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すこしうとうとしていたのだろうか。次に目がさめた時には、窓の外は日が傾きかけていた。白衣のたぶんお医者さまだと思う人が、静かにわたしを診察している。起こしてくれてよかったのに、眠ったままでなどと失礼なことをしたものだ。
「奥さま、お目覚めになられて重畳でございます。初めてお目にかかります。私、担当医師のメルキオール・サザランドと申します」
眠っている間に体も拭いてもらったようだ。さすがスワニーは手抜かりがない。お医者さまはまぶたを裏返したり、のどや舌を見るのに口を開けさせたり、胸やおなかを診察したり。もちろん寝間着の上からですけど。でも、一番時間をかけたのは頭だった。目が見えているか。ことばが聞き取れるか。声は出せるか。手足は動かせるか。いろいろ質問された。そのころには少しだけ首も動くようになっていたので、声はまだ出せないけれどうなずいたり、かぶりを振ったりできた。手も軽く指を曲げ伸ばしして見せられたので、お医者さまは満足そうだった。
「すばらしいです。よく回復しておいでです。今動きにくいところも無理せず少しずつ動かしてまいりましょう。お声もほどなく戻るはずです」
お医者さまは、半分はわたしに、半分はそばのスワニーに聞かせるように話しかけた。
ところで、そろそろ誰か教えてほしいのだけど。わたしはいったいどうしてしまったの?
お医者さまが帰ると、スワニーが薄味のスープを運んできた。ほかの侍女の手で体を起こされると、背もたれに寄り掛かった姿勢でさましたスープを少しずつ口に運ばれる。赤ちゃんみたいで恥ずかしい。顔が赤くなったらしい。スワニーがにっこりして、まだまだと首を横にふる。そしてスプーンが口元に。でもスープはおいしかった。おなかがほっこり温まった。そのあとで、おなかの働きを助ける薬を飲まされたけど、こちらはとても苦かった。
わたしはすぐに疲れて眠くなってしまうようだ。次に目がさめたのは翌日だろうか。午前の日差しが窓から差し込んでいる。扉を叩く音がして、枕元にいたスワニーが扉を開けに行った。
入ってきたのは背の高い若い男性だった。お医者さまとも違う。服装から見ると紳士のようだ。白金色のまっすぐな髪、宵闇色の瞳。誰だろう。ひどく見覚えがあるようなのに、誰だかわからない。でも、若い男性を寝たきりの女性の部屋に入れるなんて、スワニーはどうしてしまったのだろう。目をぱちぱちさせてスワニーに合図をしているのに、肝心のスワニーは白い前掛けのふちで目を押えている。その男の人はわたしの寝台の横に立つとしばらくじっと見つめてから、なんと!わたしにぎゅっと抱きついた。わたしはびっくりして声が出た。ええ、かすれて低くてカエルの声みたいだったけれど。
「イリス!お姉さん!夢じゃないね。本当に目が覚めたんだね」
えええええ?今「お姉さん」て言った。わたしを「お姉さん」と言ったのは十二歳までのアーサーだけよ。この人どうみても二十歳くらいでしょう。このごろはアーサーだって「姉上」としか呼ばないのに。
ぎゅっと抱きついた男の人は顔を上げてわたしの顔をじっとみた。うん、顔近いんですけど。すごく恥ずかしいんです。だってあなたは誰?
「お姉さん、僕がわかる?アーサーだよ。みんなすごく心配したんだよ。目が覚めてくれて本当によかった」
泣き顔はアーサーだわね。かわいかったちいさい天使の面影がいっぱいありますね。
「……ア…サ……」
「お声が!アーサーさま、奥さまはお声がお出にならなかったのです。でも今たしかに」
「うん、うん。アーサーだよ、お姉さん。スワニーから知らせをもらって、僕は大学寮からとんできたんだ。父上と母上は明日遅くには着くからね」
アーサーは大学寮に入ったばかりで、まだ十五歳だったのに、この人がアーサー?だったら、わたしはいったい……誰?そしてここはどこ?
頭がひどく痛かった。
そう、思い出せないことがたくさんあった。何のぞうさもなく思い出せることから、まったく記憶にないと思われるものまで、わたしの頭の中はひっくりかえされたおもちゃ箱のようだ。くっきりした記憶のきれはしを見つけても、その先がたどれない。この破片とこの破片がつながらない。ごっそり抜けおちたピースを無視して、パズルを完成させようとしても画像は穴だらけ。
知らせを聞いてかけつけてくれた両親はわたしの記憶より年老いていた。アーサーの年齢から推測すると、わたしにはここ四、五年ほどの記憶がなくなっているらしい。最初に見たのがスワニーだったので、あまり気にしていなかったが、スワニーも覚えている姿より大人っぽかった。
そして気になっているのが、スワニーの「奥さま」という呼称。
奥さまって、いったい誰の?
