第3章 第6話
その夜、礼名が語った作戦はとてもシンプルなものだった。
「コーヒーのテイクアウトで勝負だよ。ムーンバックスの得意とするところで真っ向から勝負を挑もうよ!」
晩ご飯の親子丼を挟んで食卓に座る礼名と僕。
「う~ん、ムーンバックスは優れたコーヒーマシンを持ってるだろ。それに対してうちは一杯立てのドリップ。コーヒーの提供に時間が掛かってしまうんじゃないか?」
「メニューは絞ればいいと思うんだ。基本コーヒー1種類。お兄ちゃんが淹れたコーヒーは絶対世界一だから」
「って、おだててくれてもなあ。しっかし今日の親子丼は美味いな。卵たっぷりだし」
「お代わりしてもいいよっ。今日お客さん少なかったから、卵が余っちゃったでしょ。ドンドン食べようよ。あっ、でも二杯目は鶏肉ないから、単なる玉子丼、だけどねっ」
僕のどんぶりがほとんど空なのを見ながら礼名は微笑む。
「ありがとう。でもさ、それで勝てるかな。相手はムーンバックスだよ、人も設備もノウハウも全て揃っているじゃないか」
「ムーンバックスが人気の最大の理由は、『ムーンバックス』自体にブランド価値があるからだよね。勿論、美味しいとか商品が魅力的ってのもあるけどさ。でも『ムーンバックスで買ったらかっこいい』って風潮を上手に作ってるでしょ。だからさ、カフェ・オーキッドはその希少性を価値に変えるんだよ。ここにしかない、お兄ちゃんしか作れない、わたしにしか売れない、そんな価値を作るんだよ! あっ、お代わりの玉子丼いま作るねっ」
立ち上がる礼名。
そして僕の玉子丼を作りながら、礼名が僕に出した要求はとってもシンプルだった。
「だからさ、お兄ちゃんはその日の天候や時節に合ったコーヒーをホット、アイス一種類ずつ、大きめのコーヒーポットに作ってよ。あとは礼名の仕事だからさ」
「礼名の仕事って?」
「単なる売り子だよ。でもムーンバックスには絶対出来ないサービスをするよ!」
自信に満ちた彼女の言葉を聞いてると、少し勇気が湧いてくる。
「あんなイヤミなキザ野郎になんか絶対負けないよ!」
「ああ、絶対見返してやろう」
「そうだよ、その意気だよ! 当たって砕けようよっ!」
砕けるのか、やっぱり……
と、そう言えば……
僕は食卓の隅にあった茶色い封筒を手に取る。
「まだ、見てもいなかったな」
今日、ムーンバックスの月守さんが置いていった封筒。
僕はそれをゆっくり開けると中の書類に目を落とす。
「何が書いてあるの?」
「これはっ……」
思わず目を見張ってしまった。
そこに書かれていた僕への待遇は、月給だけでも今の売り上げの二倍以上。その上各種手当てや賞与、立派な社会保険、格安で使える保養所などの手厚い福利。どう見てもムーンバックスにお世話になった方が礼名にいい暮らしをさせてあげられる。そしてもう一式、礼名の待遇は…… 特別奨学生? 礼名はあくまで高校生のアルバイト扱いなんだな……
「ねえ、わたしにも見せてよっ」
礼名がその書類をかすめ取る。
そして暫し黙読。
「凄い…… あり得ない好待遇だね……」
「うん、高校中退で最初っからその条件は凄いよね」
「…… お兄ちゃん、これって絶対裏で桂小路が糸を引いてるよね」
「あっ、やめろっ!」
「こっぱミジンコッ!」
ビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリビリ
僕の制止も及ばず、礼名はその書類を心ゆくまで細切れに破りまくった。
「お兄ちゃん、まさか一瞬でも桂小路の罠に嵌ろうなんて考えなかったよねっ! 絶対ダメだよ! そこは地獄への入り口なんだよ! 生きたまま殺されるんだよ!」
「なあ礼名、確かにこの特別な条件を見ると裏があるのは間違いないと思う。だけど、僕がこの誘いを受けたら、礼名は今みたいに朝から晩まで働き詰めなくってもよくなるんだよ。週末は休めるし、もっと美味しいご飯も食べられて、気兼ねなくトンカツも食べられて、牛肉だって食べられて、たまには外食だってできるんだ。中古だったらピアノだって買えるかも……」
「やめてっ!」
「えっ」
「礼名はちっとも嬉しくないよ、そんなの全然嬉しくないよ……」
礼名は俯いたまま、僕の言葉を遮って、絞り出すように語りかけてくる。
「桂小路はわたしとお兄ちゃんの楽しい毎日をぶち壊そうとしてるんだよ。お兄ちゃんが雇われの身になったら、異動でも解雇でもしてあとはやりたい放題なんだよ。絶対それを狙ってるんだよ。わたし、貧乏だって全然辛くないよ。お兄ちゃんと一緒だったら、それだけでいいんだよ。桂小路に連れて行かれたら、きっとわたしとお兄ちゃんは引き裂かれるんだ。自由も夢も希望もない、窮屈で冷たくて陰湿な生活が待ってるんだよ。生きていても死んだも同然だよ。だから、桂小路に近づかないで。わたしと……」
ダンッ!
「礼名といつまでも一緒にいてよっ!」
机に手を突き立ち上がった礼名の声は、絶叫に近かった。
「ごめん礼名。そうだな、僕が悪かったよ」
「あっ、いえ、礼名こそごめんなさい。お兄ちゃんはいつもわたしのことを想って言ってるんだよね。分かってるのに……」
やっぱり礼名も気が付いているのだろうか、桂小路が彼女を欲しがる理由を。
桂小路で彼女を待っている生活は華やいだ上流社会の生活であり、お金持ちの御曹司達との出会いの日々であり、そしてそれが政略結婚へと繋がると言うことを。
「しかしさ、ムーンバックスでわたしたちを追い詰めて、店舗改装と言う逃げ道にも倉成銀行の罠を仕掛けてくるなんて、敵ながらよく考えるよね」
「ああ、桂小路のおじいさんは、やり手だからな」
「ねえ、お兄ちゃん約束して。お兄ちゃんはいつだって礼名の味方だって。桂小路に気を許さないって」
「勿論だよ。絶対に約束するよ」
僕の言葉に礼名は可愛らしく嘆息すると、表情を一変させた。
「よかったっ。じゃあお兄ちゃん、食後のデザートを準備するねっ!」