神の時代考―根源的欲求の剥奪を軸に―
(お題:少女のあそこ)
その昔の昔、人間がまだセックスをしていた時、それはもう金や酒や薬やらを使ってとにかくセックスをしたい! セックスをしたい! と人々が騒ぎ立てていた時代の話だ。
タイムマシンなんていうものは実現しなかったしこれからもしないだろうが、人類は未来にあてて手紙を書くことができた。それは文学とか小説とか言われる紙媒体のものから、パーソナルコンピューターやスマホを始めとしたデジタル媒体、或いは音楽、絵画、彫刻などによって人々は未来に手紙を残していた。それによって、私達は擬似的に過去を体験することが出来る。そういうわけなので、私達は当時の手紙を読むことによってのみ、セックスと呼ばれる事象について考察することが出来る。
まず、我々がセックスをやめたのは核戦争の後のことだ。放射線に犯された人々も子どもを産めるように、科学者達は焼け残った技術の粋を集めて、高度な生殖技術を生み出した。これはセックスの根付く時代では「試験管ベイビー」と呼ばれる代物で、非難の対象にあったようなのだが、倫理観などとっくのとうに核の炎が焼き尽くしており、生き残った我々の祖先はこぞってこれを投入し、再興に向けて力強く踏み出していった。
それ以前、セックスというものは人間にとって不可欠の要素であった。人間の三大欲求は食欲、睡眠欲、金銭欲だが、当時は食欲、睡眠欲、性欲であった。もはや我々の遺伝子レベルで命令された欲求なのである。故に、誰もが腹を減った、と言うレベルでセックスを求め、寝過ぎた、と言うレベルでセックスをする。皮膚に直接張り付くプラグスーツの普及によって裸を忘れた我々からすると考えられない倫理観である。
そんな世界であるのにも関わらず、当時席巻していた世界の創造神話によると、世界を創造した神は使者を我々の世界に送り込んだのだが、それは当然出産という形をとる。イエス・キリストの誕生。そしてその母はマリアと呼ばれる女なのだが、処女懐妊をしたとされている。つまり、セックスをしないでキリストを産んだのだ。このことから、処女=高潔という数千年にも及ぶ信仰が生まれたのだと歴史学者達は考察をしている。
そして科学者達はこのひとつの神話は、正に現在の生殖技術についてのひとつの予見なのではないかと息巻いている。つまり現在、人は誰でも(当時の言葉を使えば)「処女」と「童貞」で子どもを作る。それはマリアを処女のまま強姦した神という構図にぴったりと当てはまる。体外で受精した卵子を、女の子宮内に移植するが、これは全てプラグスーツを媒介して行われ、その徹底したテクノロジーの担保によって、妊婦たちは痛みを伴わずに安心していつでもどこでも出産ができる。そう、たとえ厩でも、である。
神の時代だ、と経済学者たちは言う。風俗や売春はもちろん存在しないので、お金は健全な場所を巡っていくので経済は良好になる。教育学者たちも、性教育のことについて悩む必要はなくなった。過去のことを手紙で読み、現在と照らしあわせてみるだけで、いまはハッキリと良い時代であると言える。セックスを追放した我々の世界は、これほど平和に近づいた、と。
これが現在の世論。だが、私はそうは思わない。申し遅れたが、私は文学者だ。研究のため、1900年代から2000年代の主要な文学を読み尽くした。その結果言えること……今、神の時代などではない、ということだ。
何故、そう言えるか。そんなことは簡単なことで、想像力の発展が妨げられているからだ。創造と想像の音が同じなのは単なる偶然だろうが、私はこのことに決定的な意思を感じられてならないのだ。男女の性の発展は思春期の子どもにとって一大の関心ごとであり、ひとつの想像力の土台なのであった。その想像力の暴走が、彼らのセックス欲を掻き立てた。しかし、これはひとつの結果でしか無い、このエロスをもとに副次的に素晴らしい物がうまれている。文学、音楽、美術を始めとする諸芸術は、この根源的な営みについての美を説くものが大半だ。それを失った我々は……また核戦争の惨禍を招いてしまうのではないか?
……ん? そんな堅苦しいことを言ってないで、もう本心を言ってしまえって?
それほど諸君が所望なのであるなら、言ってしまおうではないか。
神の時代ではない一番の理由、それは、少女のあそこが永遠に奪われてしまったことにほかならない。神は死んだ。
アーメン。
問題作。お題が悪かった。