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王太子殿下は法務官に目を向けてうながしました。法務官はうなずいて次の書類を取り上げました。
「東翼の施設を管理している部署の報告では、二月の最初の日に、東翼の居室、扉、階段、テラスを検査して異常がなかったことを確認しております。三階テラスの手すり及び床には何ら損傷の兆しはなかったとのことです」
「事故の跡を調査した法務官の報告書では、三階のテラスの手すりは床の一部とともに破損し、欠落した石材はほぼ下の庭で回収されました。落下途中でぶつかった二階のテラスの手すりには、こすったような若干の血痕が見られます。庭の噴水の縁石付近はおびただしい出血痕がありました。これはすべてイリスフィール妃のものと思われます」
「お気の毒ですわね。でもお命が助かってようございましたわ」
オイフェーミア姫のおことばです。
ほんとに、よく命があったものです。聞けばきくほど、助からなくても当然の状況のようです。きっとすごく痛かったにちがいありません。記憶がなくてほんとによかったです。
「ひとつ疑問がございます。下の庭で回収された石材にも少なからぬ血痕のあるものが見つかっております。妃殿下の落下なさった場所は先ほども述べましたように、噴水の縁石のところでございまして、落下した石材に飛び散るほど近くではないのです」
男爵夫人のお顔の色が悪いです。たぶん王太子妃さまも、ご気分が悪いことでしょう。事故の詳細など、心優しい女性には耐え切れぬ情景ではないでしょうか。
「ご記憶でしょうが、転落を目撃した近衛騎士ニールセンの証言で、妃殿下は少しのあいだテラスの床につかまって宙吊りでおられたことがわかっております。床の端にははっきりとお手の跡があり、それは血でしるされておりました」
法務官は次の書類を取り上げました。
「これは、妃殿下がテラスから転落なさる時にはすでにかなりのお怪我を負っておいでになったことを示しております。二階テラスの手すりに血痕があったことも含め、お怪我は縁石に打ちつけられた際に負われただけではなかったということです。医務官の報告にもございますが、お怪我は主に頭部に重く、お体にあったお怪我は打撲、擦り傷などで、多くの出血をともなうものではありませんでした」
扉がそっと開かれ、外国の装いの方がレネンシア側の席につきました。オイフェーミア姫はその人を向いて目を鋭くされ、小声で叱責なさったようです。王太子殿下はオイフェーミア姫にお声をかけました。
「かよわきご婦人の耳に入れる話ではないが、そろそろ外交の機微にも触れる事態なので、お許しいただこう」
「イリスフィール妃のお怪我について、主治医のサザランド医師より証言を」
サザランド先生がお立ちになりました。
「イリスフィール妃殿下の頭部は大変重いお怪我でした。今こうしてご臨席あるのも、妃殿下のご運もさることながら、ご自身のお心の強さと努力の結果であられます。わたしは当初より治療に参加し、頭部のお怪我の様子に疑問を抱きました。転落によるお怪我とはとうてい思えない額のお怪我についてです。あたかも、正面から鈍器で殴りつけたような形状だからです」
オイフェーミア姫の女官二人から「ひっ!」という悲鳴が上がりました。
「わたしはこのような傷痕を何度か見ています。それは、騎士同士の試合や戦場で見られ、広幅の両手剣で頭部を打撃した時に受ける傷です」
サザランド先生はわたしの方を向くと、その目に涙をにじませておっしゃいました。
「どうか、その傷をお見せすることをお許しいただけませんか」
あ、びっくり。みなさまの立て板に水のような証言を聞いてぼんやりしていました。わたしのことでしたよね。うーん、傷痕は自分でも見たことがないので、どうでしょうか。殿方には大丈夫でしょうが、女性にはかなり酸鼻なものかも。でも、傷痕が証拠になるなら、お見せするほかありませんね。
わたしがうなずくと、男爵夫人がベールとリボンをとってくれました。縫い目のあるへんな頭では、お目汚しでほんとうに申し訳ありません。
傷痕があらわになると、その場の方々が息をのみました。
サザランド先生はわたしの髪を寄せて、生え際を示しました。
「ほかの縫合痕はおおむね転落の際に頭部を打ったと思われる場所にあります。でもこの額の傷痕はちがいます。このように、左から右へ力が加わっている。右利きの者が正面から打撃するとこのような傷になります。そして、ここにご注意いただきたい。かなり薄くなっておりますが、内出血の跡の色素沈着がありましょう。これは不明瞭ですが、剣の紋章です」
