8.誰の隣にいたいか、なんて
週の半ば、水曜日の夕方。蓮が帰宅すると、芽衣だけがリビングにいた。テレビはついているが、芽衣はぼんやりと画面を眺めているだけで、反応が薄い。
「……ただいま」
玄関から声をかけると、芽衣は小さく「おかえり」とだけ返した。普段なら「今日もお疲れさま〜」と明るく迎えてくれるはずの彼女が、やけに静かだった。
「紗耶は?」
「友達と寄り道してくるって。……たぶん柚月ちゃん」
蓮は頷くと、少し悩んだあとキッチンへ向かう。冷蔵庫を開けながらちらりと芽衣の様子をうかがうと、ソファで膝を抱えて丸くなっていた。いつもより背中が小さく見える。
「……なあ、晩飯、食うよな」
振り向かずに言うと、芽衣は少し間を置いて「うん」とだけ答えた。
手早く夕食の支度を始める。芽衣は手伝いに来る様子もなく、ただ静かにテレビの前に座っている。キッチンとリビングの間に、妙な緊張が漂っていた。
「――できたぞ。箸と皿、運ぶの手伝って」
「……うん」
ぎこちなく並んで食卓につく。カレーとサラダ、そして冷蔵庫に残っていたプリン。
「これ、前にも作ってたよね。……美味しかった」
芽衣がぽつりと呟くように言った。
「そうだっけ。じゃあ、同じ味にできてるといいけど」
「……うん、美味しいよ」
会話はそれだけ。でも、さっきまでの沈黙よりは、ずっといい。
食後、蓮はソファに座ってスマホをいじっていた。芽衣はその隣にすっと腰を下ろす。
「……べつにさ、気まずくなんかないんだからね」
芽衣がぽつりと、けれどどこか拗ねたような口調で言った。
「そっか。なら、よかった」
「……ちょっとだけ、なんか、変な感じなだけ」
「変って、どんな?」
「んー……あたしだけ、取り残されてる感じ」
芽衣がぽつんと呟く。その瞳が真っ直ぐこちらを見ていた。
「紗耶ねえと、お兄ちゃんって、なんか話しやすそうでさ。私、なんかうまく間に入れないっていうか……」
蓮は少しだけ考えて、それから言った。
「芽衣のこと、取り残したりしないよ。……別に、無理して入ってくる必要もないけどさ」
芽衣の目が、少しだけ見開かれた。
「ほんと?」
「ほんと」
芽衣は唇を噛んで、それから小さく笑った。
「……蓮くん、わりとズルいとこあるね」
「俺が?」
「うん。でも、そういうの、嫌いじゃない」
ちょうどそのとき、玄関の扉が開く音がした。
「ただいま〜!」
紗耶の明るい声が響く。リビングをのぞいた彼女は、蓮と芽衣がソファに並んでいる姿を見て、ふと足を止めた。
「……ふぅん」
そう一言だけ呟いて、にっこりと微笑んだ。
「ごはん、ある?」
「カレー、まだあるよ」
「わーい、やったー!」
何気ないやりとり。だけどその空気には、少しだけ新しい何かが混じっていた。
その夜、三人でのんびりとした時間が流れていた。テレビでは特番が流れ、紗耶がカレーを食べながら、芽衣とどうでもいい話をしている。蓮は台所で片付けをしつつ、時折その様子を耳に入れていた。
「……でね、柚月がさ、蓮くんのこと“落ち着きすぎてて逆にこわい”って言ってた」
「ひどくない?」と紗耶が笑い、芽衣も「でもちょっとわかるかも」と続けた。
蓮は苦笑いしながら、洗った皿を伏せていく。
「そんなに俺、こわいか?」
「うーん……なんか、達観してるっていうかさ。高校生っぽくない?」
そう言った紗耶の口元には、どこか探るような色が混じっていた。蓮は視線を返さず、蛇口の音で返事をごまかす。
「……そういうとこ、ね?」と芽衣が小さく呟いた。
ふと、テレビの音が静かになる。バラエティがCMに入り、部屋の空気も少しだけ落ち着いた。
「芽衣、今日さ……蓮くんと二人だったでしょ?」
「うん」
「……どうだった?」
紗耶の質問は、柔らかいトーンだった。でも、その裏にほんのりとした興味と、微かな牽制が含まれているようにも聞こえた。
「べつに、普通だったよ」
芽衣は視線をそらしてそう答えた。だがその「普通」の中には、今日蓮と交わした言葉のひとつひとつが、まだ心の中に残っているようだった。
「ふーん……まあ、仲良くするのはいいけどさ」
紗耶はカレー皿を持って立ち上がり、蓮の横へ向かう。芽衣の表情が一瞬だけ曇った。
「皿、洗うの手伝うよ」
「もう終わるよ」
「いいの。……わたしも、今日の分、なんかしときたい気分」
紗耶の言葉には、ふとした意味がこもっているように感じた。自分がいない間に少し変わってしまった距離感――それを、自分の手で戻したいというような。
食器を並べながら、紗耶がぽつりと言った。
「……一緒に住むって、けっこう難しいね」
「そうか?」
「最初は“ただの他人”だったのに、家族って名前がついて……で、急に距離感変わるでしょ?」
蓮は一瞬だけ手を止め、紗耶の横顔を見る。どこか寂しげで、でも強がっているような表情。
「……でも、そういうの、悪くない」
蓮の言葉に、紗耶は小さく笑った。
「そっか。……じゃあ、もうちょっとくらい、素直になってもいいのかもね」
そのとき、芽衣がリビングのソファから立ち上がり、背後から声をかけた。
「――お姉ちゃんばっか、ずるいよ」
その声には、どこか拗ねたような響きがあった。振り返った二人に、芽衣は少しだけ頬をふくらませてみせた。
「今度は、私の番ね。お兄ちゃんと料理、次は一緒にやるから」
芽衣の言葉に、紗耶は一瞬驚いた顔をして、それからふっと肩の力を抜いて笑った。
「そっか。じゃあ、負けないようにしなきゃ」
三人の関係は、少しずつ、でも確実に変化していた。まだ“家族”と呼ぶには不器用で、少しぎこちない――だけど、その距離感が、なんだか心地よくなり始めていた。