興奮
その夜、私はレイプされた。
相手は、会社の同期だった。同じ年に社会という荒野へ放り出され、同じ苦難を越えてきた戦友。私が愚痴を言えば、彼はいつも優しく励ましてくれた。そんな、温かな信頼の器が粉々に砕ける音を、私は聞いた。優しかった彼の声は野卑な獣の喘ぎに変わり、その瞳は私を映してはいなかった。剥き出しの暴力に晒され、声も助けも凍りついたまま、私の中の「私」という輪郭が、ドロドロとした暗闇に溶けて消えていく。
事の後、彼は何事もなかったかのように、湿った音を立ててシャワーを浴びていた。
放心したまま、吸い寄せられるようにキッチンの包丁を握る。指先に伝わる刃の冷徹な硬質さだけが、唯一の現実だった。浴室に踏み込み、無防備な背中を突き刺す。
熱い。
吸い付くような肉を裂く、ねっとりとした手応え。鉄錆の匂いが混じった鮮血が、私の肌に、顔に、しぶきとなって愛撫するように纏わりつく。恐怖も後悔も、ましてや正義感など一滴も湧かなかった。ただ、ただ――。
「あ……っ、ぁ、はぁ…………っっっ!!!」
脳髄を直接指でかき回されるような、凄まじい熱狂。内側から「自分」が弾け飛び、全身の毛穴が歓喜に開く。人が命を落とす瞬間に、これほどまで淫らな悦びが隠されていたなんて。倫理も道徳も、積み上げてきた真面目な人生も、すべてがこの一瞬の「生」の閃光に焼き尽くされる。凌辱されている最中よりも深く、激しく、脊髄をドロリと駆け上がる極彩色の痺れに、私は狂おしく身悶えた。
その時だ。床に崩れ落ちたはずの彼が、死んだ魚のような濁った瞳で私を射抜いた。 彼はシャワーヘッドのホースを私の首に巻きつけ、最期の力を振り絞り、私を自分の方へと引き寄せる。締め上げられる窒息の苦痛の中で、私は見た。彼の目に宿る、憎悪と執着が混ざり合った、歪な、けれど吸い込まれるほどに艶やかな光を。
(ああ、こんな顔、知らなかった……)
初めて、彼を「男」として、獲物として、そして共犯者として、心の底から愛おしく、欲した。ぞくり、と背骨を舌でなぞられるような快楽の極致。そのまま、私の意識は甘美な闇の底へと沈んでいった。
さて。清く正しく積み上げた人生の終幕としては、あまりに滑稽で、あまりに鮮やかな幕切れだったと思う。あの瞬間の、喉の奥まで甘く痺れるような高揚に比べれば、それまでの私の数十年など、味のしない砂を噛むようなものだった。
ただ、一つだけ誤算がある。
今、私はオフィスにいる。
デスクのカレンダーは、あの「最後の日」を示している。 ふと横を向くと、隣のデスクに、まだ何も知らない「私」が座っていた。
かつての私は、不安げな顔でカップを回し、潤んだ唇でコーヒーを一口、啜る。それを見つめる私の口角は、抑えようもなく吊り上がった。
ああ、そうだ。よく覚えている。
このあと定時を過ぎたら、彼女を食事に誘うんだ。
そして、あの最高の夜を、今度は「こちら」から。




