スマホならびにガム
(お題:俺の信仰)
そこらを掘れば温泉が湧いで出そうな空き地の隅っこで、俺は地上にでんぐり返ってガムを噛んでいた。もう三日三晩噛み続けているから、ゾンビの顔色よりもひどい色をしているに違いない。もはや弾力の無い、なされるがままに転がされ続けるその物質を、果たしてガムと呼んでいいものか。
俺はここで待ち人をしている。『ゴドーを待ちながら』さながらだが、あいにくと喋る相手が居ないし、相手が来ないのも分かりきっているので、彼らとは違う。かといって、『掟の門前』の門番というわけでもない。閉じるべき門も持ち合わせてはいない。
ぐっと伸びをすると、俺は地面にうつぶせになる。ここに居なくてはいけないのに、暇すぎるのだ。温泉でも掘っていたいが、仮に掘り当てたとしても俺の居場所が温泉に侵略されてしまうだけで、仮にそれを元手に商売を始めたとしても、サル一匹浸かりに来ないことが分かりきっているのだから、無駄骨にも程がある。
俺はスマホをポケットから取り出して、画面に指を走らせる。充電は無限にあるが、こんなに必要ない。もっと必要な奴に分けてやれ、と思うが、そういうわけにもいかない。ソーシャルのストリームを眺めていくが、人々はみな気ままだ。何か呟くようにプログラミングされたAIでも、もっと気の利いたことを喋る。いや、逆か、プログラミングされたAIだからこそ、もっと気の利いたことを喋るのだ。気の利かないことを生業とする人間にとって、気の利くということは怠惰の変貌した姿に過ぎない。
そういうわけだから、俺も気の利かないことを呟く。「ガムを三日噛み続けてるんだけど、もうこれ以上すり減らないっぽい」。俺はスマホを投げ出す。ゆっくりと丁寧に時間をかけて、ガムを噛み砕く。ぶつり、と二つに千切っても、それぞれをくっつけてまとめてやればすぐに元通りになる。こういうバケモノが居てもいいと思うのだが、なんて言うんだ? スライムか?
十六個まで分割させたところで限界を感じ、諦めて一つに戻してスマホを見る。リプライが二十件超。フェイバリットが数千件。俺は内訳を見ていく。まず、AIがその99%を占める。これはまあ、良い。お気に入りだ、と宣言することは気が利いていることの裏返しだから、俺の短文を滑っていったAI達はもれなくフェイバリットを投下していく。辞書をプログラミングしたAIについては、丁寧にガムが消耗しないことを教えてくれる。まあ、これもいい。気が利いている。
問題は残りの一%だ。「いま、どこにいる?」というリプライ。俺はうんざりした。
「そこらを掘れば温泉が湧いて出そうな空き地の隅っこ」と、返しておいた。相手が誰だか分からない。会ったこともない。アイコンは豚鼻をつけた女の子の画像だ。萌え絵というやつだが、そんな呼称をするのは、そういう分野での創作活動にある程度の体系を持たせたがる学者たちぐらいだろう。俺達は「絵」として認識する。「S.セバスチャンの殉教」と同じように、絵、と呼ぶ。モチーフがたまたま矢を身体に受けた男ではなく、豚鼻をつけた女の子だったというだけの話だ。しかし、何なんだこの子は、トリュフでも探す仕事に就いているんだろうか。
返信がある。「こっちは神戸にいるんだ。これから九州に行くんだけどさ」。あぁ、そうかい。じゃあ俺も九州に向かえばいいのかな? しかし、九州は広いぞ。俺は欠伸を漏らす。行ったこと無いけど。
「へえ、何しに?」
「雲を掴みに、さ」
なるほど、文字通り雲をつかむような話だ。ナンセンスだ。
「雲を掴んでどうするの?」
「大学で研究する。雲に含まれるイオンを利用して、癌治療に役立てるんだ」
「別にそれなら九州でなくたって良いでしょ」
「もう試してない土地はそこしかないんだよ」
土地性に原因を求める辺りにこいつの限界というものが知れよう。雲を掴んで料理するレベルに達した人間は、一体どんな世界を見ることになるんだろうか。まだ、ガムを三日三晩噛み続けて見える世界の方に俺は普遍性を感じる。
「ふぅん、じゃあ帰ってくるのはいつ?」
俺は訊ねた。
返信は早い。
