3
離宮のお庭は人工的に見えないように、わざと石畳でも芝生でもない、土と下草のままに、ところどころ飛び石が配してあって、正直車椅子には向いていませんが、殿下は巧みに平地を選んで進んでいかれます。しばらく無言でお庭の奥に向かいました。水音がして小さな流れにぶつかりました。この先には「カリスの泉」と呼ばれる天然の湧き水があるはずです。ああ、ここです。月の光にきらきらと輝いて、緑の中の小さな鏡のようです。殿下は車椅子を止めました。
「たしかに、わたしたちの婚姻は政略結婚だ。貴女はわたしを愛しているわけではない」
さすがにあからさまにおっしゃられると気まずいです。でも、ロタール殿下も同じではありませんか。
「本宮殿の中庭で貴女を池に落としたこと、間違った言葉で罵ったこと、すまなかった」
え?そこからですか。
「このことを詫びるのは二度目。だが、貴女は前の時のことは覚えていないだろう」
では、結婚前にお詫びしていただいたのですね。思い出せなくて申し訳ありません。二度も口に出させてすみません。
「あのあと、イリスが遊びに来ているときには、絶対に王妃さまの居間に呼んでもらえなかった。ほかの子とは遊んだのに、小さいイリスとは二度と遊ばせてもらえなくなった。とてもさびしかった。貴女に会いたくて。とても後悔した」
そんなに言っていただくと、かえって申し訳ありません。わたしは「いじめっこ殿下」と会わずにすむようになって、ほっとしたんですが。わたしは殿下のお話の向きがわからなくなって、うろたえてしまいました。
「貴女が社交界へ出る年頃になって、やっと、王太后陛下より貴女に近づくお許しをもらった」
「それで踊ってくださったのですね」
「貴女はほかの令嬢たちとはぜんぜん違っていた。繊細で可憐で無垢で、まるで妖精のようだった。あの日から貴女は密かに『妖精姫』と呼ばれている」
ぅえぇぇー?なんです、そのハズカシイ呼び名。それって、「シプリス家の娘は浮世離れしている」ってことですよね。地味で流行おくれで素朴ってことですよね。そうですよね。はぁ……。うん、そういうのは、シプリスの伝統のようなので、許容範囲です。
「あまり人前に出ることをしない貴女には、もっといろいろ呼び名があるぞ。『シプリスの秘宝』とか『グウィディオンの魔女姫』とか」
……もう……真面目なお顔でおっしゃる内容ではないです。いたたまれないので、耳をふさぎました。たぶん、わたしの顔は赤くなっているでしょう。頭の縫い目までも赤い気がします。
ロタール殿下の手が背後から、耳をおさえたわたしの手をはずさせて、そのまま胸の前で合わさりました。これって、椅子越しに殿下がすっぽりとわたしを抱え込んでいる?
「わたしは兄上ほど賢くない。政治にも明るくない。兄上を補佐する手足であればよいと思っている。今回のこともそうだ。レネンシアの王女の気持ちも貴女の心も、深く考えることもせず、兄上の指示通りに動いただけのつもりだった」
「傷だらけで血まみれの貴女を見た時、わたしは、子どもの時あれほど後悔したのに、また同じことをしてしまったのだとわかった」
頭に重さがかかります。でもそれはとてもそっと乗せられた重み。
「貴女を失ってしまったと思った」
え……と、お手が、震えているのですか。
「ロタール殿下」
「ん……なに?」
そういえば、ロタール殿下は不器用な方でしたね。いっしょにビスケットを頂いた時も、わたしの分まで取ってしまって、「かえして」とお願いすると、だまったまま、お皿を突き返しましたっけ。見れば、わたしのお皿にはチョコレート付きのビスケットばかり。ご自分のお皿にはチョコレートなしのビスケットばかりで。
「わたしが眠っていた間、いらしてくださいましたか」
頭の上のたぶん殿下の頬が熱くなった。
「殿下?」
「毎晩だ」
「こわかったのだ。貴女の息が止まってしまうのではないかと。わたしの眠っている間に」
ロタール殿下の腕に力がこもって、わたしをぎゅっと抱きしめました。どうして今そんなことをおっしゃるのでしょう。胸がどきどきします。たしかに一年ほど結婚していたのですから、夫婦なのですから。でも、わたしには、なにも思い出せなくて。わたしにとって、ロタール殿下は、小さい頃何度かお目にかかった「いじめっこ殿下」のままなのに。
