2035年の東京大空襲
皇帝が戦争が始まりを告げたのは昨日のことだった。
「戦争が始まりました。日本は「敵国」に勝ちます」と。ただそれだけをシンプルに。
昨日の六月十二日はまだテレビが見られたから皇帝陛下からの日本国民へのメッセージをテレビで見ることが出来たのだ。最初は「敵国」軍はロシアの協力をも得て北方領土から侵攻したため日本軍は「敵国」軍と戦いをしていた。この戦いは後の歴史学者によって釧路の戦いと呼ばれることになる。釧路の戦い時点ではほぼ互角の戦いをしていた。
次の日に「敵国」が空襲したのは東京都だった。第二次世界大戦時の東京大空襲のように、いや、もしかしたらそれより被害が多かったのかもしれない。日本の首都機能がある国会や最高裁判所など「敵国」は空襲をした。さすがに核兵器は使わなかったが。それにより国会議員の七割が戦死した。その国会議員の中には政権与党で国民党の内閣総理大臣の池田洋一総理も死んだし、野党の聖なる日本政治の党首の高橋瑞希党首も死んだし、皇帝陛下の娘も空襲により死んだ。あまりにも戦死者が多かったから東京のあらゆるところに戦死者がいた。一番被害が少なかった台東区でも区民の六人に一人が戦死した。一番被害が大きかった国会がある永田町の千代田区では十人中八人が死んだくらいだったから戦死しなかった人の方が少なかった方だ。当然日本新聞のような大手新聞社や竹放送のようなテレビ局も被災した。だから東京大空襲(ウィキペディアの記事は第二次世界大戦における東京大空襲と区別するために2035年と書いてある)の被害が知れ渡られるようになるまでは時間がかかった。僕は大学は大阪大学に進学したから東京都にいる両親が気になった。死んでいてもおかしくないだろうと絶望していた。当時スマホは「敵国」による空襲とパニックになった日本国民が電話をかけまくったせいでつながらなくなっていたから両親のスマホの電話番号に何度掛けてもつながらなかったからだ。
だから仕方なく僕は非常用の食糧と水を買い日本政府が前もって設置してあった避難シェルターに逃げた。ここ大阪府も大都市だからいずれ空襲をされることになるだとうと。当然避難した大坂市民が殺到した。その日は避難シェルターで一夜を明かした。翌日被災から逃れたマスメディアが「池田総理が戦死したため今日から超法規的措置ですが生き延びた山崎真一副総理が臨時で内閣総理大臣を勤めます」と言っていた。そして「日本国民の皆さんへ日本は戦って勝ちます。亡くなれた池田総理の意思を引き継ぎ日本は「敵国」に勝ちます」と言っていた。そしてその山崎真一総理によると釧路の戦いでは日本軍は「敵国」に今時点で勝ち戦死者を日本軍の軍人で三千名ほど釧路市民で千人ほどの戦死者を出しながらなんとか今時点では優勢だとのこと。
僕は避難シェルターから一度アパートに戻った。急いで避難シェルターに逃げたから銃を持ってくるのを忘れたからだ。まだ僕が住んでいる大阪府は空襲の被害には遭ってはいないけれど、午前十時と言う時間にもかかわらず東京大空襲のような空襲が怖いのか人は誰も歩いていなかった。当然僕も戦死する可能性はあったが銃を持っていないと丸腰だ。アパートに置いてあった銃を堂々と携帯した。仮にて「敵国兵」が来たらこれで射殺するつもりだった。アパートから避難シェルターに逃げた僕はこれで一応安堵出来た。避難シェルターは、前もって日本政府が戦争がいつ始まっても良いのように全国の自治体に必ず最低でも一か所は設けているから、避難シェルターと言う割には上下水道も寝るところもきちんと整っていて人数の割には快適なところだった。
僕はその場にいた役所の職員に「ここ大阪府も空襲に遭う可能性がありますがここの避難シェルターは大丈夫なのでしょうか?」と訊いたら「大丈夫です。あらかじめ核兵器が落とされることを想定して設計しています」と言っていた。僕が避難シェルターに入った部屋の番号はQY2050という番号だった。なぜこんな番号なのかは推測だけれどアルファベット二文字と数字の四文字だと覚えやすいからだろう。僕はその部屋に銃を置いてスマホを見た。プラチナような通信会社もおそらく被災に遭ったのだろうか僕のスマホはあまり映らなかったが今日の午後になってようやくスマホのニュースが表示された「東京大空襲により推定死者は三百万人」と。僕は一応両親のスマホに電話を掛けたが四回ともつながらなかった。その日の午後は役所の職員が非常食を僕の部屋まで運びに来た。パンが三個だった。おそらく生鮮食品はくさりやすいからパンなのだろう。そして今日の午後十時――つまり2035年6月13日午後10時――に僕は「果たして本当に死ぬのだろうか?」と自問自答した。東京都の品川区に住んでいる僕の両親は今時点では生死がわからない。おそらく死んでいるだろうがなぜか不思議なことに絶望感はなかった。
