犬と採用
(お題:暴かれた壁)
ウォールストリートという単語ひとつで経済界を換喩しているのと同じように、ブライデス・パルドーはそれ自体で世界初の「社会犬」として換喩の機能を果たす。ブライデスとは私の飼い犬だ。まずはこの名前の由来から話すことにしよう。
あれは忘れもしない5月9日、私は就活生で初めての面接に遅刻した。その会社が第一志望だったというのに初めての採用選考で、前夜から心臓がバクバク言っていて、朝は五時に目を覚まし、新聞を徹底的に読み込み鞄の中身を何度も確認して、完璧に外見と服装を整えて面接開始一時間前に到着できるように出発した。
私は駅の近くまで来て、違和感に気づく。振り向いてみると、なんと飼い犬のニコがとことことついてきていたので私は悲鳴をあげた。ニコは柴犬で、河川敷に捨てられていた経済誌を熱心に眺めていたところを母親に拾ってこられた。非常に大人しい犬で、散歩も一日一回決められたルートを歩くだけで満足する。家では新聞をカーペット代わりにして、匂いを丹念に嗅ぐようにその上を歩きまわる。気がついたら勝手にテレビをつけてNHKのニュースを見ている。「社会派な犬なのね」とか母はニコニコとしていたが、私にとっては不気味な犬でしか無かった。まあ、どれだけ情報を仕入れようと(というか仕入れているような仕草をしていても)ニコは柴犬だし、そのアホっぽい顔は可愛かったので、人並みには世話をしていた。
なので、こんな事態はイレギュラーなのだ。ニコが自発的に私についてこようとは。私は若干パニックに陥ってニコに駆け寄って、柵につながっていたはずの首輪を確認すると、鋭利な刃物で切断されたようにすっぱりとヒモが切れていた。
私は兎にも角にも、ニコを抱えて家に帰った。時間に余裕が無かったので家に放り込んで鍵をしめる。これで外には出られないはずだ……と私は確信してもう一度駅に引き返す。でも、数分歩いたところで嫌な予感がして振り向いてみると、ニコはしっぽをふりふり私についてきていた。
そんなやりとりを数回繰り返して、一時間あったはずの余裕は底を尽き、というかもう遅刻確定にまで至ったところで私は観念してニコを連れて面接会場に行った。社員の人にとにかくペコペコしながら、この子がどうしても着いてきちゃったんです……、と事情を半泣きで説明したら、とりあえず面接はしますから会場へどうぞ、と困ったような口調で言われた。
……面接官は犬を連れて現れた私を見て驚いた。私だって驚いていた、ニコは社員の人にムリを言って預けていたのに、どういうわけか私の一部であるかのような振る舞いで私についてきていたのだ。
もう駄目だと私は頭のなか真っ白になって、面接官のもはや形骸化した質問に形骸化した回答をぶつけた。ニコはそんな私の内情なんてちっとも構わず、しっぽを振りながら室内を歩きまわる。そして、唐突に面接官のかけている机に跳びかかり、一枚のエントリーシートをかっぱらっていった。ひどい話だ。私は何も悪くなかった。その後のことはあまり覚えていないが、ニコは行方不明になり、私は社員に追い払われるように建物を出て、家に帰って泣きながら床についた。
で、そんな呆れ果てるような騒ぎの果てに、うちへ内定が決まった旨の連絡が来た時、私は驚いた。そして内容を見て死ぬほど驚いた。なんと本格的に雇いたいのはニコのほうだと言う。いやいや、いくらニコが頭の良い犬だからといって、犬を雇う会社があっていいものか……と私は訝いながらも、二度と行くことのないと思っていた本社へと足を運んだ。真っ先に私を出迎えたのはニコだった。憎らしいほどアホっぽい顔を見て、私はすっかり毒気を抜かれてしまった。
私は代理人として書類に記載をした。と、ニコという通称ではいけないので、本名がほしいといわれた。困った私からニコはスマホをかっぱらい、鼻先を使って「ブライデス・パルドー」と謎の名前を打ち込んだ。相手方の人事は、「なるほどそれが本名のようですね」とかとんでもないことを言ったので、私はもうどうにでもしてくれ、とその名前を記した。
……パルドーは、第二志望に就職した私よりも金を稼ぐようになった。意識の高い大学生の生まれ変わりなんじゃないか? と思えるほどバリバリ働き、バリバリ稼ぐ。このままだと40歳で墓を立てることになるんじゃないかと思うが、もう実年齢的に40は遥かに超えてるんじゃないか。
そして私はやりたくもない仕事を任されて、しょぼしょぼと働いている。なんという、皮肉な話だ。これでは第一志望に入っても、こんな具合で暮らしていたに違いない。どうも聞く話によると、パルドーのように企業に採用される犬、通称「社会犬」が増えてきたらしい。人類の友達だった彼らはいつの間にか、人類のライバルになってきてしまっている。ウォール・ストリートは、人間だけが動かすものではないということが、暴かれつつある世界になりつつあるのだ……。
犬に(これ自分でやったほうが早そう……)と思われたらこうなる、という感じのコメディ。四足ならではのビジネスを開拓してくれそう。