第1章 第3話
翌日も朝からオーキッドは常連さんで賑わっていた。
「昨日はどうでしたか?」
「聞いてよ礼名ちゃん、凄かったのよ! 連チャンに次ぐ連チャンでね。もうバカ勝ち。礼名ちゃんが応援してくれたお陰よ!」
「あたしも勝ったわよ。ちょっとだけど」
「ふたり揃って勝つって一ヶ月ぶりだよね」
「それはよかったですっ!」
自称「パチンコ乙女」の太田さん細谷さんコンビと手を取り合って、自分のことのように喜ぶ礼名。
「なので今日は『乙女の特製スペシャルモーニング』をふたつねっ」
「えっと、うちにそういうメニューはないんですけど……」
「いつものモーニングにプリンとアイスを添えてくれればいいのよっ!」
勝手に店のメニューを創作する太田さん。礼名が困った顔で僕の方を見る。僕は指を六本立ててにっこり笑った。
「はい、六百円になりますが宜しいですか?」
「勿論!」
昔、母もお客さんの勝手な創作メニューに応えてきた。それでお客さんが満足するのならお互いハッピーだと、いつもそう言いながら。僕は母の意志を継ぎたい。勿論、出来ないものは出来ないと断るつもりだけど、お客さんも出来ないことは頼んでこない。
からんからんからん
「いらっしゃいませ~……」
珍しく礼名の声が尻すぼみになる。
洒落たグリーンのスーツに黒い革の鞄を持ったお洒落な男性客、朝日さんだ。
「今日もいらして下さったんですか、ありがとうございます」
少し皮肉を込めているのか、事務的な笑顔で礼名が案内する。
「今日はカウンター、いいかな?」
「あ、はい。かしこまりました」
朝日さんをカウンター席に案内すると礼名はお冷やを差し出す。
「こちらの方がゆっくり話せていいですよね」
「えっと、ご用件は多分三秒で終わると思いますけど」
「三秒と言うと、「オーケー」ですか」
「いいえ、「オーケー」だと一秒掛かりませんよね。正解は、「はっきりキッパリファイナルアンサーは全力でお断りしますっ」です」
はあっ、と大きく溜息をついた朝日さん。
「凄い早口でしたね。でも確かに三秒だ」
高そうな腕時計から目を離すと礼名を見つめる朝日さん。
やおら彼はお冷やに口を付けるとカウンターに立てられたメニューを見やる。そして今日はケニアAAを注文する。
「とてもいい話だと思いますけど、どこが気に入らないんですか?」
「まず、そもそもわたしにはアイドルになる資格がありません」
「資格? あなたには充分それがありますよ。ありすぎちゃって困っちゃうくらい」
「いいえ、わたしには男の人の影があるんです」
そう言うと、まだまだ発達途上の胸を張る礼名。
「男の人の影?」
「はい、そうです。アイドルにスキャンダルは御法度。ステディな彼がいるなんてもってのほかのはず。しかしわたしには熱く熱く愛し合い、将来を誓い合い、日夜暮らしを共にする素晴らしい彼がいるんですっ!」
「そんな情報はなかったけど……」
今まで余裕の表情を崩すことがなかった朝日さんが初めて焦りの色を見せる。
「礼名さんは高校生になったばかりですよね。それなのに将来を誓い合うって……」
「はい、ひとつ屋根の下で毎日わたしの手料理を食べて貰って、あんな事やこんな事やで毎日がいちゃいちゃなんですよ」
「そ、その事をお兄さんは知っているんですか?」
急に僕を見る朝日さん。
しかしその質問に礼名が答える。
「そう、その人こそ、ここにいるお兄ちゃんです! 見て下さい、わたしとお兄ちゃんの間にはしめ縄より太く赤い糸が見えますよね。わたしとお兄ちゃんはご覧の通り熱々の小籠包より熱くて猫舌のわたしは毎日火傷し放題なんですっ」
言ってることが微妙にずれてるぞ、礼名。
「ははははっ! なあんだ、そう言うことですか」
しかし朝日さんは楽しそうに笑った。
「お兄さんと同じお家に住んで、お兄さんと同じ食事を食べて、お兄さんが大好きでも全然問題ありませんよ。むしろ微笑ましい」
「勘違いしないで下さいっ」
礼名は可愛くほっぺを膨らます。
「わたしとお兄ちゃんは恋人同士で近い将来結婚するんです。そしてヤルこともきっちりやって、可愛い男の子と女の子に恵まれて、慎ましやかでも家族仲良く水入らず、いつまでも幸せに暮らすんです。めでたしめでたし、なんですっ!」
「あのう、お兄さん。礼名さんとは実の兄妹ですよね?」
コーヒーを淹れていると突如、話を振られた。
「はい、そうです。正真正銘、血の繋がった実の兄妹ですよ。キッパリ」
言い切ると、礼名はキッとなって僕の方へ向き直る。
「お兄ちゃんもまだ正しく理解していませんねっ! 何度も言いましたが兄妹婚の禁止という法の下の平等に反する規定に対し、やがて世界中の妹たちが高らかに声を上げるんです。そして各国の法廷闘争においてわたしたちの正しさが認められる事になるのです。それが歴史の流れです。歴史的エントロピー増大の方向なんです。いいですか、全血の兄妹婚は古代エジプト王家でもよく見られるんですよ。言わば前例があるんです。ファラオの行いは常に正しいんですっ!」
「うん、その話は何度も聞いたけど、無理だね。遺伝的リスクが高すぎるよね」