わたしの記憶には結婚の事実はない。なんとなくこの人かもしれない、という身に覚えもない。きれいさっぱり。それはもう、まっさらというほど。
わたしはイリス。グウィディオンのイリスだ。王国の貴族年鑑風にいえば、イリスフィール・シプリス公爵令嬢となる。父と母と弟のアーサー。二年ほど前に亡くなった父方の祖母がわたしの家族だ。わたしは十七歳くらいだったはずだ。社交界に出る前だった。ほんとうは社交界より大学寮に行きたかったのに。アーサーが大学寮に入学する時、わたしには許されないこともアーサーには許されるのだと、ひどくうらやましくも妬ましくも思ったものだ。
そう、その頃ぐらいまではなんなく思い出せる。それでもあちこち大きな穴があいている。その前から勤めているという侍女に見覚えがなかったり、父方の従姉妹の記憶がほぼなかったりする。おとうさまの弟クリスティアン叔父さまという方は、早くに望まれて、遠方のキールマイヤー王国に養子にいかれた。お子のうち唯一の女子だった従姉妹のソフィアは、しばらくグウィディオンの森屋敷に滞在していたそうだ。それまで会ったこともなかったのに、一気に親しくなり、従姉妹がキールマイヤー王国に帰ってからも、ずっと文通していたそうだ。申し訳ないけれど、まったく思い出せない。
「イリス、あなた、うちに帰ってこないこと?」
今日も見舞いに来てくださったおかあさまは、みごとに咲き誇った色とりどりのチューリップの花束を、スワニーに手伝わせて花瓶に活けながら、おっしゃった。そう、わたしの暮らしているこの部屋は、シプリス公爵家の屋敷ではないのだ。見覚えがないのも当然だった。アーサーやおとうさまの会話から推し量ると、ここは王宮内の西宮にあたるようだ。スワニーがわたし付きの侍女頭であるのは間違ってないようだから、わたしは西宮に部屋を賜っているということになる。社交界に出てから、女官にでもなったのかしら。位のある女官は未婚でも「マダム」と呼ばれるのが慣習となっているそうだから、そのせいでスワニーが「奥さま」と呼ぶのかしら。
このごろは朝起きられるようになった。スワニーの手を借りて寝台から出て、軽い部屋着に着替えて、長椅子に座っていられる。食事もそこでできる。もっとも自分でははかばかしく動けないので、おなかはあまりすかないけれど。
動けないといえば、まずひとりで立てないのだ。家具につかまろうとしても、握力もないし、腕に力がはいらない。着替えの時に見てみれば、手も足もまるで棒のように細い。まるで病弱な子どものように華奢なのだ。握力がないため、ナイフやフォーク、スプーンも意識してしっかり持たないと、すぐに手から落としてしまう。情けなくてはがゆくて、かんしゃくをおこしたこともある。毎日診察に訪れるサザランド医師からも、手の訓練のためにと乗馬鞭の握りを持たされている。着せ替え人形も持ち込まれた。リボンを結んだりボタンをかけたりするのも訓練になるのだそうだ。これではいつになったら手紙を書いたり、本を読んだりできるのだろう。そうそう、本を読むのもまだ禁止されている。窓の外の露台に出ることもダメなのだって。わたしの傷ついた目が、強い日光に耐えられないからだそうだ。
左側の目がよく見えていないのは、かなり早くに気づいていた。髪も記憶よりずっと短い。というか、貴族の女としてどうなの、と思うほど短い。毛先があごほどしかないというのは、まるで就学前の少年のようだ。何度かスワニーに鏡を持ってくるように命じたのに、スワニーは青い顔をしてひたすら「お許しください」というばかりなので、わたしは病気で相貌が崩れてしまったのではないかと思う。東方にはそういう病があるのだと、十字軍の歴史を読んだ時に知った。
我が身の世話さえできない女が、王宮の女官は勤まるはずもない。おかあさまが「うちに帰ってこない?」とおっしゃった時、重苦しかった気分がやっとほどけた。
「帰って…いい……?」
かすれた声で答えると、おかあさまは目を輝かせてわたしの両手を取って、なんどもなんども強くうなずいた。スワニーもほっとした表情だ。よかった、わたしもうちに帰りたい。できればグウィディオンの森屋敷か、シルヴェスターの山館に。