第5章 第3話
土曜日の朝七時。
カフェ・オーキッド、開店。
「いらっしゃいませ~っ!」
いつものように一番乗りは八百屋の高田さん。
「おはよう礼名ちゃん。やっぱりいつ見ても別嬪さんだね~!」
そう言うと周りを注意深く警戒しながら言葉を続ける。
「昨日寝てるとさ、深夜に妖怪ぬりかべが漬け物石のようにのし掛かってきて、どこの怪物かと思ったら、かあちゃんだ。おかげで今日は体中が痛くてさ」
「あ、あはは……」
「こんな辛い痛みをさ、礼名ちゃんみたいな可愛い子に癒して欲しいよな」
「わたしなんかより奥様の方がよっぽど美人じゃないですか」
「そんなこと……」
からんからんからん
ドアを開けて入ってきたのは高田さんの奥さん。
それを見て急に口をつぐむ高田さん。
しれっと笑顔でメニューを差し出す礼名。
カツカツカツ……
旦那さんの元へゆっくり歩み寄った奥さんは右耳からイヤホンを外す。
「誰が漬け物石のような巨大怪獣・妖怪ぬりかべですって?」
「ど、どうしてそれをっ!」
奥さんはイヤホンに繋がった小さな機械を高田さんの前に突き出した。
「この盗聴器が目に入らぬかっ!」
「ひっ、ひええっ! だじげでぐでっ! ぐぶげほっ!」
●★△?♂びきっ ★◎♀どすっ
奥さんのジャーマンスープレックスが見事に決まる。瀕死の高田さんに情け容赦なく襲いかかる妖怪ぬりかべ固めを必死に制止する礼名。
「はあはあはあ…… お、奥様いらっしゃいませっ」
「はあはあはあ…… 毎回ごめんね、礼名ちゃん。わたしはモーニングね」
いつもの光景、いつものスタート。
高田さんの悲劇がなくっちゃ始まらない。
常連さんのお陰もあって朝はいつもの賑わいだ。
だけど一時間もすると異変が起きる。
「今日はお客さん、少ないね……」
「そうだね……」
常連さん以外のお客さんが、全然来てくれないのだ。
勿論理由は分かっている。
時間を持て余す礼名はテイクアウトのコーナーに立ちムーンバックスの方を見ている。ムーンバックスも僕らと同じく七時開店。まるで合わせたかのように。
「どうした礼名?」
呆然と立っている礼名に声を掛ける。
「お兄ちゃん、ほら……」
礼名の視線の先、ムーンバックスに次々と人が吸い寄せられていく。
「凄いな。どこからあんなにお客さんが現れるんだ?」
仕事前のサラリーマンやサークル仲間らしいおばさん達、おめかししている女の子はデートの待ち合わせだろうか、そんなたくさんの人達が目の前のムーンバックスへと消えていく。
「看板も目立つからね。それにさ、中吉商店街にもお洒落なムーンバックスが出来るって、話題になってたし……」
「うちはお洒落じゃないのかよ……」
残念ながらカフェ・オーキッドはよくある街の小さな喫茶店。どう逆立ちしたってムーンバックスの洗練された装備に勝てるわけがない。
「あっ!」
寂しげだった礼名の表情が一変する。
彼女の視線の先には、ふたりの若い女性がいた。先週二日続けてテイクアウトしてくれた、礼名と同人マンガ話で盛り上がっていたお客さんだ。
礼名は窓から身を乗り出す。
そうして嬉しそうな笑顔を向ける。
が。
しかし……
彼女達は来なかった。
遠くで互いに二言三言会話をすると、ムーンバックスの中へと消えていった。
「あ……」
礼名の笑顔が凍り付く。
そして、みるみる項垂れる。
「……」
礼名がテイクアウトのお客さんに必ず声を掛け、話題を探して仲良くなろうとしていたことは誰の目にも明らかだった。そうして頑張って、やっと仲良くなれたと思ったお客さんが、今、ムーンバックスへと流れていく……
「やっぱり、ダメなのかな……」
か細い声を絞り出す礼名。
その日も、そしてその翌日も……
礼名がどんなに笑顔を振りまいても、ムーンバックスへの人の流れを変えることは出来なかった。
* * *
ムーンバックスが開店して一週間が過ぎた。
僕らの奮闘も虚しく、カフェ・オーキッドの客足は目に見えて落ちていた。
「悠くん礼名ちゃん大丈夫よ。今日も連チャンに連チャンを重ねて、チョコパ食べに来てあげるから!」
自ら『パチンコ乙女・清純派』を名乗る太田さんと細谷さんが力強くサムズアップする。清純って三十路になっても威張れることなのだろうか?
「はい、絶対勝ってくださいねっ! 待ってますねっ!」
笑顔で応対する礼名だけど、その間にもテイクアウトカウンターの様子を何度も何度も伺っている。売り上げ減少に気が気でないのだろう。
来週は金曜日からゴールデンウィークに突入だ。
最大のかき入れ時がもうすぐ来ると言うのに、このていたらく。
「いらっしゃいませ……」
今度こそはとテイクアウトカウンターに駆け寄った礼名の声が尻すぼみになる。
「月守さん……」
「これは礼名お嬢さん。一段とヒマそうじゃないですか」
「ム、ムーンバックスさんは大盛況で何よりですねっ」
「ほう、強がりだけはお盛んですね。じゃあアイスコーヒーを貰おうかな」
「あ、ありがとうございます。前回はホットでしたが、アイスもたくさんシロップをお付けしますか?」
「お嬢さんが一番だと思う味にして下さいな」
「は、はい……」
暫く月守さんを見ていた礼名はコーヒーが入ったカップを持ってカウンターに戻ってくる。練乳を取り出しドプドプと溶かし込むと、更にその上にクリームを浮かべる。
「はい、お待たせしました。三百二十円になります」
「うちは三百円なのに値段も強気ですよね、ヒマなくせに」
そう、この価格戦略も僕たちが苦戦している大きな原因なのだが、ここは絶対譲れないところなのだ。うちは高くても丁寧なサービスが売りの喫茶店、安いだけの店だと思われたら、もうおしまいなのだ。どんなにお洒落でもムーンバックスはセルフサービスのお店、そんな店より安い値付けは許されない。
「商品は決して負けていませんので」
「ほう……」
カップを受け取ると、その場でストローに口をつける月守さん。
「んんっ…… ほほう、これは激甘ですね、口の中にベトベトとまとわりつく、嫌らしいほどにしつこい甘さ、確かに俺好みだ。ますます元気が出ますよ。じゃあまた……」
「ありがとうございます」
「そうだ!」
去りかけた月守さんが何かを思い出したように振り返る。
「礼名お嬢さん、お金に困ったらいつでも連絡くださいよ。あなただけは丁重に扱うよう言われていますのでね」
「言われてるって、誰にですか!」
「それは言えませんけど、わかりますよね! じゃあ、アディオス・アミーガ!」
キザっぽく笑いながら去っていく月守さん。
「やっぱり! 桂小路は、お兄ちゃんの事を!」
歯噛みしながら、礼名は確かにそう呟いた。