「お兄ちゃんは若いんだからもっと自由な発想をすべきですっ。ねえ、朝日さんもこの石頭の堅物な兄を説得して下さいよっ!」
おいおい、変な方向で朝日さんを巻き込むなよ礼名。
しかし朝日さんは笑顔で軽く流している。
「うぐぐぐ…… お兄ちゃん、そうやって余裕かましていられるのも今のうちだけなんだからねっ!」
「おっ、礼名さんはツンデレも出来るんだ」
朝日さんは楽しそうだ。
「いや、礼名はツンがなくてデレだけのような気もしますが。はい、お待たせしました、ケニアAAです」
カチャリ
カップを朝日さんの前に置くと、彼は僕たちふたりを見て。
「これ以上ない最高の妹キャラだね。礼名さんのこと、ますます気に入ったよ」
彼は僕が淹れたコーヒーをそのままひとくち啜ると、カップを右手に持ったまま。
「実はね、僕がここに来たのは、とある人から頼まれたからなんだ。最初は、どうせまた身内贔屓の話だろうって思ってたけど、今では礼名さんにぞっこんだ。だから」
カチャッ
「気長に待つことにしますよ。それにここのコーヒーは掛け値なしに美味しい、何度も来たくなる、いいお店ですよ」
それから朝日さんは芸能界の面白い話を色々聞かせてくれた。華やかな舞台の裏では地道な仕事がいっぱいなこと、やっぱり何処も人間関係は難しい事、特に女性のそれは大変なこと、などなど、僕らの知らない話ばかりでとても面白かった。ただし実名は伏せられていたけど。
「礼名さんのことも教えてくださいよ、趣味とか特技とか」
いつの間にか僕たちは朝日さんと打ち解けていて。
いや、朝日さんが礼名のペースに乗せられたのかも。
「はい、わたしの趣味はお兄ちゃんです。特技はお兄ちゃんです。それから毎日の日課はお兄ちゃんと一緒ですっ!」
「はははっ。礼名さんのブラコンっぷりは常軌を逸しているね」
「ブラコンではありません、純愛と呼んで下さいっ!」
僕の事だと時々会話が成立しなくなるよな、礼名。
だから思わず口を開いた。
「以前はピアノを習ってまして、だからピアノを弾くのが好きでしたね。あと、バレエもやってました。今はどちらもやめてしまいましたけどね」
「でも、ピアノだったら、習わなくても気が向けば弾けますよね」
「ええ、ピアノがあれば、ですが」
「……」
「色々あって、うちにはもうピアノがありません。今、彼女の趣味と言ったら学校の教科書を読むことくらいですかね」
嘘ではない。最新のマンガも買えなくなって、最近は予習と称して去年僕が使った一年の教科書を面白そうに読みふけっている。ホントに面白いのだろうか、コイツ。
「お兄ちゃん、嘘を言わないでください。朝日さん、わたしの家にはお兄ちゃんがいるんです。別の言い方をすると家の中にはお兄ちゃん以外の娯楽施設は何ひとつありません。でもお兄ちゃんはとても面白いんですよ。わたしは毎日、最新鋭のお兄ちゃんで遊んでます。お兄ちゃんは操作が簡単ですっごく楽しめて、全然飽きないんですよっ!」
その大きな瞳を輝かせ、僕をゲーム機のように扱う礼名。
そう言えば、やりかけのまま売ってしまった美少女ゲーム、礼名も一緒にやっていたんだっけ。
「はははっ。このお店は本当に楽しいよ。じゃあまた来ます。礼名さん、気が向いたらいつでも連絡くださいね。あ、僕以外のスカウトに引っかかったら怒りますよ」
からんからんからん
黒い革の鞄を持って朝日さんは出て行った。
今日も仕事があるらしかった。
「ねえねえ、礼名ちゃん、さっきの話ホント? そんなに悠也君が好きなの?」
ドドドドドドドドッ!
朝日さんが去って行くや、聞き耳を立てていた常連さん達がカウンターへ押しかけてきた。
そんな耳年増なギャラリーの前で礼名は高らかに宣言する。
「はい、わたしはお兄ちゃんが大好きです。結婚を前提にお付き合いしています!」
おおおおおっ!
「ちょっと待って。あの皆さん、これ冗談ですから。分かるでしょ、僕と礼名は実の兄妹で結婚なんて出来ませんし、あの細谷さん写真撮らないでください、結婚記者会見じゃないんですから。高田さん何ですか、この大きな松茸は? えっ、結婚祝い? 何言ってるんですか、意味分かりません。あのう、これは、すき焼き用の霜降り肉? だから三矢さんも勘違いしないでくださいよ、そもそも僕も礼名も結婚できる歳にもなってないんですよ。何ですか太田さんまで、これってまさかコンド…… 避妊具ですか? しっかり持ち歩いていたんですね。えっ、私にはもう使える見込みもないしプレゼントするって? いや諦めちゃダメでしょ、太田さんが使って貰いましょうよ。そのために先週も婚活パーティーに行ったんですよね!」
激しく祝福されてしまった。
勿論みんな遊び半分冷やかし半分の単なる悪ふざけだけど、礼名は完全に有頂天だ。
「ありがとうございます。ありがとうございます。もう一度ありがとうございますっ! 皆さん、これからもわたしとお兄ちゃんの愛の軌跡を暖かく見守ってくださいねっ。あっ、でもお祝いの品はわたしがヴァージンロードを歩くその日まで受け取れませんからねっ」
ふたりの結婚は既成事実と言わんばかりに語りまくる礼名。
かくして、彼女が常軌を逸したブラコンであるということはカフェ・オーキッド常連さんの共通認識と化したのだった。