宿命
「あはは、そんなことないよ」
かすみさんはぼくの方をむいて笑っている。
「本当ですって、かすみさんの顔、めちゃくちゃ赤くなってますよ」
ぼくも笑顔を返す。作り笑いでない、心底の笑顔。
一次会が終わり、多くの人間が二次会会場へ行き、残りが岐路に着いた。一次会会場の店の前で話し込んでいるのは、ぼくとかすみさんだけ。人通りの多いこの通りは立ち止まっているぼくらを避けて進んでいく。間違いなくぼくらは浮いた存在となっていた。
「圭くんだって赤くなってるよ。ほらほら」
かすみさんは自分たちが浮いた存在だと気づいているのだろうか。ぼくらを避けていく人は、あからさまに迷惑そうに顔を歪めている人もいる。
だがぼくは、不謹慎かもしれないけど、それが嬉しかった。その瞬間だけでも、ぼくはかすみさんの恋人に見えるのではないだろうか。ぼくら二人を意識してくれるのが、たとえ赤の他人であろうと、ぼくは心底喜びを感じた。
かすみさんがぼくの額や耳に手を伸ばす。小さなその手の感触は、柔らかくとても愛おしかった。
「そんなことないですよ」
ぼくはやんわりとその手を避ける。かすみさんに触れてもらいたい。そんな気持ちももちろんある。だが、ぼくはかすみさんに気づかれるわけにはいかない。ぼくは良い後輩でいなければいけない。手を伸ばせば届く位置にいるのに、ぼくはその場所に手を伸ばすわけにはいかない。
無邪気に笑うかすみさんはぼくの葛藤に気づいているのだろうか。
「ちょっといいですか」
ぼくらに話しかけてきたのはエプロンをつけた男。無地の味気ないエプロンでメニューを持っていることから客引きだと一目で気づいた。
「どおっすか? 一杯目はサービスしますよ」
いやらしい作り笑顔。その視線がぼくではなくかすみさんに向いている時点で、僕は気がつくべきだったのだ。
かすみさんから笑顔が消えた。かすみさんは信じられないぐらい人見知りなのだ。よく見なければ気づかないほどだが、小刻みに震えている。
「他のものもサービスしますから、少しだけ寄ってってくださいよ」
無理やりに作った笑顔でずかずかと他人の領域に踏み込んでくる。笑っていれば何をしてもいいと勘違いをしている典型だ。ぼくは一歩前に踏み出し、かすみさんを背中に隠した。
「いりません。待ち合わせ中なんで」
一応、作り笑顔をみせ拒絶を示す。作り笑顔はぼくの得意分野。
「じゃあ待ち合わせの人も一緒にどうですか」
そいつの目の色が変わった。けして逃がすまいと舌なめずりでもせんばかりのいやらしい瞳だ。
「じゃあ料理も一品サービスしますよ。ねえどうですか。他にありませんよこんなサービス」
「もうお店も決まってるので」
「キャンセルしてくださいよ。絶対うちの店のほうがお得ですから」
ふと、背中に重みを感じた。かすみさんの震えた手がぼくの服をつかんでいる。震えたその手が、背中越しにかすみさんの恐怖を伝えてくる。かすみさんの恐怖に比例して、ぼくに使命感のようなものが生まれる。それはじわじわとぼくを支配し、ぼくを奮い立たせてくる。
「ねっねっ行きましょうよ」
こともあろうに、そいつはかすみさんの細い腕に手を伸ばした。その時のそいつの瞳、それは獣のように怪しい光を放っているのをぼくは見た。はじめから、こいつの狙いはかすみさんだったのだ。
「行かないっていってるだろ!」
ぼくはそいつの腕を乱雑に叩き落とし、強く睨みつけた。ぼくはある限りの憎しみを瞳に注いだのではないだろうか。目が強く燃えているのではないかと思うぐらい、ぼくの気持ちは熱くなっていた。
「はやく、行けよ」
ぼくはわざとゆっくりと、区切るように言葉を発した。
そいつは目を丸くし、驚きの表情を見せてからすごすごとその場から去っていった。
「えっと、大丈夫ですか」
しばらくしてから、ぼくは振り返りかすみさんに話しかけた。そのときには、かすみさんの表情はゆったりと和やかなものになっていた。
「うん、ありがとね圭くん。やっぱり頼りになるな」
かすみさんが笑ってくれる。かすみさんがぼくを頼りにしてくれる。かすみさんが今も震えているのは気づいていた。表情は戻っているが、かすみさんの恐怖はまだ尾をひいている。それをぼくに気づかせないように、ぼくが気にしないようにいつもの表情で笑ってくれる。
それは喜ぶべきかもしれない。かすみさんがぼくのためを思ってくれているのだから。だけど、そのかすみさんの優しさは、ぼくの心を締め付ける。
「いえいえ、お安い御用ですよ」
ぼくはおどけて笑った。心の痛みを見せないように。決してこの思いを気づかれないように。
かすみさんがぼくに笑いかけてくれる。それだけでいいじゃないか。かすみさんといる時だけ、ぼくは作り笑顔でいないですむ。ぼくの本当の笑顔を知っているのは、かすみさんだけ。それはすばらしいことじゃないか。かすみさんが気づいていなくとも。
「あっ来たみたいだよ」
かすみさんの声が嬉しそうに弾み、大きく手を振る。ぼくはその方向に視線を走らせた。
見るまでもない。そこに誰がいるのか、ぼくはわかっている。かすみさんの顔を見れば、誰が来たのかなんて。
決してぼくにむけられることのない笑顔。その人だけに注がれる笑顔。はじけんばかりの、笑顔……。
そこには三人のかすみさんの友達と、もう一人。
かすみさんは早足でその人に向かう。ぼくに背中を向けて。
ぼくが決して敵うことのない相手。ぼくが尊敬している人の下へ。
二人が一緒にいるところを見ると、ぼくの心は悲鳴を上げる。内からぼくを叩きつける。それでも、ぼくは笑顔を作り二人を祝福する。思いを隠して、手が届かぬ苦しみを隠して。
かすみさんがぼくを呼んでいる。次の会場に移動するのだろう。だが、その隣にもうぼくはいない。その隣にいるのは、ぼくが尊敬してやまないその人。
ぼくは足を踏み出した。
それでいいじゃないか。かすみさんがぼくを見ていなくとも、これからもぼくの心が苦しめられようとも。きっとぼくは耐えられる。かすみさんの一番近くにはいられない。隣にはいられない。
でも、二番目にはなれるんじゃないか。隣にはいられなくとも、正面にいることはできるのではないか。隣の人に話すことはできなくとも、正面の人になら話せることもあるのではないか。きっとそうだろう。
ぼくは、ゆっくりとグループの中に入った。かすみさんはもうぼくを呼んでいない。尊敬するその人だけに笑顔を向けている。
誰よりも、誰よりもかすみさんを支えよう。きっとそれがぼくの宿命だから。
これを読んで何か感じていただければ幸いです。