41.義妹の家出
昼休み、芽衣は体育館裏で、少し戸惑いながら立ち尽くしていた。
目の前には、同じクラスの男子──矢野が、緊張した面持ちで立っていた。
黒髪を無造作に流し、真面目そうな雰囲気の、でもクラスではよくしゃべるタイプの男子。
「……えっと、その……ずっと前から、芽衣のことが、好きでした」
まっすぐに見つめられて、芽衣の胸がざわついた。
それはときめきではなく、戸惑いと、困惑だった。
(あ……こういうとき、どうすればいいんだろ)
芽衣は人付き合いは苦手ではない。女子とも男子とも、最低限は話す。けれど、自分のことをそんな風に見ていた人がいたなんて、思いもしなかった。
「……ごめんなさい。ちょっと、返事は待ってもらってもいい?」
矢野の表情が少しだけ曇ったが、すぐにうなずいてみせた。
「うん。ごめん、急に。じゃ、また……」
そう言って矢野はその場を去っていった。残された芽衣は、自分でもどうしていいかわからないまま、校舎の外をぼんやりと見つめた。
(私、どうするつもりなの……?)
芽衣の胸にあるのは、蓮への気持ち。
それは“義兄”に向けるには間違っていると、何度も言い聞かせてきた想いだった。
(どうせ選ばれないし、好きになっても意味ない……。でも……)
蓮がもし、自分を異性として見ることがなかったら。
蓮にとって自分が、義理の妹でしかなかったら。
その現実から逃れるために、他の誰かに寄りかかろうとするのは、卑怯なんじゃないか。
そんな思いが芽衣を縛って、苦しめていた。
夜──。
夕食の時、芽衣は口数が少なかった。
いつもなら蓮や紗耶との他愛もない会話に加わるのに、その日は箸の動きも鈍く、スマホも開こうとしなかった。
「芽衣? 体調でも悪い?」
紗耶が声をかけると、芽衣は小さく首を振った。
「……ううん、ちょっと眠いだけ」
言い訳みたいな言葉を残し、芽衣は早々に食事を終えて、自室に引き上げた。
その夜、静まり返った家の中で──
芽衣の部屋の窓が、そっと開かれた音を誰も聞いていなかった。
夜十一時を回った頃、リビングには蓮と紗耶、そして静まり返った家の空気だけが残っていた。
「……芽衣、まだお風呂にも入ってないよね?」
ソファでスマホを見ていた紗耶がふと顔を上げて、蓮に言った。
「うん。ていうか、部屋から出てきてすらない」
「ちょっと様子見てくる」
紗耶が立ち上がって二階の芽衣の部屋に向かったが、ノックをしても返事がなかった。ドアを開けても、中はもぬけの殻。ベッドも布団もきれいなままだった。
「……蓮くん! 芽衣、いない!」
あわてて階下に戻った紗耶の顔は青ざめていた。蓮もすぐに立ち上がる。
「え? うそ、外? どこに行ったんだよ……」
「まさか……」
二人は顔を見合わせ、急いで玄関へ向かった。
玄関の靴箱を見れば、芽衣のスニーカーが一足消えていた。
どこかに出かけたのは確実だった。
時間はもう深夜に近い。外灯の下に虫の音が響いている。
「俺、自転車で駅前の方を見てくる。紗耶は近くの公園のあたりお願い!」
「うん……気をつけて!」
蓮は玄関のドアを開けて飛び出した。胸の中がざわついていた。
(まさか、家出? いや、芽衣がそんなことするようには……)
けれど、今日の夜の芽衣の様子は確かにおかしかった。元気がなかったし、どこか塞いだような顔をしていた。
(もしかして……告白されたって言ってたやつ、関係あるのか?)
風を切って、自転車のペダルを思い切り踏み込む。通い慣れた街のはずなのに、どこかが違って見える夜の景色。普段なら聞こえない心臓の鼓動が耳の奥で響いていた。
駅前、コンビニ、ファストフードの店……灯りのある場所を片っ端からのぞいても、芽衣の姿はなかった。
そんなとき──
小さな公園のベンチに、一人座っている人影が目に入った。
街灯に照らされたその背中は、どこか小さくて、寂しげだった。
「……芽衣?」
蓮が自転車を止めて、そっと呼びかけると、その背中がピクリと動いた。
「……お兄、ちゃん……」
芽衣の声はかすれていた。蓮が近づくと、彼女の頬には涙の跡が残っていた。スマホを握りしめたまま、ひとりで座っていたらしい。
「なにしてんだよ、こんな時間に……」
そう言いながらも、蓮の声はやわらかかった。怒るよりも、ただ心配だった。
芽衣は顔を伏せたまま、小さな声で言った。
「……なんか、ぐちゃぐちゃになっちゃって……頭の中も、気持ちも……」
蓮は隣に腰を下ろし、黙って耳を傾けた。芽衣は、ぽつぽつと語り出す。
矢野からの告白。好きではなかったのに、断りきれなかったこと。
「どうせ、蓮には選ばれない」と思ってしまう、自分の弱さ。
他の誰かと一緒になれば、蓮を好きな気持ちをあきらめられるかもしれない……そんな逃げの気持ち。
「でも、そんなの、ずるいよね……矢野くんにも、蓮くんにも……自分にも、全部……」
芽衣の声が震えた。
蓮は黙って、そっと芽衣の頭をなでた。芽衣がビクリと震える。
「……ずるくなんてないよ。俺も、ちゃんと全部わかってるわけじゃない。だけど、今日みたいに黙って出ていかれる方が、俺は……怖い」
蓮の声が、やさしくも真剣だった。芽衣はようやく顔を上げて、蓮と目を合わせる。
「……ごめんなさい」
小さくつぶやくと、芽衣はそっと蓮の胸に顔を埋めた。
そのまましばらく、二人は静かな夜風に吹かれていた。
──やがて、少し遅れて駆けつけてきた紗耶の姿が、遠くに見えた。
「……よかった……!」
息を切らして、心底ホッとしたように紗耶は二人に駆け寄ってきた。
「もう……心配したんだから。ほんと、バカ……!」
そう言って芽衣の頭を軽く叩く紗耶の目にも、うっすら涙が浮かんでいた。
「……ごめんなさい」
芽衣はまた小さく言って、そして、ようやく笑った。少しだけ泣き笑いの、でもちゃんと前を向いた笑顔だった。




