6.夜の本音と、小さなルール
芽衣が「おやすみ〜」と眠そうな声で2階に上がっていったあと、リビングには微妙な沈黙が残った。テレビは消され、食器も片付いていて、キッチンの明かりだけが部屋を照らしている。
紗耶はソファに座っていた。白いルームウェアに髪は後ろでひとつにまとめている。いつもの無表情に見えるけど、どこか視線が落ち着かない。
蓮はコップに水を注ぎながら、ちらりと彼女を見やった。
「……で、話って?」
そう声をかけると、紗耶は少しだけ息を吸って、こくりと頷いた。
「その……ちょっと前から、ここに住むようになって……今日、学校でいろいろ言われた」
「うん」
「“気を遣ってるらしい”とか、“同じクラスで大丈夫?”とか……。ちょっと、疲れた」
「……それは、悪い」
「別に蓮くんが悪いわけじゃない。でも、わたし……気を遣われるの、あんまり好きじゃないから」
紗耶は、そう言って小さく笑った。その笑顔は、教室では見せない種類のものだった。
「蓮くんが、気を遣ってるのはわかる。でも、わざわざ避けたり遠慮されたりする方が、なんか距離を感じる」
「俺としては……気を遣わなきゃ、って思ってた。血が繋がってるわけでもないし、急に一緒に暮らすことになったし。どう接していいかわからないのが正直なところ」
静かに吐き出したその言葉に、紗耶が頷いた。
「うん、それもわかる。でもさ、だったら……ちゃんと、ルール作らない?」
「ルール?」
「うん。お互いに、家の中ではこれだけは守るっていう、簡単なやつ」
蓮は少し考えたあと、苦笑を漏らした。
「そうだな……“無理に家族っぽくしようとしない”とか?」
「それ、いい。あと、“遠慮しすぎない”。」
「“困ったら素直に言う”とか?」
「それも追加」
ルール、といっても、会話はどこか柔らかくて、笑いを含んでいた。緊張が少しずつほどけていくのを、蓮自身も感じていた。
「……わたしさ」
急に、紗耶が声を落とした。
「最初は、“義兄”なんて、どうせよそよそしいって思ってた。でも、今日一日過ごしてみて、ちょっとだけ考えが変わった」
「へえ。どんなふうに?」
「……思ってたより、悪くないなって。芽衣も楽しそうだし、蓮くんも……嫌な人じゃないし」
「嫌な人、っていう基準、意外とハードル高そうだな」
「かもね」
二人とも、どこか気恥ずかしくなって、同時にふっと笑った。
しばらく沈黙があったが、それはもう気まずさではなく、心地いい余白だった。
「じゃあ、そのルール、紙にでも書いとくか」
「いらないよ。忘れそうになったら、また話せばいい」
「そうだな」
紗耶が立ち上がると、ほんの少しだけ蓮の肩に手を置いてから、「おやすみ」と短く言って、自分の部屋に戻っていった。
その軽い接触が、やけに強く意識に残った。
蓮もゆっくりと自室へ戻る。ベッドに倒れ込み、天井を見上げながら、ふと呟く。
「“ルールか……”。あいつなりに、ちゃんと向き合おうとしてるんだな」
冷静に見えるけど、意外と繊細で、頑固で、でも誠実だ。そう思えば思うほど、紗耶という存在がただの「義妹」には収まらなくなっていく気がした。
一方その頃。
紗耶もまた、自室の机に肘をつきながら、鏡越しに自分の表情を眺めていた。
「義兄、か……」
ぽつりと、誰にも聞こえない声で呟く。
「たった数日で、こんなに気になるなんて……ちょっと、変だよね」
でも、変だとわかっていても、この気持ちを完全に無視することは、もうできなかった。
翌朝、蓮がキッチンでパンを焼いていると、階段から軽い足音が聞こえてきた。振り返ると、紗耶がゆるく結んだ髪のまま、まだ眠そうな目で現れる。
「……おはよう」
その一言が、どこか柔らかかった。
蓮も自然と微笑みながら返す。
「おはよう。トーストでいいよな?」
「うん。……ありがとう」
会話の数こそ少ない。でも、言葉の端々にぎこちなさが減っていた。無理に“家族っぽく”装うのでも、過剰に距離を置くのでもない。昨夜ふたりで決めた、小さなルールが、自然な呼吸を作っていた。
トースターの「チン」という音が静かに鳴り、蓮が皿にパンを並べる。紗耶はその横で、テーブルにマグカップを並べた。
ふと視線がぶつかる。
わずかに照れたような、でも逃げない笑顔を、蓮は紗耶の表情に見つけた。
「……今日も学校、行くか」
「うん、行こ」
そんなふうに始まる朝は、どこか昨日よりも、温度があった。