翌日六月十四日に、僕は避難シェルターでテレビを見た。「「敵国」へ報復措置の空襲を日本軍は始めました。「敵国」の首都のリーブルに日本空軍は空襲を行っています。現地にいる竹テレビの記者の川島優子記者と話がつながっています」とリーブルにいる竹テレビの川島優子記者がリーブルから空襲の様子を生中継した。「私は「敵国」政府の正式な許可を得てリーブルにいます。今リーブルでは日本空軍が空襲をしてます。私がいるのは「敵国」の首都のリーブル駅ですが避難した「敵国」国民で溢れています。インタビューをすると姉が日本空軍の空襲により戦死したという話を聞きました。ここリーブルでは今日未明の「敵国」時間午前二時から日本空軍による空襲が始まりました。「敵国」政府による公式発表では世界遺産に登録されてあるリーブル城は空襲の被害に遭いました」と。たしか大勢の「敵国」国民がいた。僕はその場にいた日本の竹テレビの川島優子記者はよくもまあ敵国にいられるなと感じたのだ。
その直後に皇帝陛下がビデオメッセージで日本国民にメッセージを告げた。
「親愛なる日本国民の皆さんへ。余談を許さない戦争の状態が続いています。皆さんの無事を願います」と。
たまたま避難シェルターに避難した大阪市民は「ここ大坂も空襲に遭ったどうするか?」という議論をしていた。僕は避難シェルターの部屋に戻り銃を手にした。仮に両親が死んでいたらこれで敵国兵を殺すかもしれないと。つまり僕は殺人者になるのだろうか? と。
戦争に正義などない。東京都も「敵国」のリーブルも大空襲に遭い大勢の人が死んだのだ。
僕は翌日の六月十四日に日本政府が発表した確認できる戦死者を確認した。品川区では残念ながら僕の両親は死んでいた。カタカナだったが珍しい苗字で親戚しか僕の苗字の人はいないから僕の両親は東京大空襲により戦死した。だから僕は「敵国」への怒りを抑えられなくなった。
だから僕は自発的に従軍を志した。正規の日本軍の軍人ではなくてもそんなの関係はなかった。
「僕は両親を殺した「敵国」兵を殺します」と大声で。あまりの大声だっただから周りにいた人が振り返ったほどで中年くらいのおばちゃんが「殺されるのは怖くないのか?」と訊いたら「怖くない」となぜか不気味なほど即断言できた。
今ちょうど釧路で日本軍と「敵国」軍が戦っているがさすがに大阪府から北海道は遠すぎる。僕は銃を持って急いで東京まで行くことにした。両親の亡骸を見ないと気が済まないのだ。だから僕はJRに乗って東京まで行った。JRの電車内では銃を携帯していた。本来日本では銃を所有する時にはJRのような公共機関に銃を持ち込むのは禁止されているが誰も責めなかった。僕は東京駅までたどり着くと急いで品川区の自宅まで向かった。戦死した人の収容がまだ完全に出来ていてないくてそこら辺に戦死者がいたが僕は関係なく自宅に向かった。東京大空襲はいったん終わったようだった。さすがに池田総理を殺した以上はもう殺すに値する人はいないということなのだろう。僕は自宅で両親が確かにいないのを確認した。確かに両親はいなかった。本当に戦死したのだろう。僕は空襲の被害を受けることを覚悟しながら銃を携帯して港区の「敵国」大使館に向かった。戦争が始まる三か月ほど前に国交断絶しているから駐日「敵国」大使はおそらくいないだろうがそんなのは関係なく僕は大使館に向かった。大使館に行くと涙を流した人や子供が殺されたと大声を上げた人で地獄絵図となっていた。僕は「敵国」大使館について抗議の声を大声で上げた「俺の両親は空襲により戦死したんだ!」と。僕はそれだけを言うと品川区の自宅に戻った。そして六月十四日の夜は自宅で過ごした。「春から大阪大学の学生だね」とうれしそうに母に言われたことを今でも忘れられない。そしてそれが最期の言葉となった。