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橙に沈む蟻の脚

(お題:君のプロポーズ )

 執着されることに喜びを感じる、という向きは、恐らく自身も偏執狂である。きっと。偏執狂同士の恋愛を見たことはないが、きっと大したスペクタクルだろうと思う。お互いに溜め込み続けたジェラシーを、東京の下水がごとく垂れ流して奔流させて、東京の下町を美しい水色で染め上げ、山の手から羨望の眼差しで見つめられる。当人たちは、見つめられる愉楽も知らずに。

 君というパラノイアを知ったのは、ついさっきのことだ。その証明はプロポーズという形をもってなされた。僕に断る蓋然性は一切ないのだけれども、それでも僕はちょっとその趣向に違和を覚える。僕は宝石のたぐいの美しさを認めないのだが、かといっておもちゃのメタファーとしての美しさも認めない。これは主義というわけではなく、単なる美意識の問題であってすべて僕に帰結する問題なのだけれど、流石に生き物をプロポーズの誓にされたのには閉口した。というか、伝統的なブライダルの文脈においては、そういう役割は僕がするべきなんじゃないかと思うが、それを目の前にした僕にはそんな情けなさが噴出する猶予もない。

 真珠を吐き出すアコヤガイとか、永遠の命を持つベニクラゲとか、世界一小さいカメレオンとか、世界一でかいトカゲとか、そういう特別性の何もない、一匹のどこのへんてつもない、しかも死んでいるアリ。世界最大の哺乳類に踏み潰されたとか、木の蜜に閉じ込められてもろともに結晶化されたとか、そういう特殊なプロセスを経て流通しているわけでもない、なんでもない、そのへんの幼稚園児にすら鹵獲が容易なアリの死骸。

 まあ、確かにキレイだった。ころりと丸まって、その小さな(キレイに磨かれた)シャーレに収まった小さな肉体は、哀愁のようなものをその空白で感じさせる。君はこんな戯れを実施したとは思えないほど真摯な表情で、僕に誓いを求めている。君のプロポーズは、アリの死骸を媒酌にして行われた。

 で、つまり、これは、無難なんだ。僕にとって。このアリの死骸という暗喩は。

 僕はこの種の偏執について何ら知識も無いから、端的にその言葉のイメージを経験と語彙と知識の上を滑らせるほかないのだが、君はあまりに僕のことを知りすぎているから、僕の一歩先をリードしているのだ。僕という人物について。

 プロポーズの舞台は、何の変哲もない海沿いの公園だ。時刻は暮れなずんでいない夕暮れ時。ゆらゆらと揺れる水面に、十年くらい前のテキスチャーみたいなオレンジ色が、ファールを犯した選手へ掲げるあのカードみたいに浮かんでいる。僕と君は、そこを足の動かし方を思い出すような塩梅で歩いて行った。

 僕のどこが好き? と問うと、君はふふ、と微笑んでみせる。その慣れた仕草は、僕の好む舞台俳優のそれとそっくりだ。それぞれの役者の決定的な差は、舞台の広さで、無限に演じ続けるのは変わらないが、その領域に強く偏りがある。君は僕に向かって、その精悍なところ、と全く思ってもいないような口ぶりで言う。どこだっていいのだ。だって、彼女の価値観はすべて僕から発している。僕は格好良くて良いツラを持っていてイカした声を持っている、精悍で男らしくて清潔でデリケートで優しくて強くて年収が良くて料理もできる。申し訳ないが、これ以上自分についての自画自賛を思いつくことができないのだが……僕を視界に閉じ込めた君にとって、この他を含む形容詞はすべて僕に符合する。すべて。

 だから、アリの死骸というのは、安牌に過ぎる。あまりにも僕について知りすぎて、無限の言葉を以っても僕について語りえない君(つまり語彙のすべてが僕のメタファーとして機能する君)にとって、どこにでもいるような昆虫の死骸というのは、何の意味をもたらさないことを意味している。そこに代入されたプロポーズの言葉を以って、君は創造を成し遂げた。僕と君の新たな地平を拓く天地を、このアリに見出した。僕に偏執する君は、絶えずアリを踏みつぶす事によって、僕にプロポーズを続けることに成功する。

 それは、単なる約束に過ぎないし、あらかじめ打ち合わせしておいたハンドサインのようなものである。だが、君という現象について言えば、これは画期的な出来事だった。僕について知りすぎた故に不可能だった創造、僕に新たな語るべき部分を追加した、という点において。

 あなたは私のどんなところが好き? 

 風が吹いて、君の髪の毛を撫でた。君は少し笑い、細やかな指先で顔に絡みついてきた細い髪を、つまんで剥がす。はらりと垂れたその繊維を、僕は愛おしく思う。

 アリの死骸に、君のプロポーズを代入しちゃうところ。

 圧倒的な違和というのは、僕がそれに気づいてしまったということ。やっぱり、僕もまた偏執狂なのである。そういう狂いもの同士がくっついて、子どもを育てていくとどうなるのだろうか。そんな子どもは幸せか? だが、その問いは全くのナンセンスである。何故なら、僕は君の執着について喜びを感じないから。喜びとはつまり君自身のことであり、君にとって喜びとは僕自身のことなのである。こういう視界においては。

 太陽はとっくに地平線に没した。風はとっくに水面の彼方へと消えた。

 僕達もとっくにパラノイアを脱した。僕は君から受け取ったシャーレから、アリの死骸とアスファルトの上に置いた。ささやかな結婚祝賀会の、いちばん最初の客だったから。


文体に拘って書いてたら、内容がすごくなりました。なんというか、濃いくなりました。よそ見してたら、カルピス原液入れすぎたような小品。

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