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物心ついた頃から「お前は変わっている」という言葉を言われて続けて育った。
母親もそう言ったし、父親、兄弟、親戚、隣近所と、私と関係するほとんどの人々が私にそう言った。
小学生の四年生くらいになると、私はその言葉に拳で答えるようになっていた。
それは面と向かってかけられる言葉の抑止力にはなったが、私がいない場所ではより私の特異性が喧伝されることともなった。
高校生になると、それを隠すということを覚えた。
私はできるだけ他者と交わらない生き方を選んだ。それがまた周りの多くの者たちから、異分子と見られることにもなっていた。
そんな私でも、妙な縁があって、四十年以上つきあいが続いている友だちがいる。
そいつからあるとき、話があるといって呼び出された。
会うとすぐにそいつは、
「牧村が仕事で大きな失敗をしてしまってね。ひどく落ち込んでいるんだ。だから、会ってやってくれないかな。少しでいいから力づけてやって欲しいんだ。このご時勢だろ、もしかしたらこのまま仕事を失うかもしれない。まだ子供の手もかかるというのにさ。だから頼む」
と言って、頭を下げてきた。
牧村は共通の知人であった。私とはそれほど深いつき合いもなかった。
「俺なんかが声をかけたらかえって嫌な気分にならないかな。心の傷をさらにひろげちゃったりしてさ」
自分に自信がなかった。
こんなつまらない人間に、誰かを力づけるようなことは出来やしないと思っていた。
もっと言えば、会うこと自体が怖かった。
友だちはまっすぐ私の顔に視線を向けていた。
その顔が紅潮していく。怒っていることはすぐにわかった。けれども何を言ったらいいのかわからなかった。
「自分のことを自分でつまらないやつだみたいに言うなよ。そんなつまらないやつを友だちにしなければならないほど俺はダメなやつなのか。俺をバカにするんじゃない。きょうは帰る」
そう吐き捨てると友だちは去っていった。
その夜にその友だちからメールが来た。
電話だけでもいいから頼む。それだけのメールだった。
私は牧村に電話をかけた。しばらくどうでもいい話をして、電話を切ろうとしたときに牧村が言った。
「心配してくれて、ありがとな。俺、もう一回がんばってみるよ。ほんとにありがとう」
この出来事から以後、自分のことをつまらない人間だと、自分で思うことはやめることにした。
こんな私でも誰かの役に立つときがある。異分子だからこそ、より強く届く気持ちや言葉がある。異分子にしかできないこともあるのだと、ようやく私は思えるようになっていた。
私はネガティブな思考に沈んでいた己を恥じた。
自分を蔑むことは、自分に関わるすべての人の価値を、一方的に貶めることでしかない。
そんな権利こそ、私にはない。
窓の外を見た。陽に照らされた緑の揺らめきの中に、ホウジロのような鳥が飛び込んでいって、消えた。
「ありがたい話です」
素直な気持ちが言葉になった。
「そうそう。山瀬さんがお書きになった海の見える丘に行ってみられるのでしたわね」
私の言葉に込めた思いは河西さんの心にも届いたようであった。
会話は、同人誌での作品の話には戻らず、山瀬さんの書かれた海の見える丘の話に移っていった。
「急にどうしても行きたくなりまして」
「そうお聞きして、それでそう言えばパンフレットがあったなと思い出しましたの。捜してみたら出てきました」
「パンフレットですか」
「ええ。これです」
河西さんは古い冊子をテーブルの上に置いた。
「奥付を見て、びっくりしたのですけど、これ、高松さんがお作りになっていました。あの頃、ちょっとしたブームでしたでしょ。海の見える丘を訪ねることが。そちらのほうはよく覚えているのですけど、このパンフレットを高松さんがお作りになったということは記憶に残っておりませんでした。不思議なものですね」
私は手作りのパンフレットを取り上げて開いてみた。見開きの左側に地図があり、右側に写真と文章が載っていた。写真は鮮やかな青い空であった。