彼女が悲しみを拒むまで
(お題:悲観的な食器)
おはよう、と挨拶しながら彼女は姿を現した。彼女は少女である以上のステータスを持っておらず、しかしながら美しくなることが確定している。美しいということは、他の人にとっては喜ばしい事態ではあるものの、本人にとってはそれだけではなんにもならないことで、例えば自らの器量をより高めていくという動機があって初めて本人にとって美は美たりうるのであり、いまおはようと告げて僕らの目の前に姿を見せた彼女にとって、その美しさは大した問題ではないし、今後の展開如何によっては鏡を見た瞬間に己が美しさに絶望して涙を見せてしまうかもしれない。僕らにはとことんその美しさと感傷を魅せつけておきながら、彼女は一向に自分のことを省みずに、ただそうやって指定された計算の解を弾き出していく何かになってしまう可能性もある。
さて、彼女のお相手は悲しみである。悲しみ、最もポピュラーな感情で、ギリシャ悲劇からずっと活躍している最古参の存在で、僕らは悲しみに触れてやらないと心が強張っていってしまうから、しばしば悲しみを摂取しなければならない。彼女もそうである。
彼女は丸いクッションに腰を下ろして、悲しみを真っ向から見据える。悲しみ、というのはもちろん抽象的な概念なので、本日は便宜上食器の姿をとってもらっている。トレーの上に一枚の丸い(目玉焼きの載った食パンの似合いそうな)皿、フォーク、スプーン、そして小鉢。食事の後なのか、飯を抜きにされたか、どっちにしろ悲しさを感じさせる居住まいで、彼女の向かい側に腰を据えている。
「やあ、はじめまして、悲しみです」
悲しみは自己紹介した。彼女はその言葉に少したじろいだ様子を見せる。
「はじめまして……私の名前は?」
「あなたの名前? そんなものは誰も記憶していませんし、してもらう必要もない。あなたはあなたでしかないし、ワイにかかればあなたはワイを共有する有象無象の一端にすぎないのですから」
悲しみは滔々と告げる。彼女は流石に困った表情を見せた。
「では、私が決めて良いですか? つまり勝手に決めても問題無いというわけでしょう?」
「問題はありません。ただ、ワイを摂取する時間がちょいと減る」
「問題無いですね。えっと……私は巣平峰と名乗ることにします」
「すだいら。ほう」
悲しみは、まるで名簿に名前を書き込む役人が確認するように、その名前を口にした。それからかちゃりと、食器を粟立たせる。そして、さっきと口調を変え、報告書を読み上げる軍人のような調子で、次のように言った。
「あなたはヒロインだ。あなたはとある少年と恋をする。少年は……落ち着いた黒い髪をこさえた高校生くらいの年齢で、目はハッキリとして少しつり目気味、鼻はシャープに立ち、口元は端正だ。声は高めだが、しっかりとした芯があって、カラオケではアイドルの曲よりもロックが似合う。そいつとあなたは、夕暮れの街で出会う。あなたは丁度……今のワイみたいな食器を購入しようとしていると、彼が追手に追われて店内に踏み込んでくる。あなたはとっさに手にとったワイを……フォークを、投げつける。それが出会い。それから、あなたは危険を承知で彼の旅に随伴し、最終的に彼が追手に追われている理由を知る。つまり、『遺伝子』だな。JOY、と呼ばれる遺伝子だ。奇しくもワイと対になるそれを、ワイに変換するために、彼は追われている。そこであなたは、あなたの『遺伝子』を敵方に提供することを決意して、あなたは彼の身代わりに自らの遺伝子を真逆の性質のものにしてしまった。それが」
「SADNESS」
「サッドネス。悲しみではない。が、同質である。そして、彼はひどく悲しむだろう。悲しみに悲しみ果て、結局自らの感情を持って自らのコードをSADNESSに変換していく。観客はどう思うだろう。この物語を」
「悲劇と言うでしょうね」
「まさに悲劇だ。ロミオとジュリエットのようだな」
彼女の、その返答を聞いた僕らはあまり気分が宜しくなかった。確かにあの悲観的な食器が語る物語は悲しい。悲しみにあふれている。たぶん。でも、その当事者がそれを悲劇とまとめてしまうことに疑問がある。亀が自分の甲羅について、防具である以上に自らの身体性を支える抽象的な防壁であることを自認するのと同じくらい、何かがほしいのだ。
すると、彼女は僕の方を向いて、にこりと笑った。なるほど、美しかった。まあ、見てなさい、と。
「悲しみさん。それが、物語というものですか?」
「……その通り。物語ですよ」
彼女の問に、食器は答えた。面接官じみた、少し高圧的な態度。滲む優越感。悲しみは、自らの優位性を確信している。需要がある。求めている人がいる。失恋をした人、或いは失恋すら出来ない人とか、そもそも彼女のような美しい人に笑いかけてもらえない人、劣等感にまみれた人、或いは優越感にまみれた人。世の中に張り合いを感じない人、逆に張り合いを感じたい人、感じたくない人。彼らは皆一様に悲しみというスペクタクルを求めている。求めているのよ。分かるわよね?
彼女は、すっと手を伸ばし、トレーを自分の元に引き寄せた。陶器のように白い手で、銀のフォークを手に取り、陶器の皿を見下ろす。
「おっと……、食事の時間ですか?」
悲しみは訊いた。彼女は答えず、フォークを思い切り、皿に突き刺した。
パリン、と悲しみは軽い音を立てて割れた。彼女はそれを見届けてから、静かにフォークを元の位置に戻す。
「物語が破綻しました」
悲しみが告げる。彼女は先生に褒められたように、相好を崩した。
「そう、良かった」
僕は立ち上がって、食器を急いで片付けた。割れた皿はゴミ袋へ、使用済みの食器は水たまりの中へ。彼女はベッドルームへ。いつか、また立ち上がる日のために。
矛と盾の対決は矛の勝ちでした。




