
「やっぱり、こっちの方は豊かだな。随分久しぶりに帰ってきたけど、この雰囲気は良いよ」
誰にともなく独語して、禾槻は頬を緩めた。穏やかな笑顔を浮かべたまま、肩の鞄を提げ直して再び歩き出す。
と、その瞬間である。後方の船着場から何者かの怒号が響き渡った。非常に切迫した、危機感を孕む絶叫である。
「なんだろ?」
ただごとではない空気を感じ、禾槻は素早く振り返った。
見れば船員や旅行客達が慌てふためき、相次いで街方面へと走っていく。その表情はどれも恐怖に染められ余裕がなく、開かれた口からは甲高い悲鳴が上げられた。
禾槻は目を細め、人波の基点を観察する。客船の傍近くが最も混乱が深く、どうやら人々はそちらから逃げてきているようだった。他者を押し退け我先に駆けようとする群衆の最奥で、明らかに人とは異なる何かが蠢いている。
「あれは……」
逃げ惑う民衆へと追い縋り、躓き転んだ者達へ襲い掛かる異形の影。それを認め、禾槻の柔和な表情が瞬く間に険しくなった。
流麗な美貌には剣呑な鬼気が宿り、俄かに奥歯が噛み締められる。和やかだった青年の雰囲気は急激に研ぎ澄まされ、全身から切り裂けそうな戦意が放射され始めた。
そうかと思えば荷物を放り捨て、禾槻は路面を駆けていく。緩やかな袴を振り動かし、前傾姿勢で走る姿は一本の矢が如し。靴底で床部を踏み叩き疾駆しながら、禾槻は左手を懐へ、右手を後ろ腰へと素早く滑り込ませた。次にはそれぞれに得物を握り、一息にて抜き放つ。
青年の手に握られているのは、天よりの明光を返し黒光りする無骨な銃器だった。左手にあるのは全長225mmの自動拳銃。スライドの前後に鱗状のセレーションが設けられた品であり、旧文明期に存在したS&WM945というハンドガンを基本モデルとした高精度銃だ。
右手にあるのは全長420mmの短機関銃。円筒形の薬室を経て、上面へ突出した照星と銃身が並ぶ構造をする。こちらも旧文明期に使用された武器で、ベレッタM12ペネトレーターをモデルに設計される。
二つの携行兵器を手に禾槻は猛然と駆けて行く。正面空間では逃げ送れた船員が、一回りは大きい異形に肉薄されていた。漆黒の外殻で全身を覆った、二足型の怪物だ。長く太い腕の先には鋭い爪が光り、大きく裂けた口からは鋭利な牙が覗く。前方方向へ突き出す頭部に表情はなく、落ち窪んだ眼窩が血の様に赤く輝いていた。
「頭を下げて!」
走りながら右腕を真っ直ぐに前へと突き出し、狙うを定めながら禾槻が叫ぶ。
声に反応した船員が頭部を沈めると同時に、禾槻は短機関銃の引き金を引いた。
瞬間、爆発的な轟音が連続発生し、銃口から赤い光が幾多も弾ける。眩いほどのマズルフラッシュが灯る中、機関銃から吐き出された鉛弾の群勢が虚空を駆け抜け、対面の怪物へと急速に突っ込んでいった。弾丸は次々と異形の胸部や腹部に命中し、外殻を粉砕して体内へと潜り込んでいく。高速回転する強弾の群は対象の内部にて体組織を容赦なく破壊し、周辺細胞を抉り、粉砕して散々に引き千切った。傷口からは黒い体液が零れ出し、地面へと止め処なく垂れ落ちていく。
唐突に訪れた激烈な苦痛に怪物が仰け反って咆哮を上げる。その隙に禾槻は標的へと一気に詰め寄り、敵の右胸へと左手を伸ばす。両脚にて路面を踏み締め体に制動を掛けつつ、腰を落として狙い付けを並行させ、半瞬後には引き金を絞った。
次に響いたのは一発の銃声。遠雷の轟きにも似た銃砲が大気を震わせ、聞き慣れぬ者の身を反射的に竦ませる。それを余所に撃ち出された銃弾は視認不能な高速度で空気層を突き破り、それこそ一瞬で怪物の右胸郭を穿ち通した。闇色の外殻を圧倒的な強制力で食い破り、奥深くへ侵入する鉛の異物。怪物がこれに対処する暇などある筈もなく、無慈悲な鉛弾は進路を違えず突き進んだ。己が行路上にある全てを撃砕し、脈打つ駆動中枢を破壊して走りきる。
至近距離から心臓部を撃ち抜かれた異形は、眼の光を消失させて仰向けに倒れこんだ。2mを超える躯体が舗装された路上へ自重のまま激突すると、盛大な衝撃音と土煙が上がる。怪物の背を中心に道へは放射状の亀裂が走り、生まれた罅割れへタールのような黒い血液が流れ込む。
「大丈夫だった?」
狂獣を討ち倒した禾槻が銃を手に持ったまま、倒れている船員へ語りかける。
