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「王太子さまのご下問は?」
わたしがおとうさまにお尋ねすると、おとうさまは表情を暗くして
「お前が昏睡におちいる元になった転落事故についてだな」
どうしましょう。それこそぜんぜん記憶にないのです。困りました。わたし、何もお答えできませんよ。
「実は、事故ではない、という者があるのだ」
「事故でない……」
まさか、自殺とか?あら、ちがうみたい。とんと身に覚えがありません。では、事故でないなら事件でしょうか。
「お前が東翼三階のテラスから転落して、庭の噴水で見つかったあと、テラスの手すりが故意に崩されていたという報告がある。そして、お前が転落した時、テラスにはお前のほかにもいた者があると。これは複数の侍女や近衛騎士が目にしている」
王宮の東翼は来賓のご宿泊用のお部屋のあるところです。三階といえば、国賓級。つまり、外国の王家の方や全権大使級の要人のご宿泊に当てられた階ですね。その三階のテラスから、下のお庭に落ちたわけですか。よく命が助かったものです。まあ、ぜんぜん記憶がないので、まるで他人事のようで、すみません。
「では、今回の……は、その……」
おとうさまはうなずきました。テラスにいたという方は、国賓でいらっしゃるのですね。ことは外交問題にもなりかねない、と。
「そのお方の話では、悲鳴が聞こえたのでテラスに足を踏み入れた、とのこと。お前はすでに下の庭に倒れていたとおっしゃる」
「はあ」
記憶がないのですから、もうそれでいいのではないでしょうか。少なくともわたしにとっては、今さらなお話です。王子妃であったなら、国賓の方のお部屋にも、お茶事などのおよばれで伺うことも不思議ではありません。そのおりにテラスに出て、お庭を眺めたりするのもごく自然ですし。そのテラスの手すりが崩れたのは、王室の管理不行き届きというほかなく、国賓の方がご無事だったのがむしろ不幸中の幸い。
と、まあ、こんな風に考えられるのも、記憶がないせいでしょうか。
首をかしげるわたしを、おとうさまは悲しそうにごらんになっている。もうそんなに、ご自分を責めたりしないでくださるといいのに。
「お前の体調にあわせて、日を決めると、殿下はおおせになっておいでだ。場所も、王太子宮のお居間で、お前は義理の妹で王家の一員なのだから、と、過分のお心遣いを頂いている。どうだろうか」
「午後でよろしければ、いつでも」
おとうさまはうなずいてくださった。
ん、でも、わたし何のお役にも立たないかも。
まず、朝も起きられないでしょ。まともに歩けないし。めまいと頭痛はついてまわるし。ちょっと長く起きていると、すぐ背中も痛くなってくるのよね。今もクッションのきいた寝椅子に半分横になっているの。おとうさまには失礼だけれど。
あ、それに、わたしかなりみっともない外見のようです。というかコワイかも。だって、若い侍女のうちでは、わたしの顔を見られないでうつむく人も多いのよ。ほら、頭に縫い目があるくらいですから。人前に出ても大丈夫なのかしら。
おとうさまのお話のあと、アーサーが二度尋ねてきてくれて、サザランド先生から「画集」や文字の大きな軽い読み物なら見てもよいとお許しが出て、毎日一時間くらいは、外の空気に触れるようにと言われたわ。順調に回復してきていると。もちろん、うれしいことに違わない。スワニーもだんだん明るい顔になってきている。
おかあさまからは合間なしに季節のお花が届くし、アーサーはきれいな植物図鑑を持ってきてくれた。すごく色が鮮やかで、いきいきしているのよ。図鑑にしては字も大きめで、疲れやすいわたしの目にもやさしいの。先生も「これはすばらしい」と、アーサーの選択をほめてくださったわ。わが弟ですもの、アーサーのセンスはすごいのよ。えへん。
サザランド先生が車輪付きの安楽椅子を持ってきてくださった。背もたれのうしろには、取っ手もついている。初めて見たけれど、人に押してもらえば、座ったままで移動できるなんて、便利な発明だわ。侍女の力でも、大人ひとり楽々と運べてしまうのよ。わたしたち、進歩の時代に生きているのね。
この椅子に座って毎日庭に行くのが、今のわたしの楽しみ。ひざには植物図鑑。日差しを浴びすぎるのもよくないからと、先生はうすいストールを何枚かかけるようにおっしゃるので、そうしてる。その方が人の目も気にしないですむし、わたしの目にも負担が少ないので一石二鳥というものだ。
このごろはずいぶん頭もしっかりしてきて、目がさめた当初のように、ちょっと考え事をするだけで、頭が割れるように痛んだりすることはなくなったの。前は、どこにしまいこんだかわからないで、手当たり次第に引き出しを開けて、答えを探しているような状態だったんだと思う。しかも引き出しもきしんで開けにくくてね。今はあまり意識しなくても、自分のほしい答えの引き出しを開けられるようになってきた、という感じね。
今日も近くの葉っぱを歩いている虫を見て、なにげなく「あら、テントウムシだわ」と思ったの。わたしこの虫がテントウムシだと知ってたのね。そういうささいなことで、自分の頭がまともになってきているとわかって、すごく安心した。そう、この安心感は同じような経験をした人でないとわからないでしょうけど。
