線、曲がりにも、光
(お題:刹那の超能力)
深夜の街の稜線に、狂人に三日三晩研がせた刃を以って通わせたような、一本の線がある。それは、滑らかな曲線を描き、向こう側の世界を暗示させるような淡い光を、もったいぶるように滲ませていた。まるで、神が空間にこしらえたファスナーのようだった。しかし、それは線であるから両端を必要とせず、闇の続く限りどこまでもどこまでも、煉獄を取り囲んで尚余るだけの光景を演出している。
仮にその線を境界であるとすると、こちら側とあちら側を僕達は認識する。僕は当然こちら側にいる。でも、僕はあちら側にいる僕を想定せずにはいられない。思いを馳せずにはいられない。その喉を震わせて紡ぎだす音声が、この僕の声音と同調するかどうかを確かめたいと、思わずにはいられない。
僕は深夜の街を徘徊し始める。人々は明るさを求めて家に閉じこもっていた。なんといっても、手頃なのだ、我が家の灯りは。外灯の光のように、誰かから命令されて黙々と照らしているのでもなく、太陽の光のように、絶対的な暴力性を以って照らしているのでもない、確かに、僕達を受け止めてくれる確実な灯りなのだ。窓を覆うカーテンの隙間から溢れる、肉が焼けるように差し込む光の匂いに、僕はむせ返りそうになる。僕は超能力者だから、その光が本当のものではないと知っている。そこにある虚偽を見破ってしまうのだ。
いや、これは虚偽なんかではない、と僕は識っているし、僕は超能力者なんかじゃない。その虚偽を創造したのは他ならない我が家の人々だ。だから僕はそれを虚偽と言うことなどできないし、その元に散らばる無数の骸の臭いにも顔を背けることはできない。骸……そう、死体だ。死体はどこまでもモノでしかなく、僕に何らかの物語を残さない。物語を編むのはいつだって、自分だ。僕ではない。そして、物語はいつだって虚偽を孕み、出産する。僕はその血の匂いに似たものに、同情も感慨も抱くことはない。その理論の上では、僕は超能力者なのであるし、我が家の光に導かれる人々は非超能力者だとも言える。
夜が深くなってくる。抽象のまま現実する一筋の線は、僕の方へと近寄ってくる。気持ち悪いほどに体現されたその曲流に僕は指を伸ばすものの、線に触れることはできない。ただ、指で聞くことはできた。嗅ぐことはできた。感じることはできた。そこから伝わってくる途方も無い情報量に、僕はたじろぐ。その情報の母体は他でもない、あちら側の僕に他ならなかった。鏡の裏表に限りなく接近した僕は、指を伸ばし続ける。僕は僕を感じようとするし、僕も僕で僕を感じようとしている。
その刹那が、希望に満ち足りた最後の瞬間であったことは言うに及ばない。
瞬間、僕は超能力を失った。線は失望したように跡形もなく消失する。
僕は深夜の街の汚いアスファルトに蹲り、指先をじっと見つめた。声も匂いも空気も全て僕の指に収まり、零と一に還元されて砂時計の砂のようにさらさらと闇の中に落ちていく。白く銀色に輝く粒子が足元に溜まっていくのを、僕は声も無く見守る。鯨の髭を撫でるような振動を、僕は目を瞑って見守る。
たったそれだけの営為をするためだけに、僕ははるばるここに来た。そして、たったこれだけの営為をするためだけに、僕はどこまでだって行くだろう。気狂いの果ての果てに、この指先から迸る粒子を結晶化するだけの超能力を、得ることができるならば、どこまでも。
自動筆記的に、本当に思ってることそのまま書いたらこうなった的。
夢小説ぽいですが、夢ではなく幻想小説の類かと。分かりません。ジャンル分けってわからないです。