周囲への警戒を怠らず気を張りながらも、穏やかな声と人好きのする笑顔で問う。
「あ、ああ。ありがとう、助かった」
命の危機に直面していた男性船員は、極度の緊張を引き摺ったまま辛うじて頷く。声はまだ震えていた。
「いったい何が起こったの?」
「魔物だ。魔物共が海から這い上がってきたんだ!」
血の気の失せた顔で、船員は語気を荒げる。上下の歯が激しくかち合い、音を鳴らした。この様子では、ショック状態から当分抜け出せないだろう。
「海か。なるほど」
船員の訴えに耳を傾けつつ、禾槻は海上方面を見遣った。
確かに海へ面した辺りに不気味なシルエットが幾つも見えた。その数たるや10や20ではない。かなりの規模の異形が上陸を果たしている。その形態に一貫性はなく、群と呼ぶには共通項が見出せない。だがどれもが等しく人々を追い回し、凄惨な攻撃を加えんと牙を剥く。
魔物。それはこの世界に生息する生物群の中で極めて特異な存在である。食物連鎖の内に加わらず、独自の進化と生態を有する未知の生物。その行動原理は単純にして明快だった。人類への無差別攻撃及び徹底殺戮、この一点である。
魔物は一切の利害を超えて只管に人類を襲う魔性の怪物。尽き果てぬ闘争本能と破壊衝動を糧として、自らの死すら厭わず戦い続ける生粋の化け物だ。理性はなく、会話も不可能。形状・性能はまちまちだが人類への攻撃性はそのどれもが保有し、違えられることがない。
魔物への敗北は即ち死を意味する。彼奴等との戦いは文字通りの生存競争であり、西暦5000年代の全人類に於いてその勝利は大きな命題だった。
「あんた、警備隊じゃないな。冒険者か?」
「うん。さっきの船でトウオウに来たんだけど……まさか、こんな事になるなんてね」
依然として震える男の質問に答えながら、禾槻は銃を構え直す。素早く這わせた視線は倒すべき敵を捉え、その動きを正確に追っていく。
「警備隊も出動して戦ってるが、奴等の数が多すぎる。頼む、手を貸してくれ。奴等が街に入ったら大変だ」
「勿論そのつもりだよ。困ってる人達を放っておけない性分なんだ」
腰を抜かした可能性もある船員へ僅かな間だけ微笑みかけ、禾槻はすぐに顔を上げた。
狙った敵を再度捕捉すると、挨拶もそこそこに走り出す。軽やかな体動で風を切り、蒼髪を躍らせて新たな異形へ立ち向かう。
目標目掛けて距離を詰める最中、横目で港湾の様子を流し見た。魔物の数も多いが、これへ対する戦士達も少なくない。大剣を振るう大柄な男や、魔術で雷を作り出す法衣の女性、ショットガンを片手に走り回る若者や、ナイフで怪物を捌くメイド、まだ幼いのに氷塊を作り出し魔物へ投げつける女の子など、数々の姿が見える。港の防衛を請け負う警備隊に、自分と同じで街へ訪れていた冒険者、傭兵の類も参戦しているのだろう。総数では負けているが、実力と気概ではどうだろうか。
共闘する戦士達を内心で激励し、禾槻は視界に収めた魔物へサブマシンガンを向ける。6本の細い脚で体を支える、鎌状の腕を持った怪物だ。身長は2m強、全身に赤黒い鱗を持ち、逆三角形型の頭部に球状の複眼を六つ宿す。上下に大きく開かれた口からは悪臭と粘性の唾液が零れ、耳障りな奇声を放つ。その形状は、旧文明期に存在した蟷螂という昆虫の変容体と思えた。
魔物が禾槻に気付き、右腕を振り上げた。鋭刃と見紛う大鎌が陽光を反射して、不気味にギラつく。禾槻はその腕を狙ってトリガーを引いた。易しく反動へ伴い多数の銃弾が射出され、それぞれが空中を一直線に駆けていく。驚異的な速度で進行する弾丸群は異形の右腕へと喰らい付き、密集する鱗諸共貫通する。
着弾と同時に防御を砕き、内肉へと減り込んで細胞を潰した。血管や神経を敢然と引き裂いて、反対側から飛び出す。肉という肉を打ち破り腕の機能を殺しきると、幾多の穴を穿たれ損壊した部位が中途から圧し折れた。鎌は振り上げられた姿勢のまま支えを失い、硬い路面へと落下する。
しかし魔物に苦痛の色はない。それどころか複眼をより一層赤く輝かせ、口腔を限界まで押し開けた。唾液に塗れた口内からは細いノズルが迫り出し、針の穴ほどの先端部分が禾槻と対峙する。
「これは」
呻くと共に禾槻は身を捩り、体を左側へと急遽ずらした。それを追う様に怪物から出てきたノズルが濃緑の液体を発射。強烈な刺激臭を上げる液体は禾槻の右肩を掠める。
