⑤「あれがロストワールド…!」
「ロストワールド直行便だと?」
何事にも最悪の状況を想像したものだが、そうなったことは今までに一度もない。そうならないように最善の方法で行動するために必要な思い込みであって、そうなることは望んではいない。しかしこの今、その最悪の状況が身に迫っている。
「そんな…。バカな…」と頭で考えていたことが自然に口から洩れてしまった。
それを聞いて声の主はフフフと笑う。きっと彼にとっては予想通りの反応であったのだろう。私は彼に弄ばれているのだ。私の反応は全て彼の思惑通りなのだろう。いったい彼は何者なんだ。
「そろそろ陽の光を浴びたくなりませんか、ミスター入嶋」
声の主は突然予想外の提案をしてくる。これまでの応答を考え、何か意図を持ってこの提案を口にしたに違いない。あくまでも冷静にその意図を考えなければ。
「ふふふ、単なる気分転換ですよ、ミスター入嶋」
気分転換だと。これを屈辱と言わずして、何を屈辱と言うべきか。相手の一手先を読もうとしても、その相手の一手先を読もうとしていることを相手に読まれてしまう。自分の脳内を勝手に覗かれているような感覚。何をしても敵いそうにない、完全な白旗状態。
入嶋は考えるのをやめにした。そして「ああ、頼む。頭がおかしくなりそうだ」と皮肉を込めて小さく呟いた。「お察しします」と声の主は気の毒そうに言う。
すると鈍い音が鳴り響き、上方から少しずつ光が差し込んでくる。まるで暗幕が取り払われ、光溢れる舞台が見えてくるように、ゆっくりとそして着実に闇が光へと代わる。
なるほど私の周りが真っ暗であったのは薄い暗幕のようなものですべての窓を覆っていたからなのか。
久しぶりに見る強烈な光、暗闇に慣れている私の目には強すぎて思わず目を細める。そして声の主の顔が少しずつ明らかになる。無国籍というべきか、どこで生まれたのかわからない顔つきだ。しかし日本語を流暢に話す。多民族多言語が基本となりつつある世界でもまだまだ日本語が流暢な外国人(ここでは顔つきが日本人でないという意だ)は珍しく思う。
もちろんそういったことも読み取っているその声の主は入嶋を一瞥し、にこやかに笑った。それは挑発であるべきものだが、不快なものでなかった。むしろ愉快だった。
「本当に。船だったんだな」
目前に広がる海原、テレビで見慣れた光景であるはずなのに圧倒される。自分が本当にちっぽけな存在であることを感じる。自然とは偉大で恐ろしい。
そして驚くべき事実にふと気が付く。私は誘拐されていた間ずっと椅子に深く腰掛けていただけなのだ。最初から拘束されてなどいなかったのだ。
「おい、なぜ縛ったりしなかった?」
「そういうものをご所望でございますか」
「いや、そういう性癖の話ではなく。手が自由なら私が逃げる可能性もあるだろ」
「ミスター入嶋、あなたはそういう人間ではないでしょう。現に今までそこでじっとしていたではありませんか」
「確かに…。そうだ」
「そしてあなたはこれから何が起こるのか楽しみにしている。そうでしょう?」
「確かに…」
何かも見透かされて恥ずかしくなる。逃げ出すことが不可能であることは最初からわかっていた。この密室の状況、思考を読み取る謎の男、どんな人間だってここから逃げ出せるはずがない。仮に逃げられたとしても現在地不明の海上だ。GPSなど持っていない。完全な八方塞がりである。
そして私はこれから何が起こるのかと興味を持ち始めていた。最悪の状況なのは既に理解している。しかし人間というものはその最悪の状況でも余裕を持とうとする。恐らくそうしないと精神が持たないからだろう。私は極限状態にあるという訳だ。
だがこの状況以外にも好奇心を煽ったものがある。それは世界から消え去ったとされているロストワールドが実際に存在するのか、そしてそこで何が行われているのか、私が呼ばれた理由は何なのかという単純で純粋な興味と疑問だ。
これら全てを解き明かせば、きっと大きなスクープになるに違いない。カメラマンとしての血が騒ぐ。日本中を、世界中を席巻する闇を暴いてやる。そしてそれを安谷さんに…。
安谷…さん?
そう言えば彼はどこへ?
「おい、安谷さんはどこへ行ったんだ。確か私と一緒にいたはずだ」
「現在ヤスタニは日本にいらっしゃいます」
耳を疑った。日本にいると言うのか?
あのエレベーターで私は安谷さんと一緒に居たはずだ。それなのに私だけが誘拐されたというのか。じりじりと体温が上昇するのを感じながら必死に頭を巡らせる。
私だけを誘拐すれば恐らく安谷さんが警察に通報するに違いない。また、これは考えたくないが、安谷さんが殺害された場合でも私の失踪は彼の死と共に明るみになるはずだ。まずはそこから聞き出す必要があるだろう。
「それはつまり…。安谷さんは普段通り会社にいるということか?」
「左様でございます」
ますます頭が混乱してくる。目の奥がじんじんとした熱を帯び始めた。安谷さんの存命をあっけらかんと話すその清々しさと、何か考えているようで何も考えていないような表情が私を困らせた。まるで安谷さんのようだ。
安谷さん次第でこの誘拐が大々的に報じられ、私の安否に関して政府を巻き込んだ交渉が始まるのではないのか。そうなればこの誘拐グループは圧倒的不利になるに違いない。それなのに声の主は暢気に私に海を見せてくれている。
さっきまで快晴だった空に少しずつ雲が増えてきたように感じる。海の気候は全く読めない。
「ミスター入嶋、あちらがロストワールドでございます」
突然声の主は右手をあげて海の向こうの水平線を指さす。その点にしか見えなかったモノがじわじわと面積を広げていく。日が登るかのように、その全貌を明らかにしていく。
「あれが…?」
それは島というよりは海に浮かぶ要塞に近く、自然なものを一切感じさせない無機物の塊であった。
「あれがロストワールド…!」
(筆者のひとこと)
なぜ安谷さんは無事なのか、それは単なる嘘に過ぎないのか、何か裏があるのか。あらゆる可能性を考察できる展開になったのかなと思います。当然それは読者の皆様にしかわかりませんが。