猫と奴隷
僕たちは労働の対価として土地をもらい、賃金をもらい、その土地を収める人と契約をして万人に対する闘争を回避していることになっている。そういうわけで、このルールがどこかしらで破綻すると、僕たちは非常事態に置かれることになるけれど、実はこのルール自体が別に自明でもなんでもないことを学んでしまうと(そのことを知らないせいで僕らは不当に搾取されたりするわけで)、逆にいま僕達が政治というのを誰かに丸投げして安穏と過ごしているいまの生活そのものが非常事態なんじゃないかと思う。
そんなことに思いを馳せるのは、僕が一度だけ侵略に加担したことがあるからだ。いや、それが侵略であるかどうかというのは分からない。魯迅という作家の「賢人と愚者と奴隷」という寓話は、愚者という侵略者を追っ払った奴隷が何を得たわけでもないのに嬉々として主人に報告する様が描かれているが、僕のポジションはこの奴隷のようなものだからだ。
僕は高校の時に通学に自転車を使っていたが、大学に入ってからは専ら電車で自転車を使うことはなくなった。自転車は親の管理している貸し駐輪場の、整備されていなくて客に貸し出せない領域に放置しておいた。
で、大学に入って一年目くらいの時、僕は地元の友達にボーリングに誘われた。免許はまだ持っていなかったから、自転車で行こうと駐輪場に向かうと、なんとまあ、自転車のカゴの中に猫が眠っていた。カゴの大きさがピッタリなのだろう、器用に身体を丸めて眠りこけている。
もちろん野良猫なので、僕が近づくと流石に目を覚ましてさっさと逃げていった。高校の時はカゴの底に、いつ雨に降られても平気なようにカッパを置いていたのだが、それがいい感じに温床になるらしい。僕は猫が好きなので、大して気にもせず自転車を出し、ひとしきり玉転がしを楽しんだ後、おんなじように元に戻しておいた。
それから数カ月おきごとに僕は自転車を使っていたが、だいたい半分くらいの割合で猫はそこで眠っていた。しかも、毎回違う猫だ。毛並みも体格も違うからすぐ分かる。きっと彼らの社会で、僕の自転車のカゴはひとつの避難所として、公平に分配された資本だったんだろう。僕はそれをずっと黙認していた。
大学を卒業して就職をしても僕は実家ぐらしのままだったが、ある休日に母親からこう言われた。お前の自転車を猫が根城にしているけど、あまりにも汚すぎるのでどうにかしろ、と。
就職してからは随分とご無沙汰していたが、僕の自転車は……野生化していた。猫達は資本の蓄積を覚えたようで、カッパの隅っこに餌を溜め込み、また自由にトイレをしているらしくて、タイヤまで茶色の乾いた汚れが付着している。
「どうせ使わないなら捨てなよ」
猫に対してなんの関心もない母親は軽い調子でそう言って、業者に手配をした。僕は抵抗しなかった。だって、あの自転車はもともと僕の所有物だし、それを保管しているのは親の所有物であるこの駐輪場に於いてだ。
野生化した自転車はあっさりと業者の手によって回収されていった。僕は自転車があった辺りに水をまいて、猫の匂いを消した。その様子を、駐輪場のフェンスの外側から二匹の猫がじっと見ているのに気がつくと、急に罪悪感が湧き始めた。僕は彼らの避難所を奪ってしまった、侵略者なのではないかと。猫なりの社会を奪ってしまったのではないかと。
でもきっとそうじゃない。彼らは非常事態を眺めていたんだろう。だからあんな侵略される人々のような瞳で僕を見ていたんじゃないかと、僕は思う。だから、水をまく僕は、奴隷で、正しいのだ。
猫に自転車を占領されていて、それを奪い返したのは実話です。それ以外はフィクション。最初からこの話を書こうと決めていたので、お題をすっかり無視してしまいました。