「ッ痛!」
濃緑に触れた部分の布地が一気に解け、禾槻の右肩、褐色の皮膚表層にも火傷が生じた。肩に生まれる焼け付く痛みと、蛋白質を焦がす猛烈な臭気に中てられ、青年の端整な顔が歪む。
その痛みを踏み台に、禾槻は歯を食い縛って魔物を睨んだ。赤い複眼へ朱瞳を射込み、臆する事無く左腕を伸ばす。拳銃の銃口を異形の顔面へ定めると、躊躇なくトリガーに掛かった指を引く。間髪入れずに発砲音が鳴り響き、銃身から吐き出された弾丸が複眼の中央を撃ち抜いた。
球状の眼部が一つ大きく抉れ、割れて弾けた水晶板が四散する。頭の中央に風穴を作られた怪物が首を仰け反らせ、それでも怯まず口腔ノズルから液体を射出した。視界が上手く利かない所為か、その狙いは先の正確さを失っており、まるで見当違いの方向へと飛んでいく。もはや回避も不要と断じた矢先、禾槻の左手は拳銃を連続で唸らせた。
間断なく撃ち出される強弾は残った眼部を次々に潰し、弾けて失せた視神経から黒い体液を噴出させる。腐った卵が割れたように濁った液体を溢れさせ、壊れた眼球の残骸が頭部からずり落ちていった。それらが路面へ転がり更に崩れ、悪臭と揃って拉げる上から禾槻の脚が踏み躙る。
靴底で何度となく捻り削れる複眼に意識など向けず、青年は怪物の懐へ潜り込んだ。既に敵のもう片腕にも短機関銃の斉射を浴びせており、反撃能力は封じてある。頭部を振り乱して後退ろうとする魔物へ肉薄すると、禾槻は左手を相手の下顎目掛けて突き出した。連射で熱を帯びた銃口が魔物の顎へ接触し、それ以上は上限はないという所まで押し上げられる。
「これで終わりだね」
人語を解さぬ異形へ囁きかけて、禾槻は引き金を絞った。
甲高い銃声が轟き、繰り出された鉛弾が怪物の口腔を垂直に貫通していく。喉の奥から伸びたノズルもあやまたず砕いて潰し、そのまま頭蓋に沈んでこれを通過。脳漿、皮膜、脳幹全て爆砕後、頭頂を吹き飛ばし突き抜ける。粉々に分解された脳細胞が黒液に濡れた状態で周囲へ飛び、鈍い光に揺らめいて路上へ差異なく落ち去った。
「ぎゃああああッ!」
二体目の魔物を撃破した矢先、禾槻の耳へ誰かの絶叫が届く。
生命活動を終えた異形から視線を外し、青年は声の出所へと体ごと向き直った。見れば幾らか離れた前方方向に鎧を着た男が倒れ必死の形相で悶えている。傍近くに折れた鋼の剣と、彼自身の片腕があった。
男には右腕がない。肘から下が切断され、赤い断面が生々しく覗いている。そんな戦士の上には一体の魔物が覆い被さっていた。全身を汚泥めいた色彩の甲殻で覆う、巨大な節系多足の怪物である。体は四角く、顔らしいものは見当たらない。代わりに身の丈に匹敵する鋏が、体の側面部から一本だけ生えていた。忙しなく動くそれからは、赤黒い液体が滴り落ちる。
蟹だ。古い時代に蟹と呼ばれた生物をモデルとしたような怪物だ。
「間に合うか」
戦士の危機を目の当たりにして、禾槻は小さく歯噛みし駆け出した。
走りながらハンドガンのトリガー脇に設けられたマガジンキャッチを押し、残弾を撃ち尽くした空弾倉を銃杷から抜き落とす。即座に左手を垂直に足らして振ると、羽織の袖から新たな弾倉が滑り出てきた。これをそのまま空洞の銃杷内へと落とし込ませ、腕を上げる最中に右手甲で銃床を打つ。流れる動作で3秒に満たない弾倉交換を終えると、禾槻は両腕を伸ばし魔物へと銃撃を開始する。
けれど頑健な甲殻に護られた怪物は、飛来する弾丸を悉く弾き返してしまう。毛程もダメージを負わないどころか、襲撃者の存在そのものにさえ興味を示さず、足下で苦しげに呻く男をのみ注視していた。
「た、たすけ――」
苦悶の表情で男が口を開いた瞬間、魔物の鋏が大きく開き、彼の首を挟み込む。そうかと思えば瞬きすらも終わらぬうちに鋏を閉ざし、ちり紙でも切り分けるような気軽さで男の首を切断した。
強大な力で有無を言わさず切り離された男の首が、冗談のように空中へ舞う。鋭い刃物で綺麗に切られたのではなく、硬い物質で力任せに押し潰され捻じ切られている。その切断面は御世辞にも見事とはいえず、ズタズタに破壊された筋肉や血管、骨格がザクロさながらに崩れ、汚れた欠片を露出させた。