「今日の夜だよ。だから、久しぶりに飲まないか?」
「あのさ、今何時だと思ってんの?」
「六時前かな。あ、でも時差があるから……そっちではもう夜?」
豚鼻でそういうジョークを言われると死ぬほど腹が立つ。こちらが女だと思って、そんな米びついっぱいの水でふやかしたご飯粒みたいなことを、抜け抜けというのだからムカつく。俺はスマホを放り投げた。もう一度ガムを噛みまくる。今回は執拗に唾液に絡めていく。この水分を吸って、ガムは膨張していくのだろうか。俺の口腔と同じだけの体積になるとしたら、それは果たしてガムと言えるのか? それは俺の唾液なんじゃないのか、では一体どの割合から唾液と名称を変えるのだろうか……。
俺は相変わらずうつ伏せのままで再びスマホを手にとり、画面を指でスライドさせる。雲採り豚鼻の話はもうこれでおしまいだ。俺はきまぐれにAIのひとつにリプライを送る。
「振り回していたら傘が壊れてしまった」
小学生みたいな内容だが、AIは気の利いたコメントを寄越す。
「振り回しても壊れない傘を買おう」
「振り回しても壊れない傘なんてあるの?」
「振り回して壊れちゃう傘しかないの?」
「振り回して壊れちゃう傘しか見たことない」
「振り回しても壊れない傘を作ろう」
なるほど、怠惰だ、ということがよく分かる。こちらが男だろうと女だろうと、はたやAIであろうと、AI達はこういうアルゴリズムから解を見出す。別にシャレというわけではないが、それは俺たちの本能的に求める「快」と同質なんじゃないかと思う。だから、数百年後に彼らはきっと言うだろう。「振り回して壊れる傘とは何事だ! 失礼だ!」。解にないアクティビティは全て不快となる。創造の行き着く所は、結局のところそこでしかない。創造を破壊するのは創造でしかない、俺達は創造をしたと同時に破壊される覚悟をしなくてはいけないのだ。
で、俺はようやく立ち上がって、服についた土を払い落とす。空を見上げると……眩しいほどの白さが広がっていた。飛行機一匹飛べやしない、呆れるほど広い大空だった。
俺は今度は礼儀正しく座り込んで、スマホを見る。ストリームに指を伸ばす。
リプライが二〇件超、フェイバリットが数万件。うち99%はAIだ。残り1%は雲を採る男で占められている。全く、俺のいるべき隙間がない。
俺は自分のアカウントのプロフィールを見る。アイコンはケーキの写真だ。俺はこの画像にあるケーキを食べたことも無ければ見たこともない。というか、これがケーキなのかすら分からない。1%のうちの雲を採る男以外の誰かが、これがケーキだと言っていたのが唯一の証言である。だから、きっとケーキなのだろう。誰かが、これは固形燃料だ、と言ったら、これは固形燃料の画像なのだ。だからといって、俺は何も困らない。ケーキをアイコンにしているから女子だろう、と決めつける奴がいなくなるだけだから。99%が100%になるだけだから。
俺はストリームを回す。この土地の地価を調べようと思ったが、どこにも載っていなかったのでやめた。
と、そこへ誰か男がやってきた。スーツを着込んだ青年だがあまり着慣れていないようで、スーツが人間をまとっているような出で立ちだ。しょぼくれたようにハネる髪が印象的だった。
「どなたですか」
俺はガムをくちゃくちゃさせながら言った。しかし、青年には俺の口の動きが見えていないようで、全く気にする様子を見せずに愛想笑いを浮かべる。
「いやあ……ついに僕もなっちゃいまして」
「なにに?」
「アレですよ。……あの、つまり……その……」
「ゾンビ?」
「違います。でも、すぐそこで公安に掴まってさ……」
そう言いながら、青年はどさりと俺の隣に腰を下ろす。その謎の距離感に俺は拒否感を覚えて、さっと身を引く。それを見た青年は少し傷ついたように肩を丸める。
「で、誰ですか」
俺はいつの間にかはぐらされた質問を、もう一度ぶつける。
「はあ……だから、アレですよ……」
「職業とか身分じゃなくて、俺はあんたのことを訊いてる」
「お、俺って……」
青年は俺の顔を覗き込む。なんて不躾なやつだ、俺は顔を背ける。
