第8章 第4話
一夜が明けた。
火曜の一時限目はクラス担任、小田先生の数学だ。
「と言うわけで、三角関数の定義はネコでも知っているネコ定義だから、この答えはネコでも分かるよな。はい岩本!」
そこまで言われて答えられなかったら辛いでしょ、小田先生。
「えっと…… ええっと~…… マイナス二分の一です」
キンコン カンコ~ン
「ネコ以下にならなくてよかったな、正解だ。じゃ今日はここまで。あ、神代、ちょっといいか」
そう言うと小田先生は僕を手招きしながら廊下に出る。
「昨日の話、ホントに済まないな。最初、学校は了承していたのにな。でも凄い圧力が掛かったらしいんだ。校長もああ言うしかなかったんだろうよ」
「ええ、それは分かっています」
「俺に出来ることがあったら何でも言ってくれ」
「ありがとうございます。だったら、ひとつ聞いていいですか?」
「ああ、勿論だ」
だけど。
小田先生も黒毛の正体は知らなかった。
……失礼、黒幕の正体は知らなかった。
「ごめん、俺も知らないんだ。ただ、教育委員会も、更に上から圧力を受けているらしい」
僕が小田先生と話し終え席に戻ると、麻美華が声を掛けてくる。
「何か分かった?」
「ううん、何も新しい情報はないよ。だけど、困ったことがあれば相談に乗ってくれるって」
朝の話では、さすがの麻美華のパパも新しい情報は掴めなかったらしい。
「如何せん情報量が少なすぎるわよね。先ずは地道に校長から当たってみるわ。生徒会も動かそうかしら」
みんな僕たちを応援してくれる。ありがたいことだ。
昼休みになると麻美華は生徒会室へと姿を消した。
僕は岩本と弁当を広げる。
「昨日校長室に呼ばれてたけど、どんな話だったんだ?」
「いや、実はさあ……」
岩本は気の置けない親友だ、隠す必要はない。僕の話を聞くと彼は唸った。
「ううむ…… やっぱ僕らは子供扱いなんだな。しかし神代も大変だな……」
少し暗い雰囲気で弁当を食べ終わる。
物思いに耽っていると、僕を呼ぶ声が聞こえた。
「お兄ちゃん! ちょっと!」
礼名だ。
手招きする彼女について廊下に出ると、見覚えがある女生徒がひとり。
「こんにちは……」
そこに立っていたのは深緑の髪をショートカットにし、飴色の眼鏡を掛けた小柄な女の子。
「君は確か、田代さん」
礼名が倒れたときにお見舞いに来てくれた、礼名のクラスメイトだ。
「ちょっと屋上に行こうよ、お兄ちゃん」
礼名は僕の目を見てそう言うと歩き出した。一緒についてくる田代さんは心なしか元気がないみたいだ。
「どうしたんだ?」
「実はね、昨日の校長室での話だけど……」
どんよりと曇った空の下、僕たちは屋上から運動場の方を眺めながら並んで立った。
「わたし達の話って、田代さんにも当てはまるんだ」
「えっ? どう言うこと?」
「わたしが話してもいいかな」
青ざめた表情の田代さんに声を掛ける礼名。
「大丈夫、自分で話すわ。あの、あたし……」
田代さんは前を向いたまま、小さな声で淡々と語ってくれた。
彼女は母子家庭で弟がふたりいるらしい。お母さんは離婚してからと言うもの肉体的にも精神的にも不安定になり、まともに働けていない。そんな事情から彼女は毎日放課後メイド喫茶でバイトしている。勿論土曜日も日曜日も。
「だから、あたしの状況って礼名さんと同じなんです。勿論バイトのことは学校の許可も取ってます。ただ、普通の喫茶店って事にしてますけど。メイド喫茶の方が時給がいいんですよ、でも先生にはなかなか言えなくて……」
「気にしなくても田代さんは校長先生に呼ばれた訳じゃないんだろう?」
「はい。でもいつ呼ばれるかって心配で。うち、離婚話がこじれてて生活保護もまだ受けれてなくって、だけど弟たちは育ち盛りだし、たくさん食べて欲しいし……」
僕には言葉がなかった。ふつふつと桂小路への憎しみが湧いてくる。
「ごめん。僕たちのトラブルで迷惑掛けてしまって」
「迷惑なんて、とんでもない!」
彼女は両の手の平を振りながら驚いたように。
「あたし、礼名さんと出会わなければ、とっくに学校やめてたと思います。だけどそれじゃダメだって、一緒に頑張ろうって、いつも励ましてくれたのが礼名さんなんです。だから迷惑どころか、すっごくお世話になってるんですよ」
桂小路は回りくどいやり方で、関係ない人をこんなに困らせて。こんなに悲しませて。だけど、黒幕の正体すら分からない僕には何も出来ず、とてももどかしかった。




