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ただの散歩  作者: 牧亜弓
分岐点
14/20

右に行った人生

唯野散太は、想像の中で右に歩き始める。

現実の自分はまだ交差点に立ったまま、だが、頭の中では一歩目を踏み出していた。


 


右へ――

緩やかな坂道を下っていく。日陰の路地には、かつて馴染みだった店の看板がまだ残っていた。

閉店したはずの文房具屋。空き地になったはずの喫茶店。なぜか全部、昔のままだ。

記憶が保っている“最良のかたち”で、景色は復元されていた。


 


空想の散太は、坂を下りきった先の交差点で、

偶然にも、昔の知人とすれ違う。名前も思い出せないほど昔の恋人。

声をかけようとするが、かけられない。

気づかれてもいないのに、なぜか自分から身を引いてしまう。


 


ふたりは、何も話さないまま、軒下で同じ雨を避ける。

言葉は交わさないが、会話はあった。目も合わないが、何かは伝わっていた。

そんな“錯覚”が心を満たし、それだけで一日が終わってしまいそうになる。


 


喫茶店に入ると、マスターの顔が見える。

客は少ない。窓辺の席に座り、昔と同じブレンドを注文する。

カップの重さ、湯気の香り、スプーンの冷たさ。どれも正確に思い出される。

――実際に何年ぶんの月日が経っていようとも、想像の中では、今日もあの日の午後の延長にすぎない。


 

だが、ふと我に返る。

そこにいるマスターの顔が、だんだんと曖昧になっていく。

彼の口元が動いて、何かを言ったように見えた。


「ここはもう、君の街じゃないよ」


 


言葉の意味を理解する前に、風景が色を失いはじめる。

カップは冷たく、店内の空気は無音になり、窓の外には何も映らなくなる。

すべてが解像度を失い、過去という名の“仮想現実”が終わっていく。


 


現実の交差点に、唯野散太はまだ立っている。

右に行けば、過去に触れられると思った。

だが、想像のなかでさえ、過去は“会えないまま”終わっていく。


 


それでも、彼は歩いていない。

立ったまま、ただ想像の残り香だけをかすかに吸い込んでいた。

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