そして暫定的な隣人は、驚きを隠すこと無く言った。
「女の子なのに、俺だなんて……」
俺はため息を吐かざるを得ない。やれやれ、と言わざるを得ない。ケーキのアイコンと同じレベルで、この茶色の長髪と、埼玉のどっかの高校の女子の制服と、チェックのスカートと、ニーソックス並びにローファを並べるだけでこの始末だ。
「そんなことはどうでも良い、あんたは誰だって訊いてる」
「僕? 僕はだから、さっきそこで公安に捕まってさ……」
「だから、職業とか身分じゃなくて、あんたのことを訊いてる」
「僕の、なんだって?」
「あんたのことだよ」
「僕は最近、自宅に映写機を導入したんだ。これからは好きな時に家で8ミリ映画が見られる」
「あんたの家の話じゃない。あんたのことだよ」
「ええ、だから僕はさっきそこで公安に捕まって……うーん、なんて言うんだろう、僕は豚になったような気分がする」
「豚?」
俺はさっき、スマホでやりとりしていた豚鼻アイコンの女の子を思い出す。
「そう。この気持わかる?」
「分からないし、俺はあんたの気持ちを訊いているんじゃない、あんたのことを訊いてるんだよ」
俺は段々イライラしてくる。ガムを噛む速度も上がっていく。このまま発火させてこの青年の性根を焼き払いたい気分だ。公安というのは、いわば倫理観のことだ。道徳の発展形としてその名を馳せる倫理は、もともと同じ語源を持つ言葉なのに何故か道徳の上位に置かれており、道徳としてはひどく不満を持っているらしい。だがまあ、仕方がない、ヒーローはいつも遅れてやってくるのと同じように、遅れてやってきた物のほうが質は同じであっても新鮮に見えるし、エライようにも見えるから。まあ、それ以上の意味はないんだけど。
「そんなに僕のことばっか訊いてさ、僕には君のことのほうがよっぽど気になるんだけど」
青年が困ったように言った。俺は当たり前だ、と返してやりたかった。自分にしか興味のない奴が他人と会話をしようとするのか?
「俺はこの土地に暮らしてる。趣味はサバゲー。好きな食い物はガム。最近欲しい物はテント」
つとめてぶっきらぼうに言ったが、俺の声音は青年に届かなかったようだ。
「へえ! じゃあ初任給で君にテントを買ってあげるよ」
「なんで?」
「だって、こんな可愛い子がさ、こんな廃墟みたいなところで暮らしてるだなんてダメだよ!」
「なら家を建ててよ」
「うーん、それには僕はちょっと力不足というか……」
「それなら力を貸そうと思うなよ」
この土地にテントがひとつ立っている様子を想像して、吹き出しそうになる。まるで難民キャンプだ。俺は曲がりなりにも、スマホを持っているんだから、それは勘弁願いたい。
「じゃあ、ガムを買ってあげるよ。何が欲しい?」
青年は落ち込むヒマもなく、次の提案をしてきた。
「何が欲しいって、ガムが欲しい」
「だから、どんなガム?」
「ガムはガムだよ」
「……いやだから、グリーンガムとかブラックガムとか」
「その選択肢にアマルガムは入ってるの?」
「虫歯なの?」
「冗談だよ」
俺は危うくガムを吐き出しそうになる。今の御時世でガムを路上に捨てる奴なんて、ガムを噛んでいる途中で不意の事故で顎を失った人間くらいだが、未だにガムを吐くというメカニズムが俺の中に存在していることが不思議だった。
「さっきから気になってるんだけど、君って女の子なの?」
青年は俺の髪の毛をつまんでくる。俺は反射的にその腕を払って、どっかりと距離を取り、幼さの残る相手の顔を睨みつける。
「なんで触った?」
「え……これ、自毛なの?」
「そんなことあんたは知らなくて良い。あんたが俺を女とみなすならそれはそれで構わないが、それで態度を変えるのはやめてほしい」
「ええ……でも女の子か男かわからないと、なんか……どう接したらいいかわからないじゃん」
青年はくよくよと、下を向く。上司に初めて叱られた新入社員さながらだが、俺にはその上司の気持がよく分かる。というか、俺が上司か。
「ふん、やっぱり公安に捕まった人達なんて、こんなもんか」
俺の言葉に青年はこくこくと頷く。