「レネンシア王女の護衛騎士ロドリック殿の剣をこれへ」
「持ち主に無断で騎士の剣に手をふれるな!」
オイフェーミア姫のうしろで騎士が抗議しましたが、誰もが無視したようです。先ほどの近衛騎士さまが剣をお持ちになり、わたしに深くお辞儀をされてから、剣の鯉口を切って握りの十字をわたしの顔の横に並べて掲げました。
「どうかお許しください」
近衛騎士さまは泣きそうな顔でおっしゃいました。あ、わたしなら大丈夫です。どうかそんなに気にしないで。
みなさまの反応から、剣の紋章とわたしの額の跡が似ていると確認できたようです。
「わたくしと護衛がテラスに出た時には、もうイリスフィールさまはお庭に倒れておいでだった、と申しましたわ。わたくしとロドリックの証言は信じていただけないということなのかしら。傷痕と紋章が似ていたとしても、偶然ではありませんか。もし何者かがイリスフィールさまを襲撃したとしても、それがなぜロドリックになりますの?」
深紅の薔薇姫は冷たくおっしゃいました。
「これはヴィーラント王国が我がレネンシアに対して誣告なさると受け取ってよろしくて?」
「オイフェーミア姫、これはあくまで非公式の下問にご列席いただいたにすぎない。一気に外交問題にもって行くご所存か」
オイフェーミア姫はわたしに氷のような一瞥をくださった。こんなにお美しいのに、こんなに激しいご気性とは、人は見かけによりません。わたしのような、ぼんやりのほほんな女とは大違いですね。
「オイフェーミア姫」
ロタール殿下が初めてお声をあげました。姫君もはっとそちらをご覧になります。
「近衛騎士は妻がテラスから宙吊りになっている姿と、テラスの上の人影を、同時に目にしている。庭にいた侍女たちは、人影を見たのは一度だけだと証言した。そして」
ロタール殿下はふっとため息をつきました。
「三階の廊下にいた侍従たちは、悲鳴を聞く前からそこにいて、貴女方がテラスを出て行ってから、他の者たちが駆けつけるまで、廊下にいたのですよ」
「その間貴女方よりほかに誰も見かけなかったそうです」
「それでもまだ、襲撃者は他にいるとおっしゃるか」
ロタール殿下のおことばに、姫君は顔色をお変えになりました。
「貴方は、わたくしを疑っておいでになるの?」
ロタール殿下は悲しそうに首をふっておいでです。そして姫君も悲しそう。
「疑ってはいない。確信を持って、テラスを破壊し妻を叩き落としたのは、貴女の命を受けた騎士ロドリックであると、言っている」
まるで蜂の巣をつついた騒ぎ、というのはこういうことでしょうか。その場の方々が一斉に叫びだしたようです。冷静なのは王太子殿下とロタール殿下、オイフェーミア姫のお三方だけみたい。あ、わたしはただ茫然としてしまっておりました。
いつの間にか、近衛騎士が数人で、レネンシアのロドリック騎士を押えていました。扉は侍従によって閉ざされ、レネンシアの女官方も外にでられません。あとから入ってこられたのは、レネンシアの駐在大使の方だそうです。こちらは堅い表情で腰をかけたままでした。
オイフェーミア姫は青ざめた美しい顔をこわばらせて、まっすぐロタール殿下を見つめておいでになります。まるで悲恋物語を目の前に見る思いでした。
それほど、悲しそうにお見受けしたのです。
その後、わたしはサザランド先生と男爵夫人に付き添われて、自室に戻りました。途中まで、マリエル妃殿下が女官方と送ってくださいました。妃殿下は無言でわたしの手を握ってくださいました。あたたかい優しいお手でした。
部屋に戻ると、おかあさまとスワニーが出迎えてくれました。男爵夫人とおかあさまは元々王太后さま付きの女官として、同僚だった間柄です。二人とも懐かしげに挨拶をかわしました。サザランド先生の診察を受けて、頭痛とめまいのお薬を飲みました。
「思いのほか、長い時間がかかり、さぞお疲れになられたことでしょう」
先生のご指示でしばらくお昼寝ですね。たしかに、かなり疲れました。体もですけど、けっこうな衝撃でした。ロタール殿下の最後のお言葉が事実なら、わたしはオイフェーミア王女に殺されるところだった、ということですもの。
でも記憶がないせいか、わたしには王女を恐れ憎む気持ちは少しも起きませんでした。それより、お居間を出る時に見た、ロタール殿下とオイフェーミア姫の暗く悲しみに満ちたまなざしのほうが、深く心に残りました。
スワニーはまた氷枕をあてがってくれました。ひんやりとして、うずく頭にはとてもいい気持ちです。熱めの湯を絞った布巾で手足を拭いてもらい、額には冷たい布巾を載せて、おかあさまが枕元に座って、髪をなでてくださいます。揺り籠に揺られているような、おだやかな眠りに引きこまれていきます。