右に行った人生
唯野散太は、想像の中で右に歩き始める。
現実の自分はまだ交差点に立ったまま、だが、頭の中では一歩目を踏み出していた。
右へ――
緩やかな坂道を下っていく。日陰の路地には、かつて馴染みだった店の看板がまだ残っていた。
閉店したはずの文房具屋。空き地になったはずの喫茶店。なぜか全部、昔のままだ。
記憶が保っている“最良のかたち”で、景色は復元されていた。
空想の散太は、坂を下りきった先の交差点で、
偶然にも、昔の知人とすれ違う。名前も思い出せないほど昔の恋人。
声をかけようとするが、かけられない。
気づかれてもいないのに、なぜか自分から身を引いてしまう。
ふたりは、何も話さないまま、軒下で同じ雨を避ける。
言葉は交わさないが、会話はあった。目も合わないが、何かは伝わっていた。
そんな“錯覚”が心を満たし、それだけで一日が終わってしまいそうになる。
喫茶店に入ると、マスターの顔が見える。
客は少ない。窓辺の席に座り、昔と同じブレンドを注文する。
カップの重さ、湯気の香り、スプーンの冷たさ。どれも正確に思い出される。
――実際に何年ぶんの月日が経っていようとも、想像の中では、今日もあの日の午後の延長にすぎない。
だが、ふと我に返る。
そこにいるマスターの顔が、だんだんと曖昧になっていく。
彼の口元が動いて、何かを言ったように見えた。
「ここはもう、君の街じゃないよ」
言葉の意味を理解する前に、風景が色を失いはじめる。
カップは冷たく、店内の空気は無音になり、窓の外には何も映らなくなる。
すべてが解像度を失い、過去という名の“仮想現実”が終わっていく。
現実の交差点に、唯野散太はまだ立っている。
右に行けば、過去に触れられると思った。
だが、想像のなかでさえ、過去は“会えないまま”終わっていく。
それでも、彼は歩いていない。
立ったまま、ただ想像の残り香だけをかすかに吸い込んでいた。