宙へ浮き上がった男の頭を見て、禾槻の顔に一瞬の沈痛さが宿る。それが消えると険しさが増し、普段の温厚さは完全になりを潜めた。冷静な闘志が表面化した戦士の貌。静かに眇められた目が敵の甲殻中心部、その一点へ狙いを定める。同時に拳銃と短機関銃で一斉射撃を始め、一発も余す事無く弾丸を撃ち込んでいく。
にも関わらず、魔物の甲殻を貫く事は叶わない。火線の集中で損傷は与えているものの、決定的なダメージには遠く及ばないのだ。異形本体からすれば、それこそ科が刺す程にも感じていまい。
「駄目だ、硬すぎる」
思わず禾槻が漏らした時だった。魔物が突如として多脚を折り曲げ、姿勢を低める。続いて一気に伸び上がり、路面を蹴立てて跳躍した。
高らかに跳び上がった異形は禾槻の頭上を悠々と越え、その背後へと一足飛び降下する。盛大な音を響かせて着地を決めると、反応して青年が振り返るより一拍早く、巨大な鋏を横薙ぎに振り払った。
「なっ――くぅッ!」
体動より一足先に繰り出された渾身の一撃を、禾槻は咄嗟に銃を用いて受け止める。が、圧倒的な衝撃を完全に無力など到底出来ず、叩き付けられたエネルギーに負けて路面を後方へ滑らされた。渾身の力で床面を踏み、重心移動で威力を殺そうとするも、禾槻の細い体は為す術なく魔物から距離を開けていく。
それより数秒の移動を経て漸く動きが止まった時には、靴底も磨り減り、右腕に圧迫するような鈍い痛みが走っていた。サブマシンガンでガードしても防ぎきれなかったダメージが、右腕一本に重い代償を化している。袖の下で見ることは出来なかったが、恐らく打撲と内出血は起こしているだろう。骨に皹ぐらい入っているかもしれない。
断続的な苦しみに抗って踏み出そうと試みる。その前に先手を打ったのはまたしても魔物だった。巨大な鋏を上下に開き、分厚く重苦しい刃の境目を禾槻へ向ける。そこには黒い銃身状の物体が突き出しており、彼が危険性に気付くのと同じタイミングで轟音が鳴った。立て続けに二度。
「うあぁッ!」
我が身を駆け抜けた鋭い痛みに短い悲鳴を上げて、禾槻はよろめき片膝をついてしまう。
魔物が放った射出物が羽織の左脇腹を掠めており、着物の一部と脇腹を少しこそぎとっていた。それだけでなく、左大腿部には背の高い鋭利な針が突き刺さり、袴の一部に赤い染みを広げている。
「ニードルガンを持ってたのか」
拭えない痛みに苦しげな吐息を零し、禾槻は眉間に皺を刻んだ。
高速で射出された針は急所こそ外しているが、脇腹に左大腿どちらへも軽視出来ない手傷を与えた。正常に作用する痛覚は絶え間ない痛みのシグナルを乗せて、体中を縦横無尽に駆け回っている。
弱まる気配のない痛みに意識を焼かれ、それでも禾槻は戦意を消さずに脚に刺さった針を引き抜いた。生への執着が精神力を奮い起こさせ、外敵の撃滅を絶対命令として連呼するのだ。こんな所で生きる意志を手放すつもりはない。人生を諦めるには、彼はあまりに若すぎる。なすべき目標は、まだ何も達成しておらず、その無念と意欲もまた青年に闘争心を呼び起こさせた。
「まだ、負けてはないよ」
神経を刺激して止まない苦汁に苛まれながらも不敵に笑み、禾槻は足を引き摺り立ち上がろうとする。それを見ていた魔物は再度多脚を沈め、一瞬の呼び動作で空高く跳び上がった。
敵の狙いに気付いた禾槻が体ごと横転し湾道を転がる。二回転ほどしたところで件の魔物が急速降下し、先刻まで彼のいた位置へ落着した。衝撃と振動が周囲へ走る。だが異形の脚も体も目標物を粉砕してなどいない。標的は真横へ逃れて攻撃を回避していた。
これを認めるや魔物の鋏が勢い良く振り上げられ、溜めもなくしに高速で叩き下ろされる。禾槻を一気に吹き飛ばした、あの一撃を縦振りで見舞おうというのだ。空気を裂いて落ちる鋏に微塵も慈悲はなく、ただ単純に敵を破壊する為だけに最短距離を全力で駆け抜ける。
「ふんッ!」
硬い物質同士の衝突音が爆ぜ響き、騒然とする港に新たな音域を生んだ。気合の呼気と共に禾槻が行ったのは、迅速な回避ではない。両腕を頭上に振り上げ、拳銃と短機関銃を交差させ、その接点にて魔物の鋏を受け止めていた。
流石に威力は大きい。冗談では済ませない衝撃を全身に受けながら、しかし彼は異形の一撃を完全に防ぎきった。両腕は感覚がなくなるほど痺れている。とかく右腕には致命的だったかもしれない。焦がされた右肩や抉られた脇腹、血の滲む太腿も尋常でない痛みを訴えてきた。
