44.後輩か義妹か
昼休み。秋の気配がゆっくりと濃くなってきた校庭の隅、蓮はベンチに腰を下ろして、缶コーヒーを片手にぼんやりと空を見上げていた。
夏とは違う、少し澄んだ空気。風は肌寒くなりつつあって、でもそれがなんとなく心地よかった。
「……蓮先輩?」
声をかけられて振り返ると、そこにいたのは水原だった。
制服のカーディガンを前で合わせて、小さく立っている。秋服になったその姿は、どこか柔らかい雰囲気をまとっていた。
「ここ、空いてますか?」
「あ、うん。どうぞ」
蓮が横にずれると、水原は「ありがとうございます」と言ってそっと腰を下ろした。手に持った紙パックの紅茶が、彼女の控えめな存在感と妙に似合っていた。
「……風、冷たくなってきましたね」
「うん。もう十月だし、そろそろ衣替え本番って感じ」
「……そうですね。朝、悩みました。ブレザー着るか、カーディガンにするか」
水原は自分の袖を少しつまんで、照れくさそうに笑った。
「俺も。結局シャツ一枚だけど……ちょっと寒いかも」
「……先輩って、寒がりですよね。体育のときも、夏でも長袖着てたりして」
「……よく見てるな」
ぽろっと出た言葉に、水原が一瞬びくっとして、「す、すみません……」と俯いた。
「あ、ごめん。悪い意味じゃなくて。ちょっとびっくりしただけ」
「……あ、はい」
そのあとは、しばらく沈黙が落ちた。
でも、不思議と居心地は悪くなかった。風が吹き抜ける音と、校庭から聞こえる体育の掛け声が、遠くで響いている。
「……私、読書好きなんです。秋になると、なんだか本を読みたくなって」
唐突な話題だったけど、水原の声は穏やかで、自然と耳に入ってきた。
「最近は……太宰とか、川端とか、ちょっと昔の日本文学を読んでて」
「渋いな。でも、なんかわかる。秋ってそういう気分になる」
「蓮先輩は……本、読みますか?」
「気が向いたときだけ。ミステリーとか、ライトノベルとか」
俺がそう言うと、水原は少しだけ笑った。
「……なんか、意外です」
「よく言われる。見た目で判断してるだろ」
「してないですよ。でも……読んでる姿、なんとなく想像できました」
彼女は、風に揺れる前髪を押さえながら、ふっと目を細めた。
「放課後、図書室で一人で本を読んでる……そんな先輩、なんか似合うなって」
「……それ、褒めてる?」
「もちろん、です」
水原の言葉は、どれも淡々としているのに、なぜか胸の奥に残る。
しばらくして、彼女は紙パックの紅茶をくるくると両手で回しながら、ぽつりと呟いた。
「……私、あまり話すの得意じゃなくて。クラスでは静かだし、浮いてるって思われてるかもって、不安になることもあります」
「そんなふうには見えないけどな」
俺の言葉に、水原はきょとんとした顔でこちらを見た。
「なんか……話すとき、ちゃんと考えてる感じがする。言葉を大事にしてるっていうか」
「……先輩って、優しいんですね」
「そうかな?」
「そうです」
静かな断言だった。その口調に、思わず目をそらしてしまう。
しばらくの沈黙のあと、水原がそっと言った。
「……あの、蓮先輩って、好きな人とか……いますか?」
また、その質問か。前も似たようなことを言われた記憶がある。でも、今日の彼女の顔はどこか真剣だった。
「……いないよ、今は」
蓮が答えると、水原はほんの少し、ほっとしたような顔をした。
「じゃあ……その、一緒に、どこか誘ったりしても……いいですか?」
思わず、彼女の横顔を見た。秋の光が差し込んで、その頬がほんのり赤く染まっているのがわかる。
「……うん。俺でよければ」
「よかった。……じゃあ、また連絡しますね」
そう言って立ち上がった水原は、ベンチに軽く頭を下げてから、カーディガンの袖を揺らしながら去っていった。
──風が冷たくなってきた。
でも、それを少しだけ暖かく感じるのは、水原と話したせいだろうか。
放課後、昇降口に向かうと、芽衣が先に靴を履いていた。
「あ、お兄ちゃん。おつかれ」
「おう、今日も元気そうだな」
「そうかな。明日体育の時間、リレーの選抜あるんだって。めんどい〜」
「やる気なさすぎだろ、お前」
「でもさ、文化祭終わってちょっと気が抜けたっていうか……あ、紗耶ねえと一緒に帰る?」
「ああ。まだ来なさそうだし、疲れてるなら先帰った方がいい」
「ふーん……。じゃあ、私先行くね」
芽衣は手をひらひら振って、駆けるように下校していった。
小柄な背中が夕日に照らされ、遠ざかっていくのをしばらく目で追っていた。
「……蓮くん」
ふいに、後ろから声をかけられた。振り返ると、カーディガンを羽織った紗耶が立っていた。
「お昼、水原さんと……また話してた?」
「まあ、そんなとこ」
「ふーん……。最近、よく名前聞くなって思って」
紗耶の目はどこか探るようだったけど、俺は特に否定も肯定もせず、ただ軽く笑ってごまかした。
「でも、ちょっと安心したかも」
「なにがだよ」
「蓮くんが……誰かに心を開いてるのを見るの、少しだけ嬉しかったから」
それだけ言って、紗耶は微笑んだ。
俺は、何か言い返そうとして言葉を失い、そのまま紗耶と並んで歩き出した。
夕方の風がカラリとした空気を連れてくる。金木犀の香りがどこからか漂っていた。
──きっと、何かが少しずつ変わり始めている。
それが、良いことかどうかはまだわからないけど。
それでも、季節のように人の気持ちも流れていくのかもしれない──そんなことを、ふと思った。