西宮のこちら側、ロタール王子の居住する一角は、日中は人払いされているようで、廊下にも庭にも、ほとんど人影はみえない。だから、侍女が付き添うだけで、人目を気にすることもない。はじめのうちはスワニーも一緒だったけど、スワニーはわたし付きの侍女頭で、今は西宮の女官でもあるので、それなりに忙しいの。西宮の女官長はキルデア男爵夫人。有爵貴族の令夫人で、もともとは王太后さま付きの女官だった方。独身当時はマルグレンとおっしゃった。おかあさまの後輩にあたる、わたしも小さい頃お世話になりましたっけ。二、三日ごとに様子を見にきてくださる、凛々しくも厳しい、でも心のまっすぐで温かい女官長ですね。
あれもこれも、みんな、王家の方々がわたしに気遣ってくださっている印。
おとうさまの人徳のたまものです。
でも、今日は珍しく、お庭のむこう側に数人の人影が見えるわ。お庭は広いので、こちら側からはどなたなのかもわからないけれど。こうしてじっと座っていれば、お目障りとはならないでしょうか。男女とりまぜて、なかなか華やかな色彩のお召し物のようで、お若い方々の集まりでしょうか。王太子さま付きの廷臣や女官の方々なのかも。
「妃殿下」
あら、キルデア男爵夫人。ごきげんよう。付き添いの侍女が頭をさげてうしろに下がっていったので気づきました。
「今日はお天気もよく、さわやかな風で、ようございました。お加減はいかがでしょうか」
わたしはにっこり頷く。薄いストールを被っているので表情は見えないかもしれないけど、気は心といいますもんね。頷いたのは頭の動きでわかりますし。
「遣水の横の四阿にお茶のお仕度をさせていただきました。よろしかったらお休みになりませんか。この時期、アヤメが見ごろですので」
たまにはお外でお茶もすてき。どうもわたしは、公爵令嬢としてはかなりお転婆さんだったようだわ。まあ、兄弟はアーサーだけなので、仕方がないのかも。
「楽しみです」
男爵夫人はうれしそうにお手ずから車椅子を押してくださる。昔から闊達で行動的な方でしたものね。
水際はほんとうにアヤメがみごとに咲き乱れていました。濃い紫、薄い菫色、白いアヤメも混じって、花弁の黄色が鮮やかで。すっくと立った姿がまた凛として美しく、そう、まるで男爵夫人のよう。
四阿の卓上には若葉色の掛け布と白い掛け布が重ねてあって、それはさわやか。その上にかわいらしい茶道具と小ぶりなお茶菓子が並んでいます。わたしがまだ不自由なのを気遣ってくださって、お菓子も一口で食べられるものばかり。どれも目に愛らしくおいしそう。
どれからいただこうか、わくわくしていたら、卓上に影がさしました。
そして、男爵夫人や侍女がみな頭を低く後退って。
「ずいぶんと元気になったようで、よかった」
いきなり低い男性の声がしました。びっくりです。
えーっと、どなた?と言いそうになって、やめました。男爵夫人が頭を下げて退出したことから、この方が身分の高い、たぶん王家の一員と思われます。男爵夫人、最初からもくろんでいたのね。それとも、この方に命じられてかしら。うん、たぶん、この方がロタール殿下。
「おかげさまで」
軽く会釈しておきます。まあ、車椅子にすわったままでご無礼いたしますけどね。
卓のすみで男の人の手が、慣れた風にお茶を淹れてくれます。そのまま、静かにわたしの前に茶器を置いて、ご自分も隣にかけてお茶を飲むご様子。わたしはお作法はずれですが、両手で茶器を持ちます。ストールの下に持ち込んで飲むので、片手ではあぶなかしいから。お茶はよい香りに出ていて、水色も優しいですし、口に含むとほんのり甘い。
「おいしいです」
「うん、よかった」
寡黙なお人柄なのか、しばらく沈黙が続きました。それもいやじゃない。並んでお茶を頂きながら、ただ静かにお庭を眺めているのも、悪くありません。
「王太子の下問の件はあまり気にやまないように。ごく内輪で気がねない茶会のようなつもりでいてほしい。貴女の今こころがけることは、自身の体と心を十分いとうことだ」
たぶん殿下だろう方はつぶやくように言われました。うーん、わたしの記憶の中の殿下とはずいぶん違う。殿下も大人になられた、ということかしら。あら、ずいぶん不遜な言い方でしたね。いけない、いけない。黙ってお辞儀をしておきましょう。
殿下が席をたっていかれたあと、男爵夫人がいらして「そろそろお部屋に戻りましょう」と車椅子を押してくださいました。はあ、非公式な会見、ということね、これって。
それからほどなく、王太子殿下より侍従を通じて正式なご下問の通知をいただいた。スワニーが受け取って、わたしはお辞儀をしただけ。前もってお話があったので、日取りは明日の午後。車椅子のままでかまわないというお言葉をいただいたのは、本当にこまやかなお気遣いです。さすがは王太子殿下ですね。
とはいえ、正式なご下問なので、何を着ましょう。いつもの、部屋着まがいの服装ではいくらなんでも失礼ですしね。入浴もしましたし、スワニーに髪も洗ってもらいました。用意してもらったのは、胸下で切り替えた古風な感じの衣裳。白の柔らかいドレスに青の上衣を重ねて、ゆったりとしていながらきちんともして見えます。短く不揃いな髪もへんな縫い目が見えないように、幅広の青いリボンをきれいに巻いてもらって、上からレースのベールをかけて、目のあたりまで蔭になるようにしてもらいました。
車椅子に座ってひざ掛けをかけて、大判のハンカチを手に、いざ、出陣。あら?違いましたね。出発です。ふふ。