美麗な顔が苦痛に歪む。震える口端からは一筋の血が垂れる。そんな状態でありながら、禾槻は穏やかな笑みを浮かべてみせた。
「攻め手は封じたよ。僕を押し切らないと、次の手が打てないだろ? これでやっと、集中出来る」
怪物の汚泥めいた甲殻を見詰めながら囁くと、禾槻の朱瞳に変化が起こる。瞳孔が急激に収縮し、蒼い髪が俄かにざわつき始めた。今この時、風はない。
禾槻が一点を見据え、精神を深い部分で集中していく。この間にも魔物は鋏を振り下ろそうと力を込めるが、青年の細腕は動かなかった。強力な銃の反動を片手で抑え、耐え凌ぐ腕なのだ。華奢な体に相応しく肉付きは薄く見えるが、筋繊維一本一本の頑健さが違う。外見で人を判断するべきでない、その好例であろう。
その腕が左右全力で働くならば、例え負傷しているとしても少しの間ならば保つ。そしてその僅かな時間こそが、禾槻の求めていた必勝の好機を作る。
収縮していた青年の瞳孔が再度動き、今度は外側へと拡大した。それと同時に魔物の体へ、突如として炎が生まれる。紅蓮の焔が何処からとも出現し、異形の躯体を一気に包んだ。燃える。戦士を圧倒していた奇怪な魔性が、真紅の色に飲まれて溶ける。
己が身を襲った炎に驚いたのか、魔物の鋏から僅かに力が抜けた。その隙を見逃さず、禾槻は両腕を押し上げて魔物の一手を弾き返す。一歩よろけた異形を見据えて立ち上がると、両手に持った銃を双方共に手放した。ハンドガンとサブマシンガンが重い音を立てて路上へ落ちる。
得物をなくした腕のまま、禾槻は右手を真っ直ぐ前へと突き出す。開いた掌を握り込み、拳に変える動作を行う。そうしていると赤い粒子が右手へと集っていき、急速に凝り固まって燃え盛る一振りの剣となった。明確な形状はない。炎が集って剣の形に見えているだけ。だがそれは物質ででもあるように禾槻の手中へ止まり、赤々とした灼熱の煌きを放っていた。
禾槻の顔は真剣そのもの。文字通り抜き身の刃に等しい怜悧さが宿っている。優しさも気安さも振り払い、危難へ挑む強健な戦闘者の面だ。幼少の頃から独りで此の世の中を這いずって、泥を啜り、岩に噛り付いてでも生きてきた生活の中、鍛え培った無慈悲なる戦士の色が全てを占めた。
青年が徐に右腕を振り上げる。失せた感覚のお陰か苦ではない。腕の動きに合わせて炎も続き、燃える刃は今も禾槻の手に留まった。
「さぁ、燃えてくれ!」
喉の奥から放たれた一喝に合わせて、禾槻の腕が、握られた剣が振り下ろされる。全力からの一撃は焼け爛れる魔物を襲い、正面から上方部へと打ち込まれた。赤く燃える紅蓮の刃に抵抗はない。驚くほど簡単に異形の体へ沈み込み、これを速やかに切り裂いていく。
精神集中によって自らの思念を燃焼させる禾槻の特異能力。持って生まれたサイキックの素養によって、彼は任意に炎を発現させて対象を焼き滅ぼす事が可能だった。その温度は集中度合いが深く強く、精神の消耗量に比例して際限なく上昇する。危機的状況下で平時異常の極度集中、もはやトランス状態とも言える段階に到った事で、禾槻の炎は剣にまで集約されて超熱化を遂げた。
刃そのものである煉獄の具現、罪業どころか存在そのものまで爆征する必滅天火は、敵勢装甲を融解させいとも容易く深部目指して掘り進む。内肉を炙り、焦がし、溶かして、食み、あらゆる組織と繊維を貪って、異形の体を抉り通った。遮る全てを食い千切り、焼き尽くし、血肉の焼ける猛烈な悪臭を発散しながら、体の更に奥へと。
全ては一瞬。感じ入る暇もない刹那の時間に、業熱は異形の肉体を寸断した。自らに触れた全てを一切の区別なく焼失、蒸発、焦滅させる。その結果、盛大な焔に内外を焼き尽くされて、魔物は抵抗せぬまま両断された。左右に隔てられた分体は双方共に炎へ沈み、黒液すらも併呑して燃え果てていく。
原型を崩し、業火の中で燃え滓に変じていく魔物。その紅蓮に煽られて、赤い光に禾槻の顔が照らされる。手中にあった剣は既に無数の火の粉となって、最初から何もなかったとばかり散り消えた。後には小さな炎も見られず、大火の余韻は微かにさえも存在しない。
望むもののみを焼き尽くす、それが禾槻の意思の炎であるが故。