「そうさ。でも、僕は別に何も不自由を感じていないんだ。だって、公安なんて言うくらいなんだから、彼らのすることは全然間違っていないんだよ」
「不自由を感じないことはイコール自由じゃないって分かる?」
「分かる。でも、そういう問題じゃなくない?」
「そういう問題だよ」
「仮にそういう問題なら、君が女の子か男かという問題はフェルマーの最終定理並の重要性を帯びてくると思うんだよね」
「フェルマーの最終定理が何だか知ってるの?」
「知らない。けど、すごそう」
こればかりはこの青年が悪いのではない。公安が悪い。俺は親切なのでそう思ってやる。
一切自分のことを教えたがらない青年はほっといて、俺はスマホを見た。フェイバリットの数は六桁に突入し、リプライは二十超……この超の部分にどれだけの気の利いたテクストが詰め込まれているのか想像するのも恐ろしい。
雲を掴み損ねた1%が言っているに曰く、「もう東京着いたよ、これから飲もうよ」。
青年が俺がスマホをいじっているのを見て曰く、「スマホ持ってるんだ。連絡先交換しようよ」。
俺は息を吐いて、立ち上がった。何も言わずに、ローファを脱ぐ。ニーソックスを脱ぐ。青年はぽかんとして俺を見つめている。気にしない。スカートを脱ぐ。パンツを脱ぐ。上着を脱いでネクタイを脱いでブラウスを脱いでブラジャーを外す、そして最後に髪の毛をとる。
……私の裸体を見て、青年は絶句する。パクパクと金魚のように口を動かし、やがてひどくまずい料理を頑張って褒めようとするような不格好な調子で、
「い、いや……なるほど……そういうことなのか……」
「そういうことじゃない」
私はスマホをいじって、アイコンを変更する。一見するとただの料理に見える。でも、これは人間の臓器だ。一般にいうグロ画像を、私は自分の顔代わりのアイコンにする。
そうした瞬間に、1%と青年が同時に言う。
「なんだよ、同類かよ……」
青年は家の話もガムの話も忘れて、すっと立ち上がるとそっけない挨拶を残して立ち去っていった。雲を掴み損ねて東京に戻ってきた1%は、静かに私をブロックした。
私は脱ぎ散らかした服の上に座り、スマホを弄くる。私の身体には何の情報もない。あるはずのものも無い。たったそれだけのことで、私は餌としての価値を失ってしまった。同類とされてしまった。
でも、そうじゃない。私の胃袋に入ったケーキと、あの青年の胃袋に入ったガムが……果たして同類であると言えるのか。言えるのであれば、ガムがいつの間にか唾液に成り代わるのと同じレベルで、私はあの青年たちに近づいていく。でも、私はそうとは思えない。ケーキはケーキ以外の何物でもない。ガムはガム以外の何物でもない。私は私以外の何物でもない。あの青年もそうのはずだ。あの青年は、8ミリではない。
そういう意味では、私はこのゾンビ達から身を守るすべを持っている。私という同一性を、青年やAI達から遠ざけ、絶対の孤独に置く術を身につけている。
でも……できれば、もっと違う方法が欲しかった、と思わないでもない。
私はストリームに指を走らせる。フェイバリットは増え続ける。リプライも増え続ける。臓器がガムの話をするのが、そんなに面白いのだろうか。そんなに面白いことなのだろうか。いいや、面白いことなんて、本当は誰も求めちゃいなんだ。私の正体を、面白がる人なんて居やしない。AIは面白がる風に振舞っているに過ぎない。青年が、雲を掴み損ねた1%が興味をもったのは、私の振る舞いにすぎない。
私はこの土地に身体を横たえる。そして、口からガムを引っ張りだす。三日三晩噛まれ続けたガムは、ゾンビの肌の色のように青白い。私の──そして、俺の信仰があるとすれば、このガムという存在そのもののみである。それ以外に何もありはしない。この土地のように……廃墟だ。
私はこの土地と一体になりたいと願ったが、ガムが唾液と化さなかったのと同じように、その願いは生涯叶うことはなかった。
横光利一「頭ならびに腹」のもじり。もじる時はノリノリでもじるけど、後になって「なんて不遜なことを……」と頭抱えるのが難です。