第10章 第3話
水曜日、今日は桜ノ宮家にお呼ばれの日だ。
「お兄ちゃん行こうよ!」
放課後、教室の入り口で礼名が手招きをする。
家には帰らず制服のまま直行予定。だけど手ぶらで行くわけにもいかず、道中お遣いものを買わなきゃいけない。
「羽織袴の桜ノ宮代議士には絶対和菓子だと思うんだ」
礼名は校門を出ると、バス停を通り過ぎて歩いて行く。
「美味しいって話題のいちご大福のお店があるんだ。きっと綾音先輩も喜ぶと思うよ」
ふうん、いちご大福か。なるほどいい線突いているかも知れない。でもいちご大福って結構いいお値段するのに一口で終わっちゃうんだよな。大福ひとくち二百円、みたいな。確かに美味しいんだけど、貧乏人としては高嶺の甘味だよな。
「日頃和菓子なんか買わないのに、礼名はよくそんな情報知ってるな」
「えっとね、すみれちゃんに教えて貰ったんだ。知ってるでしょ、田代すみれちゃん。そこのいちご大福はバイト先のメイドさん仲間の間で大人気なんだって。メイド喫茶のね!」
「そうか、メイド喫茶、ね……」
マンガやアニメの影響か、メイド喫茶なる存在は知っているけど、実は一度も行ったことがなかった。興味がない訳じゃない。と言うか興味は凄くあるんだけど…… 一度行ってみたいよな。ああ行ってみたい行ってみたい。お帰りなさいませ、ご主人さまっ! とか、美味しくなあれっ! とか言われてみたい! だけどさすがに、礼名の友達が働いている店には行けないよな。
「そうだお兄ちゃん、すみれちゃんのお母さん、新しい働き口が見つかったんだって。少しは楽になるかなって喜んでた。綾音先輩のお父さんの紹介らしいよ」
「それは良かった。だったら田代さんはもう毎日バイトしなくても済むんだ」
「だけどあそこは小学生と中学生の弟さんもいるし、出来るだけ頑張りたいって言ってた。そうそう、今度バイト先に遊びに来てねって誘われちゃったよ。お兄ちゃんも興味あるでしょ、メイド喫茶」
こいつはいつも核心を突いてくる。実は僕の脳内を読んでいるのだろうか?
「何言ってるんだ、そんなの…… 大ありだ! メチャクチャ興味アリだ!」
「だと思ったよ。今度一緒に行ってみようか?」
「うんうんうんうんうんうんうん!」
「うんは一回でいいよ」
そんな、たわいもない話していると、和瓦に青いのれんが掛かった和菓子屋さんが見えてくる。
僕たちはメイド喫茶で評判と言ういちご大福を十個ほど買うと、時間つぶしに近くの公園に立ち寄った。
「ねえ、お兄ちゃんも『お帰りなさいませ、だんな様~っ!』ってやって欲しいの?」
「あ、うん。そのさ、何でも一度は体験してみたいって言うかさ……」
「ハッキリ言おうよ。お兄ちゃん好きなんでしょ。じゃあ今度礼名がやってあげよっか?」
「えっ?」
首を少し傾げて、にこり微笑む礼名。
「お家で礼名がお兄ちゃんの専属メイドになってあげよっか!」
くりっと大きく澄んだ瞳が僕を優しく覗き込んでくる。どんな宝石より綺麗なその瞳の中に僕は想像してしまった。
礼名のメイドさん姿を。
肩で切り揃った黒髪がサラリと揺れて、そこから覗く白く妖麗なうなじ。
彼女の魅惑的なその瞳で見つめられると心臓が破裂しそうだ。
『美味しくなあれっ!』
ピンクの可愛いメイド服からすらり伸びるしなやかな手でケチャップ絵を描きながら、にこりと可憐な笑顔ひとつで僕の心臓にトドメを刺す。
『礼名はお兄ちゃんの専属メイドだよっ! お兄ちゃんの好きにしていいんだよっ!』
「お兄ちゃんどうしたのっ! 凄い鼻血! はいっ、ティッシュ!」
足元に、ドバッと吹き出す赤い血に我に返る。
「あっ、ごめん」
「大丈夫? お兄ちゃんは上を向いて。ティッシュ替えるね」
情けない事態になった。
ティッシュを替えると僕の服に血が付いていないか念入りに確認する礼名。彼女の髪から仄かに甘い匂いがティッシュを詰められた鼻をくすぐる。礼名が近い!
「お兄ちゃん、なかなか血が止まらないね。ティッシュ替えるよ!」
ティッシュから染み出す鼻血を見て甲斐甲斐しく取り替えてくれる礼名。ダメだ。想像しちゃダメだ。彼女を感じちゃダメだ。落ち着け! 落ち着け自分!
「服は大丈夫みたい。はい、次のティッシュだよ!」
「ありがとう」
「黙って上を向いてていいよ。それにしても凄いね。鼻血ブーだね。全国的に」
「面目ないな……」
僕は礼名を意識しないように話題を探す。
「そうだ、倉成さんをロマンスティーセットに招待したじゃないか。今度の日曜日なら時間が取れるってさ」
「やった! よかったねっ。礼名頑張って喜んで貰うねっ」
上を向いているので彼女の顔は見えないけれど、弾む声から気持ちが伝わってくる。日本を代表する財界人の倉成壮一郎氏は、僕の産みの親でもある。だからこそ僕らのために一肌も二肌も脱いでくれたのだが、礼名はそれを知らない。礼名が彼の行動にとても驚き、そして凄く感謝することも当然だ。
「そうだね、精一杯楽しんで貰おう」
「はいっ!」
「あとね、来週の月曜……」
「来週の月曜?」
今回の騒動の元凶は桂小路の祖父だ。僕は彼と話をする約束を取り付けた。もうこんな回りくどいやり方は許せない。礼名のためにも…… って、そうだった。これは僕ひとりで乗り込む予定。礼名には秘密だった。
「あ、ごめん。何でもない」
「…………」
カア~ カア~
遠くにカラスが飛んでいくのが見える。
「あ、カラスだね」
礼名も僕と同じ空を見ているのかな。ずっと僕に寄り添っている。
「うん」
そうして、ゆっくりと時間は流れて。
「鼻血、やっと落ち着いたみたいだね。ねえお兄ちゃん。さっきはもしかして、礼名のこと想像してくれたの? だから鼻血が出たの?」
「ち、ちがうよ。何故かな、鼻の穴の毛細血管の鍛え方が足りなかったかな」
何言ってんだ、僕。
「なあんだ違うのか、残念」
彼女は足元の石を蹴り頬を膨らます。
「やっと礼名の魅力に気がついてくれたかなって思ったのになっ」
「礼名、もうそろそろ時間じゃないか」
「あっ、そうだね。じゃあ行こうか」
僕は鼻にティッシュを詰めたまま公園を後にした。