魔物の襲撃から3時間あまりが経過していた。
激戦区と化していた港には、大小無数の魔物が屍を晒している。動くものは皆無であった。人類側の防衛戦員が結束してこれを退け、全ての敵を打ち倒したのだ。
当初は人類側を圧倒する魔物の群勢であったが、そのどれもが独自に動き統率というものはなかった。対して参戦した戦士達は警備隊を中心に陣容を整え、即席ながらも集団として連携を持ち対処した。如何に個々の能力が高かろうとも、所詮魔物は個体の集まり。徒党を組んで弱さを補い、一致団結した部隊には叶わなかった。
とはいえ完勝と呼べる状態でもない。この戦いで多くの戦士が命を散らしている。その中にはトウオウとは無関係の冒険者や傭兵も少なくはない。例え報酬目当ての活動者達だったにせよ、肩を並べて戦った警備隊の生き残りには誰もがその死を悼んでいた。彼等の亡骸は既に一箇所へ集められている。この後、トウオウ市民によって手厚く葬られるのだろう。命を賭して街を救った勇敢なる英雄として。
一方、壮絶な死闘を乗り切った戦士達は、取り合えずの治療を受け、思い思いに時間を過ごしていた。勝利の余韻に浸る者、寝転がって休息する者、自らの傷を誇らしげに眺める者、意気投合した相手と談笑する者、街から支払われるだろう報酬に胸をときめかせる者、様々である。
そんな中、禾槻は港の一角で独り佇んでいた。
彼の姿も中々酷い有様である。羽織や袴はあちこちが破れ、そうでなければ黒と赤の血に汚れる。右袖などは肩口までが千切れて失せ、包帯を巻かれた腕が剥き出しであった。右肩や脚、脇腹にも白い包帯や湿布が見え、顔も血やら煤やらで随分と汚れが目立つ。
回復系の魔術が使える冒険者や、街から駆けつけてきた医者らの協力で、戦闘中に比べれば痛みは幾分もマシであった。それでも完治にはまだ遠い。それだけ激しい戦いであり、負った傷も深いということだ。それに禾槻の場合は、どんな魔術でも癒せない精神の疲弊が大きい。彼が有する発火能力は、思念を燃やし発現させる。その為に自身の精神力を著しく消耗してしまう。今回、手持ちの武器だけでは対処しきれない敵も存在したので、持ち前の異能を揮ったのだが。その弊害が根深く尾を引いている。
その所為で今の禾槻は肉体の辛さより、気疲れというものにまいっていた。頭の中に鉛の塊を押し込まれたような不快感が付き纏い、全身がとにかくだるい。三徹したまま一睡もせず満員電車に押し込められ、10時間以上もすし詰め状態で揺られ続けた後、仕事で上役と取引相手から連続してネチネチと嫌味及び苦情を言われ続けている最中の精神状態といえば、最も近いだろうか。
ようするに限界もいいところである。
本来なら其処が魔物の巣窟だろうと堪えきれずに爆睡してしまうところだが、今の彼は立ったまま視線をある一点に定め動かない。立ったまま意識を失っているわけではなく、明確な意思を持って眼前の光景に魅入っているのだ。
彼の正面には、船着場に停泊している一隻の船があった。剣の如きフォルムを持つ、洗練された白亜の飛翔艦である。これを見上げながら、禾槻は感嘆の吐息を零している。
「うわ~、凄いな。これ魔導艦だよね。見た事のない形式だけど、どの国の艦なのかな? 帝国の軍艦には見えないし、サルディニアにしては紋章の類がない。この街にあるからヤマタイの……商業船だったらもっと装飾が豪華か。シュヴァルトライテの発掘艦が無難なところかな」
艶やかに光る艦の側面を見詰めて、そこに映る自分の顔を覗き込む。
髪はボサボサ、目の下には隈、口の端に切り傷や頬への湿布、疲労困憊という様子だが、表情は活き活きとしている。興味と好奇心、それに憧れが加味された屈託ない少年の顔だ。
「余の艦に用があるのか」
「え?」
突然、背後から声を掛けられ、禾槻は驚いて振り返る。すると自身の背後に、蒼い髪を持つ小柄な少女が立っていた。
可愛らしい顔立ちとした女の子だ。ローブに似た緩やかな着衣をまとい、値踏みするような目で禾槻を見ている。背は低く幼さも目立つので、子供らしい不躾さとも思えるが、それにして不思議な威厳が感じられた。
「この艦を見ておったであろう」
「ああ、うん。凄い艦だと思ってね」