わたしは、わたしたちは、どんな一年をすごしていたのか。オイフェーミア姫に「夫を愛していない」と答えたわたしは、どれほどひどい妻だったことでしょう。
ごめんなさい。ごめんなさい。
気づけば、ロタール殿下が私の前に膝をついて、涙をぬぐってくださっていました。
「イリス」
わたしはロタール殿下のお顔を見る勇気はありません。
「貴女には静養が必要だ。記憶ももどらなくていいのだ。貴女の怪我はわたしの罪だ。だから、貴女をグウィディオンに返そう。貴女はそこで自由におなり」
「でも、わたしは貴女のほかの誰とも婚姻するつもりはない」
「だから、わたしに『イリスの夫』の名だけは残しておくれ」
殿下はぼろぼろ泣くわたしを、子どもをあやすように抱きしめてくださいました。そして何度もなんども、わたしの頭の傷痕に、額に、頬に、くちづけをくださいました。
翌朝、見送って下さるアリステアさまはじめ離宮のみなさんに手をふって、わたしは王宮にもどりました。ロタール殿下は昨夜のうちにお帰りになったそうです。わたしはおかあさまに、殿下とのやりとりをお話ししました。殿下のご希望と、わたしの後悔も。おかあさまはほほえみながら、静かに聞いてくださいました。
「イリスはどうしたいの?」
「殿下は、ゆうべ初めてお目にかかった方みたいで……わたし、あんな殿下知らない……」
「そうねぇ」
おかあさまはわたしの髪を撫でてくださいました。
「イリスの心は、まだ十七くらいのままなのでしょう。殿下とは、きのうお目にかかったと思えばどうかしら」
「殿下がイリスをお心にかけてくださるのなら、あなたはゆっくり、それにお応えできるか、自分の気持ちを見ていけばいいのよ」
「まずは体を治さなくてはね」
西宮にもどって、おかあさまからおとうさまに、離宮でのことをお話しして頂きました。王室からも内意があったとか、これはおとうさまのお話でした。公爵家世子であるアーサーも交えて、公爵家では何度も話し合いました。その結果、ロタール殿下のご希望を入れようということに決めました。公爵家としての決定を、おとうさまが陛下に奏上いたしますと、ほどなくして退出の勅許が下りました。それと同時に一通の勅令が発せられました。
一、去る二月七日の午前、第二王子ロタールの妃、イリスフィールは、本宮殿東翼三階のテラスより転落し、庭の噴水の石組に頭部を打ちつけ、四カ月の間昏睡状態に陥った。
一、これは、前夜二月六日のロタールの誕生祝いに来訪したレネンシア国王女を訪問するために、迎賓室に赴いた折、テラスより誤って転落したものである。
一、イリスフィールは昏睡から回復したが、記憶の一部を失い、身体にも障害が残ったため、今後王子妃の責務を果たすことが困難となった。
一、公爵家から王子妃辞退の願いが出されたが、王家および夫であるロタールの強い希望で、イリスフィールは王子妃の位を保ったまま、実家であるシプリス公爵家において、無期限の静養生活に入るものとする。
一、イリスフィールはその体調の許す限り、一年に一度、五月末から六月末までの一カ月、離宮の王太后のもとに滞在する。王国はそれ以外、イリスフィールに公務などの責務を負わせない。
一、将来、イリスフィールの回復が進み、王子妃としての責務に耐えうる状況になったと判断された時、王家、公爵家、ロタール、イリスフィール本人の合意により、王子妃の立場に復帰するものとする。
こうしてわたしは正式に西宮を出て、グウィディオンに戻ることになりました。
わたしの転落事件の真相は、ヴィーラントとレネンシアの機密文書庫に公文書としておさめられています。ですが、ヴィーラントが公式に発表したのはこの勅令です。わたしの転落は不幸な事故だったと処理されました。目撃者や関係者のみなさんには、口外しないよう密かに勅命が下りているそうです。レネンシア側のことはどうにもできませんが。
そうそう、サザランド先生は、王家より差し回しの医務官として公爵家に赴任し、グウィディオンにいっしょに行って下さることになりました。心強い限りです。離縁願いを出した時その点が心細かったのですが、あとから先生にうかがうと「医務官を辞任して、主治医として公爵領についていくつもりだった」とおっしゃいました。スワニーは「さすが名医の鑑ですわ」と、先生の株が急上昇した様子。そういえば、このふたり、どこか似ています。気性が男前のところなんてもうそっくり。




