25.家族旅行編③
三日目の朝。旅館の部屋に差し込む光が、少しだけまぶしく感じられた。
蓮は身を起こすと静かに部屋を出て、ロビーに降りると、紗耶が一人で本を読んでいた。
浴衣姿のまま、髪を後ろで一つに束ねて、どこか旅館の娘のように見える。
「おはよう。早かったんだな」
「うん。……なんか、もう終わっちゃうんだなって思ったら、もったいなくて」
「わかるかも、それ」
二人で他愛もない会話を交わしていると、芽衣が寝ぼけ眼で階段を降りてきた。
「おはよ〜……お兄ちゃんと紗耶ねえ、いちゃいちゃしすぎ」
「言いがかりにも程がある」
「うるさーい。朝ごはん食べたい」
三人で食事処に入ると、すでに父と母が席についていた。
あたたかい白米と味噌汁、焼き魚に湯豆腐。最後の朝食は静かで、でもどこか名残惜しさがあった。
チェックアウトの時間が近づき、旅館の玄関で最後に家族写真を撮った。
父がセルフタイマーで撮った写真は、みんな少しぎこちない笑顔だったけれど、それでも“家族”の思い出だった。
昼すぎに帰宅。荷物を片付けたあと、自然とそれぞれが自室に引き上げていった。
蓮も自分の部屋に戻り、旅行カバンの中から洗濯物を取り出す。
「……あっという間だったな」
ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。
少し前まで、“義兄妹と旅行”なんて想像もしていなかった。
不思議と、心に静かな余韻が残っていた。
数時間後、居間に行くと芽衣がクッションを抱えてテレビを見ていた。
顔を見た瞬間、「あっ、お兄ちゃん」と笑って手を振る。
「……何その反応」
「いや〜、なんか、久々に会った気がして」
「旅行、さっきまで一緒だっただろ」
「でも家だとなんか違うじゃん!」
隣に座ると、芽衣はさりげなく蓮の方にもたれかかってきた。
女子特有の柔らかい体つきの感触が肩に伝わってくる。
「旅行、楽しかったね」
「……ああ。俺も、楽しかったよ」
その言葉に芽衣がちょっとだけ照れた顔をしたのを、蓮は見逃さなかった。
翌日、蓮は中学時代の友達と遊ぶために電車に乗った。
ふと電車の車内を見渡すと、向かい側の席に三好が座っていた。
彼女も、気づいて小さく会釈をする。
「おはようございます……」
「おはよう。奇遇だな、同じ電車」
「……はい。私、今日も夏期講習取ってて」
「頑張ってるな。俺は今から遊びだよ」
三好がふふっと小さく笑ったあと、しばらく沈黙が流れる。
でも、気まずくはなかった。
やがて、三好が口を開いた。
「あの……今度、よかったら、その……」
言いかけて、口を閉じる。
「……やっぱり、また今度にします」
「うん、また今度な」
その返事に、三好はほんの少しだけ、うれしそうに笑った。
夜、蓮が自宅に戻ると、ちょうど芽衣と紗耶が夕食の準備をしていた。
父と母はまだ帰っていないらしく、テーブルには3人分の食器が並ぶ。
「おかえりー。ハンバーグだよ、お兄ちゃんの好きなやつ」
「いい匂いするな」
エプロン姿の美少女二人が台所で軽口を交わす光景が、すっかり“日常”になりつつあることに、蓮は気づいた。
食卓を囲みながら、芽衣がぽつりとつぶやく。
「またどっか、行きたいね」
「うん。今度は……もう少し遠くまで」
紗耶の言葉に、蓮も静かにうなずく。
「そうだな」
旅館での数日は終わった。
けれど、“家族としての物語”は、まだこれからだ。
食事を終えたあと、三人で手分けして皿を洗い、テーブルを拭いて、キッチンの電気を落とす。
その一連の流れすらも、どこか慣れてきている自分たちに、蓮は少し驚く。
「ごちそうさまでした」
「うん、お兄ちゃんがちゃんと食べてくれると作りがいある~」
「でも芽衣、キャベツはほとんど私が切ったよね?」
「えっ、それ言う!? わたしだってハンバーグにケチャップのハート描いたじゃん!」
「それは料理なのか……?」
思わず笑ってしまった蓮に、紗耶がそっと目を向ける。
「……笑ってるの、珍しい」
「そうか?」
「うん。でも、なんか……悪くないかもね」
ほんの少し、視線が交差する。
そのわずかな沈黙に、何かを伝え合ったような気がして、蓮は目をそらした。
夜、部屋に戻った蓮は、久しぶりに勉強机に向かって問題集を開いた。
夏休みの課題、残っているプリント、そして――三好にもらった例の問題集。
パラリと開くと、ふと目に入ったページの余白に、小さな字で「がんばれ」と書かれていた。
「……丁寧語のくせに、こういうとこはストレートなんだよな」
自然と笑みがこぼれる。
その笑みを引き締めながら、蓮は鉛筆を取り、問題を解き始めた。
夏休みは、まだ少し続く。
旅行で深まった家族との距離。
そして、少しずつ動き始める新しい関係。
静かな夜の家の中、蓮のペンの音が、かすかに響いていた。