最初こそ意表を突かれたものの、禾槻は普段の穏やかな笑顔を浮かべて少女に語る。戦っていない時の彼はとかく柔らかで、人当たりがいい。少女へ向ける温和な顔は彼本来の優しさの表れだった。
「そうだろう、凄いであろう。うむ、うむ」
禾槻の言葉に少女は嬉しそうな顔を作り、深々と頷いている。非常に満足そうな顔だ。
「とっても綺麗な艦だよね。単に清潔というだけじゃなくて、全体のバランスや構成がとってもいいよ。あちこち旅して色々な魔導艦を見てきたけど、これ以上の一品はなかったなぁ」
輝かしい天の光を浴びて美しく照る艦を、禾槻は夢見心地に見上げる。先ほど外周を一回りしておいたが、見れば見るほど惚れ惚れする仕上がりだと思うばかりであった。
そんな青年の評価を、少女は満面の笑みで聞いている。禾槻へ向ける眼差しはもう値踏みでも訝しみでもなく、親友へ注ぐような温かで気を許した状態である。
「そなたは見る目があるな。気に入ったぞ」
「あはは、ありがとう。そういえば、これってきみの艦なのかい?」
「うむ。高機動魔導飛翔艦アストライア。此の世にたった一隻だけの、余の旗艦である」
少女は大きく胸を張り、堂々と宣言した。とてつもない誇りと自信の満ちる力強い表情で。
その立ち振る舞いや胸に宿す気概はなかなかどうして、子供だからと侮れない強さと清さが感じられた。禾槻は思わず拍手をしたくなってしまう。
「個人の所有艦か。それもきみの物だなんて。つくづく世界は面白いや」
「そなた、冒険者であろう? 先頃の戦いで見たぞ。良い腕を持っておる」
「そんなでもないよ。今なんて、もうクタクタで」
少女の指摘に顔の前で手を振って、禾槻は力なく笑ってみせる。事実、アストライアへの関心と興奮がなければ倒れていても不思議ではない。
「あれだけの激戦をこなしたのだ、疲れるのは当然であろうな。余も少し眠い」
「きみも参加してたの?」
「魔法で皆に加勢したのだ。リリナと一緒に戦っておった。魔物共の専横を許すなど、断じて出来ぬからな」
胸の前で腕を組み、鼻息荒く少女は唸る。未だ方々に横たわる異形の死骸を見ても、噴気を募らせど恐れる様子は微塵もない。
その心の強さと正義感に感心しつつ、禾槻の頬は自然と緩んだ。魔物を許さぬ高潔な精神は素晴らしいが、それを掲げて憤り姿はやはり可愛らしい。
「そなた、冒険者であるならば余と共に来る気はないか」
「どういうこと?」
少女の誘いの意図が掴めず、禾槻は小さく首を傾げた。不思議そうにしている青年を前に、少女は一度咳払いしてから、対面の朱瞳をじっと見詰める。
「余はこの艦アストライアで世界中を旅しようと思っていてな。しかし今のところ乗組員がまったく居らぬのだ。そこで仲間を探しておる。どうだ、共にこの艦へ乗り、雄大なる世界を隅々まで冒険するつもりはないか」
「僕が、この艦に?」
「そうだ。無論、そなたさえ良ければだが」
最後は少し不安そうに、上目遣いに禾槻を見てくる。
そのいじらしさに心をくすぐられたという部分もないではないが、それよりも見惚れていた艦に乗れるという喜びが先に立つ。禾槻は喜びを柔和な微笑みに乗せて、少女へ向かい頷いた。
「勿論いいよ。寧ろ、乗せて下さいってお願いしたいぐらいなんだ。それはもう、是非」
「そうか、良いか。よし、それならば今からそなたと余は仲間同士だ」
コバルトブルーの瞳を夜空の星々並に輝かせ、少女は笑顔を満開にさせた。豊かな喜びは可憐な花を連想させ、愛らしい面立ちに健康的な魅力を付与する。
そうして差し出された少女の手を、禾槻も負けぬほどの優しさと微笑で握り返した。
「余はノイウェル。ノイウェル・フォン・アルハルト。よろしく頼む」
「僕は霧川禾槻。こちらこそ、よろしくね」
四層構造であるアストライアの内部、その最上層にして第一層部へ位置するのは居住区である。
白を基調として構成された廊下には、埃一つ落ちていない。気品と共に清潔感が感じられた。通路を挟み込む左右の壁は遠く、ゆったりとした空間が広がっている。壁際には等間隔に観葉植物が置かれ、天井に据えられた照明の柔らかな光を受けて優しく輝く。
洗練された作りには、存在を誇張するような重さも厚かましさも存在しない。そのどれもがさりげない上品さを湛え、派手さを抑えながらも高級感を漂わせる。由緒あるホテルのVIPルーム然とした雰囲気が、静かな通路には満ちていた。
禾槻が少女という誤解をしていたノイウェルの話によると、アストライアは何千年も砂漠の下で眠っていたらしい。だがとてもそうは思えない。造り立てのような清涼感が艦内全域にあり、埃っぽさなど微塵も感じられないのだ。
禾槻はこれから乗組員の一員として乗艦するにあたり、とある決意を固めた。この清潔さを何時までも保てるよう、日々全力を尽くそうと心に誓う。
何を隠そう、彼は大変な綺麗好きであり、こうした生活空間は輝く様でないと気が済まないのだ。旅の途中、何度も宿屋に泊まってきたが、その度に自分の割り当てられた部屋や廊下、広間や風呂場やお手洗いなど掃除していた過去を持つ。下手をすれば休んでいるより掃除している時間の方が多かったと思える程。
冒険者である以上、自身が汚れるのは仕方ないと割り切っているものの、生活域は清潔たれという断固とした信念を持つ。そうした意思の結実ともいえる覚悟が、彼を艦内の環境改善や清掃活動に努める衛生官就任へと駆り立てたのだった。
とは言え、今はゆっくりと休みたい。
居住区には大量の空き部屋がある。その中の一つを貰い受け、禾槻は自室とした僅かばかりの荷物を運び込んだ。
そこは天井が高く、閉塞感のない、雄大な部屋だった。壁や床や天井は廊下と同じ白で統一されている。室内には空調が効き、とても過ごし易い。一人の身には余るような大きなベッドが一つあり、テーブルや椅子も備え付けられていた。トイレやシャワールームまで完備という至れり尽くせりの仕様である。
これから自分の部屋となるまっさらな空間の中、禾槻は純白のシーツが敷かれたベッドの上に、仰向けで寝転んでいた。見えるのは染み一つない白い天井。それをじっと見詰めながら、彼はまどろむでもなく思考を働かせる。
脳裏で反芻されるのは、今さっき艦内を案内されながら交わした、ノイウェルとの会話である。
「僕はリリナさんに嫌われてるのかな?」
「そのような事はないぞ。見ては分からぬかもしれぬが、そなたの加入をとても喜んでいる。リリナは少々笑うのが苦手なのだ」
「そうなんだ。それなら良かったよ」
「ところで禾槻よ。そなたは何故、冒険者をしているのだ?」
「うーん、冒険が好きだし、世界を見てみたいからかな」
「おお、余と同じだな。そなたとは気が合いそうだぞ」
「うん、そうだね。でも、もう一つ理由があるかな」
「ほぉ。それはなにぞ?」
「会いたい人がいるんだ。もうずっと昔に離れてしまった、大切な人でね」
「そうであったか。人それぞれ事情はあろう。深く詮索はせぬ」
「あはは、そんな重いものじゃないよ。ノイウェル君には、会いたい人っているの?」
「居る。会おうと思えば何時でも会える故、禾槻とは事情も違うが」
「へぇ、もしかして恋人?」
「禾槻よ、そなたは見かけによらず下世話な奴よの。違う、母上だ」
「ああ、ごめん」
「ふん。写真もあるぞ、見てみるか?」
「うん。……この人が、ノイウェル君のお母さん?」
「そうだ。美しい方であろう」
「……そうだね。うん」
「姿が美しいばかりでないぞ。心優しく、温かく、とても公正な方なのだ。余は母上をとても尊敬しておる。しかし」
「怒ると、凄く怖い」
「そうなのだ。普段優しいが、約束を違えるとそれはもう……」
「名前は」
「ん? どうしたのだ」
「名前は、なんていうのかな」
「母上のか?」
「うん」
「ヒカルという。ヒカル・ミストラインが母上の名だ」
天井の一点を見詰めたまま、禾槻は思い出す。ノイウェルに見せてもらった、彼の母親の写真を。
一年程前に取られたというその写真には、蒼い髪を後ろ腰にまで伸ばす、清楚な女性が写っていた。コバルトブルーの瞳にどこか憂い気な光を湛え、それでも優しく微笑む優美な淑女。どう見ても20代後半にしか見えない若々しさを保ち、贅肉の一切ないほっそりとした体つきをする。
ノイウェルは確かに彼女と良く似ている。禾槻が女の子と間違えるのも仕方ない。禾槻も昔は性別をよく間違えられたので、彼の不満は分かる。禾槻自身も、母親に似ていたから。
「ヒカル……輝……霧川輝……」
天井を見たまま、心ここにあらずという調子で禾槻は呟く。
同じ名前を何度も口の中で繰り返し、ゆっくりと瞼を閉じていった。
「……母さん」